第20話 天空の黒球、天を裂く凶弾
北の空で世界を護っていた白銀の光が消え去った直後、本当の絶望は、レオンハルトたちの予想もしない方角から姿を現した。
「……レオン様、あれは……!」
ラトニア王城のバルコニーで、フィリアが震える指で南東の夜空を指差した。
彼女の視線の先、グラン・メリアの王都の方角――
その空に、本来そこにあるはずのない「異物」が浮かび上がっていた。
それは、巨大な漆黒の球体だった。
夜の闇よりもなお暗く、星々の光を吸い込むような絶対的な虚無。
雲海を突き抜けて天に浮かぶその姿は、まるで大地から抉り取られた「暗黒の海」が、重力を無視して空中で丸まっているかのような、おぞましい光景だった。
距離にして何百キロも離れているはずなのに、その輪郭は恐ろしいほどはっきりと見て取れる。
それほどまでに、その球体は規格外の質量と体積を誇っていたのだ。
「……っ、空気が、震えている……?」
レオンハルトは反射的にフィリアを自身の背後へと庇った。
物理的な距離は関係なかった。
その黒い球体が空に現れた瞬間から、ラトニアの空気が一変したのだ。
肺に吸い込む風が粘り気を帯び、肌を刺すような悪寒が全身を駆け巡る。
それは数百万の人間が同時に絶望し、悲鳴を上げているような、途方もなく重く、どす黒い「負の魔力」の波動だった。
『……レオン……わたしの、レオン……』
不意に、レオンの脳裏に直接、ぬちゃりとした粘着質な声が響いた。
声の主は間違いなくイザベラだった。
だが、それは人間の発する音声の波長ではない。数多の怨霊と悪魔が混ざり合い、ひとつの巨大な「意志」として統合された、呪いの反響音だ。
「イザベラ……お前は、自分の国を、民を喰らったというのか……!」
レオンがギリッと奥歯を噛み締めたその時、彼の魂の根底にある『戦神アレースの加護』が、激しい警鐘を鳴らした。
視界の端で、遠く空に浮かぶ巨大な黒球の表面が、不気味に波打つのが見えた。
漆黒の海の一部が渦を巻き、隆起し、やがて一つの巨大な「水球」として切り離される。
その瞬間、レオンは戦士としての直感で悟った。
あの水球の狙いは、ラトニアという国ではない。
自分でもない。
イザベラの病的な嫉妬が、明確な「殺意」として、自分の背後にいるフィリアただ一人にロックオンされたのだということを。
「レオン様……!」
フィリアが恐怖に身をすくませ、レオンの服の裾を強く握りしめた。
「目を閉じていてください、フィリア。……絶対に、君を――護ります」
レオンハルトは腰に帯びた鈍色の鉄剣を引き抜いた。
数日前、カシウスとの戦いでは封印した「神の力」の枷を、彼は躊躇うことなく全て外す。
「……邪魔な女……消えなさい……!」
脳内に響く狂気の声と同時に、黒球から分離した暗黒の水球が、猛烈な速度で射出された。
それは、文字通りの「天災」であった。
音速を遥かに超える絶望の弾丸が、雲海を一直線に切り裂きながらラトニアへと向かってくる。
大気が悲鳴を上げ、摩擦によって凶弾の周囲に赤黒いプラズマの閃光が走る。
着弾まで、わずか数秒。
回避など不可能だ。城を捨てて逃げたところで、あの質量と魔力の塊が地表に激突すれば、ラトニアの王都そのものがクレーターと化し、地図から消え去る。
――『戦神アレースの加護、限界突破』。
夜の闇を打ち払うように、レオンの全身から黄金の神気が爆発的に噴き上がった。
背後に幻視される巨大な戦神の影が、手にした剣を大上段に構える。
それに呼応するように、レオンの安物の鉄剣が眩い光の奔流となり、もはや本来の刀身の形を失うほどの「光の巨大剣」へと変貌を遂げた。
「おおおおおおおぉぉぉぉぉッ!!」
レオンの咆哮と共に、天を裂く凶弾がラトニア王城の上空に到達した。
視界を埋め尽くす、死と絶望の濁流。
それがフィリアを飲み込もうと牙を剥いたその瞬間、レオンハルトは光の聖剣を真っ向から振り抜いた。
激突。
音という概念が消失した。
黄金の光と、漆黒の泥水が、王城の数十メートル上空で拮抗し、相反するエネルギーが世界の理を軋ませる。
凄まじい衝撃波が円形に広がり、王都の建物の窓ガラスが一斉に砕け散り、屋根瓦が嵐のように吹き飛んだ。
「ぐ……うぉぉぉぉッ!」
レオンの腕の筋肉がはち切れんばかりに膨張し、皮膚から血が滲む。
重い。
ただの液体の質量ではない。
そこにはグラン・メリアの死者数十万の民衆の怨念と、悪魔の呪い、そして破壊神の力が圧縮されているのだ。少しでも気を抜けば、光の刃はへし折られ、自分たちもろとも城が圧壊する。
(俺は……守るんだ! この温かい国を、彼女の笑顔を!!)
