第19話 生贄の儀式と七つ裂きの神
グラン・メリアの王宮は、もはや石と漆喰で造られた建築物ではなかった。
数百万の人々の悲鳴、裏切りへの怒り、そして数十万の死の瞬間の恐怖。
それらが物理的な「負の魔力」として王宮全体を侵食し、壁は絶えず脈打つ赤黒い肉壁へと変貌していた。
窓からはガラスの代わりに粘り気のある黒い煙が溢れ出し、空を覆う漆黒の帳と繋がっている。
その最深部、グラン・メリア王家が禁忌を封印していた地下書庫。
中心に立つイザベラ・ヴァロアの姿は、もはや悪夢の中の住人ですら正視できないほどに変容していた。彼女の美しい顔は半分がドロドロと溶け出し、その裂け目からは無数の「目」が瞬きを繰り返している。
「……ああ、聞こえるわ。みんなが私を呼んでいる。レオンも、もうすぐここに来るのね」
彼女が呟くたび、足元から溢れ出す黒い液体が、王宮の床を腐食させながら際限なく広がっていく。その液体の中には、犠牲となった民衆や騎士たちの顔が浮かび上がっては消え、絶え間なく呪詛を吐き続けていた。
『くくく……素晴らしい。これほどまでに上質な「嫉妬」の器は、数千年ぶりだ』
イザベラの影の中から、悪魔レヴィアタンがその真の姿を現した。
それは巨大な深海魚と、蛇と、蛸を継ぎ接ぎにしたような、存在自体が法を犯しているような異形。
『女よ。お前の望みは「レオンハルトという人間を自分のもとに連れてくること」だったな。……ならば、お前自身がこの世界の敵となればいい。すべてを飲み込み、神の一部となり、世界に破壊を与える「理」となるのだ』
「……ええ。彼が戻ってくるのであればなんでもいいわ。彼がいない世界に価値なんかない。だったらすべて壊してあげる……それが、私の愛よ」
イザベラの狂った宣言と同時に――
王宮の地下深く、大地そのものが悲鳴を上げた。
ゴォォォォォォォォ……!!
地殻を突き破り、黄金の鎖に繋がれた「何か」が、イザベラの足元から競り上がってきた。
それは、神話の時代に七つに引き裂かれ、各地に封印されたという「名前を失った破壊神」のひと柱。
それは巨大な赤黒い塊であり、それ自体が宇宙の深淵を覗かせるような虚無を放っていた。神の欠片は、イザベラが放つ圧倒的な負の感情に引き寄せられ、彼女の肉体へと強引に割り込んでいく。
「が、あ……あ、あ、あああああああぁぁぁぁぁぁッ!!」
イザベラの絶叫が、王都グラン・メリアの全域に響き渡った。
融合は、緩やかなものではなかった。
破壊神の神威がイザベラの人間としての神経系を焼き切り、レヴィアタンの魔力が彼女の魂を繋ぎ止め、無理やり神の器として固定していく。
パキパキ、ボキボキッ。
彼女の骨が一本残らず砕け、筋肉が繊維状に解けていく。
皮膚は破れ、そこから溢れ出したのは鮮血ではなく、数十万の魂が混ざり合った「暗黒の液体」だった。
それはイザベラの形状を保つことをやめ、急速に肥大化していく。
彼女の意識は、膨大な情報の荒波の中に消えゆきながらも、ただ一点――レオンへの執着だけを核として燃え続けていた。
(レオン……レオン、レオン、レオン、レオンレオンレオンレオン!!)
名前を呼ぶたびに、黒い液体は王宮を飲み込み、街を飲み込み、周囲の魔獣さえも自分の一部として取り込んでいった。
イザベラという強力な「嫉妬」を核とし、悪魔レヴィアタンというフィルターを通したことで、その神の欠片は「すべてを飲み込み、同化する黒い海」としての性質を獲得したのだ。
王宮が、ついに内側からの圧力に耐えきれず爆発した。
だが、飛び散ったのは瓦礫ではない。
それは、重力を無視して天へと逆流する、数千、数万トンの「暗黒の液体」だった。
夜空の中心、グラン・メリアの王都があった場所から、巨大な黒い柱が天を突く。
雲が渦を巻き、雷鳴が轟く中、その液体の柱は一点に集束し、巨大な「球体」へと姿を変えていった。
それは、月よりも巨大に見えるほどの、漆黒の天体。
地上から見上げれば、まるで空に巨大な穴が空いたかのような、完璧な虚無の球体。
そこからは無数の触手が地上へと伸び、まだ息のある生命を求めて這いずり回っている。
イザベラ・ヴァロアは、もういない。
悪魔レヴィアタンという意思も、今やこの巨大なシステムの一部。
そこに在るのは、世界を終わらせるために再定義された、「破壊神・イザベラ」。
漆黒の球体の中から、ドクン、ドクンと、大地を震わせる鼓動が響く。
そのたびに、世界中の魔力がこの一点へと吸い寄せられ、周囲の空間はひび割れていく。
その球体の中心で、イザベラの残留思念が、遠く離れたラトニアの地を見つめていた。
そこには、彼女が憎んでやまない、レオンが守ろうとしている「光」がある。
力尽きた聖女の後釜が、地母神ガイアによって選ばれようとしている。
「……見つけたわ、レオン。……あなたの『邪魔なもの』を、今すぐ消してあげる」
黒い球体の一部が、猛烈な速度で回転を始めた。
それは、数十万の怨嗟を一点に圧縮し、物理法則さえも無視した破壊の光を放つための予備動作。
大陸全土を震わせる、神の産声。
それは救済ではなく、完全な終焉を告げる号砲。
聖女を失った世界に、かつてない絶望の弾丸が放たれようとしていた。




