第21話 神話の継承、リーズラグドの伝承
爆風が止んだ後の王城バルコニーには、耳が痛くなるような沈黙が降りていた。
レオンハルトの手に残されたのは、半ばから無残に折れ、無数のひびが入った鈍色の鉄剣の柄だけだった。戦神の神気を無理やり流し込んだ代償として、鉄剣はその本質を失い、ただの脆い屑鉄へと成り果てている。
「はぁ、はぁ……っ……」
レオンの膝が笑っていた。
全身の毛細血管が弾けたような熱痛が走り、口内には鉄の味が広がる。
たった一撃、遠距離から放たれた「飛礫」を防いだだけで、大陸最強と謳われた彼の肉体が悲鳴を上げているのだ。
夜空を見上げれば、そこには依然として、月よりも巨大で不吉な「黒い穴」が浮かんでいる。
グラン・メリアの殺害された民――数十万を呑み込み、イザベラの嫉妬と悪魔の魔力を核にして肥大化した「暗黒の海」。
それが重力を無視して空に留まっている光景は、もはや既存の魔法体系では説明がつかない、理の外側の事象であった。
「レオン様、無理に立たないでください……!」
フィリアが駆け寄り、倒れそうになるレオンの体を必死に支える。
彼女の手は震えていたが、その瞳には逃れられぬ運命を直視する、王族としての強固な意志が宿っていた。
そして、フィリアの身体から光があふれ、レオンの負傷した体を癒した。
「フィリア……これは。いや、それよりすまない――情けない姿を見せた」
「いいえ、あなたがいてくれなければ、今頃この国は……。ですが、レオン様。あの一撃は、始まりに過ぎません。あの黒球の核にいる者は、あなたを――正確には、あなたと関わる全ての『光』を消し去るまで、その歩みを止めないでしょう」
フィリアは、レオンをバルコニーの影にある石造りのベンチへと座らせると、暗い空を見つめて静かに語り始めた。
「レオン様。あなたが受けている『戦神アレースの加護』。それがなぜ、この時代に、あなたという清き魂の持ち主に授けられたのか……その理由を考えたことはありますか?」
「……考えたこともなかった。ただ、この力で誰かを守れるなら、それでいいと思っていた」
「ラトニアの王家には、建国以前の古の時代から伝わる秘匿された伝承があります。それは、この世界がかつて一度、終わりを迎えた時の物語です」
フィリアの語る言葉は、夜風に乗って重く響いた。
この世界には「破壊神」と呼ばれる存在が降臨したという。
それは生命の進化を否定し、世界を虚無に帰す「終わりの神」だった。
当時の神々と英雄たちは、その神を殺し切ることができず、その肉体を七つに引き裂き、大陸の各地に厳重に封印した。
「あのイザベラという女性は、悪魔レヴィアタンに唆され、自らを『人柱』として捧げることで、聖都の地下に眠っていた一片の封印を解いてしまったのです。数十万の民を虐殺し、その絶望を触媒にすることで、破壊神を現世に受肉させた……。あれはもう、人間ではありません。破壊の神の器となった絶望そのものです」
レオンは拳を握りしめた。
自分の祖国が、そこで暮らしていた民たちが、一人の女の狂気によって神への生贄にされたという事実に、吐き気を催すような憤りを感じた。
「……そんな化け物を、どうやって倒せばいい? 剣は砕け、近づくことすら叶わない相手を」
「希望はあります。――実は私、つい先ほど『地母神ガイア』さまより、聖女に任命されました」
「君が、聖女に……」
「はい。聖王国の地下から破壊神が復活し地上へ現れたことで、土地の縛りが解け――封印された国以外からも聖女が選ばれるようになったみたいです」
フィリアは立ち上がり、レオンの手をそっと引いた。
「リーズラグドの伝承では、英雄は独りで戦ったわけではありません。彼を導く聖女ソフィと共に、敵の懐へと飛び込んだのです」
フィリアはレオンの泥に汚れた手を、両手で包み込んだ。
「リーズラグドでも破壊神の一片が復活したことがありました。国は滅びかけ、人々は絶望に沈みました。しかしその時、神に見出された一人の英雄が立ち上がったのです。その男こそが、『戦神アレースの加護』を受けた者「王子アレス」。彼は聖女と共に、自らの命を聖火として燃やし、破壊神の肉体を削り切り、その核を貫いて討ち果たしたとされています」
レオンは沈黙した。
自分が受けている力が、そんなに大層なものだとは思ってもみなかった。
グラン・メリアではただの便利な「剣」として使われ、不要になれば捨てられた力。
だが、その力の真意は、世界を滅びから救うための最後の切り札だったという。
自分にその重責が耐えられるのか。
自分のような、一度は居場所を失った男に、神を殺すなどという大業が成せるのか。
迷うレオンの心を見透かしたように、フィリアが彼の胸にそっと頭を預けた。
「……怖くないと言えば、嘘になります。あなたをこれ以上、戦いに駆り立てたくはない。ですが、あの黒い海は、あなたがどこへ逃げても追いかけてくるでしょう。そして、私やラトニアの人々を飲み込んでいく。……私は、あなたと共に歩みたい。一緒に、明日を笑って過ごせる世界を取り戻したいのです」
フィリアの温もりが、レオンの震える心に芯を通した。
そうだ。
迷っている暇などないのだ。
イザベラは、自分の愛したこの穏やかな国を、フィリアの笑顔を、ただの「邪魔なもの」として消そうとした。
そのために数十万の命を弄んだ。
その身勝手な狂気を許すことは、騎士としての誇りが、そして何より一人の男としての情愛が許さなかった。
「……分かったよ、フィリア」
レオンは深く息を吐き、砕けた剣の柄を固く握った。
「俺は、破壊神に立ち向かう。王子アレスが成し遂げたように、あの神を……イザベラを、俺の手で終わらせる。これ以上、誰も泣かせないために」
レオンの瞳に、黄金の炎が宿る。
それは以前のような、ただ外敵を追い払うための鋭さではなかった。
宿命を受け入れ、未来を切り拓こうとする者の、静かで深い覚悟の光だった。
「私も行きます、レオン様。あの黒球の内部には、強大な負の魔力が渦巻いています。私の祈りと聖なる加護がなければ、あなたは神の威圧に魂を削り取られてしまう。どうか、私をあなたの盾に、あなたの光にさせてください」
「危険すぎる、フィリア。……あそこは地獄だ」
「あなたが地獄へ行くのなら、私もそこへ参ります。一人で背負わせることは、もう二度といたしません」
フィリアの決意は揺るぎなかった。
レオンはしばらく彼女を見つめていたが、やがて諦めたように、しかしどこか嬉しそうに微笑んだ。
「……頑固だね。分かった。俺の背中は、君に預ける。……必ず、二人で帰ってこよう」
翌朝、ラトニアの王都に朝日が昇る頃、二人の姿は城の厩舎にあった。
もはや大軍を率いる時間はない。
それに、神を相手にする戦いに兵士を連れて行くのは無益な殺生に等しい。
レオンは予備の頑丈な鉄剣を数本帯に差し、フィリアを愛馬の背に乗せた。
目指すは南東。
かつて彼を拒絶し、今は死の沈黙に支配された旧祖国、グラン・メリア。
空に浮かぶ暗黒の巨星が、嘲笑うように二人を見下ろしている。
英雄伝説の再来。
一人の「英雄」と、彼を支える「聖女」の、世界の滅亡に抗うための旅路が、今ここから始まった。