レオンの目から血の涙がこぼれ落ちる。
彼は踏みとどまるだけでなく、さらに前へ、天上へと向かって剣を押し込んだ。
戦神の加護が限界を超えて輝きを増し、光の刃が、ついに暗黒の凶弾の中心部を捉えた。
「――断ち斬るッ!!」
閃光。
巨大な水球の真ん中に、黄金の亀裂が走った。
次の瞬間、凶弾は真っ二つに裂け、内部に圧縮されていた負の魔力が臨界点に達して大爆発を起こした。
黒い泥水はラトニアの街に降り注ぐことなく、聖なる光の熱線によって空中で一瞬にして蒸発し、霧散していく。
爆風が吹き荒れた後、夜空には再び静寂が戻った。
レオンハルトは荒い息を吐きながら、光を失い、元の姿に戻った鉄剣を下ろした。剣の刀身には無数のひびが入り、今にも砕け散りそうだった。
彼自身の肉体も、限界を超える神気の放出により悲鳴を上げている。
「……防ぎ、切った……」
レオンがその場に膝をつきそうになった瞬間、柔らかな腕が彼を支えた。
「レオン様……! ああ、血が……」
フィリアが涙を浮かべながら、手巾でレオンの顔の血を拭う。
「大丈夫です……これくらい。それより、フィリアに怪我がなくてよかった」
レオンは無理に微笑みを作ったが、その視線はすぐに再び南東の空へと向けられた。
たった一撃。
それも、あの黒球から分離したほんの「一撃」を弾き返すだけで、これほどの力が必要だったのだ。
遠く離れた空には、依然として巨大な「暗黒の海」が悠然と浮かんでいる。
まるで、今のはほんの挨拶に過ぎないと言わんばかりに。
「レオン様……」
フィリアもまた、その絶望の天体を見上げていた。
しかし、彼女の瞳に宿っているのは、先ほどまでの恐怖だけではなかった。
地母神ガイアから聖なる力を与えられた者としての、深い覚悟の光がそこにあった。
「あれは、ただの魔物でも、悪魔でもありません」
フィリアの透き通るような声が、夜風に溶ける。
彼女の声には、先ほどまでにはなかった神聖さが宿っていた。
「聖都の地下に封印されていた、破壊神のひと柱……。それが、復活してしまったようです」
「破壊神……」
「はい。遥か東のリーズラグドという国で、今回と同じように復活した破壊神の伝承が残っています。破壊神を打ち滅ぼした英雄の伝説と一緒に……その英雄の名は、『アレス』。戦神の加護を得ていたとされています」
フィリアは真っ直ぐに、レオンの瞳を見つめ返した。
「同じ戦神の加護を受けたあなたになら……きっと、あの神を殺すことができるはずです」
神殺し。
その言葉の重さが、レオンハルトの魂に深く突き刺さる。
迫り来る世界の終焉を前に、一人の青年が真の英雄へと覚醒するための、長く過酷な戦いが幕を開けようとしていた。




