第18話 絶望の苗床、グラン・メリアの最期
かつて「白亜の真珠」と称えられたグラン・メリアの王都は、今や巨大な墓標へと成り果てていた。
大通りを彩っていた華やかな旗は引き裂かれ、街路樹は不気味に枯れ果て、石畳の隙間からはどす黒い粘液のような霧が絶えず噴き出している。
太陽の光は厚い暗雲に遮られ、正午であっても街は夕暮れ時のような、不吉な薄闇に支配されていた。
街のいたる所から聞こえてくるのは、以前のような活気ある商人の声ではない。
「助けてくれ」
「腹が減った」
「神様、レオン様……」
湿った風に乗って運ばれてくるのは、絶え間ないすすり泣きと、腐敗した肉の臭いだ。
この広場でレオンハルトに石を投げ、彼を「悪徳騎士」と罵ったパン屋の店主は、今、薄汚れた路地裏で震えていた。
「……こんなはずじゃなかったんだ。あの男がいなくなれば、重い税も、戦いの恐怖も、全部なくなるって……あの貴族たちは言ったじゃないか……」
彼の家族は、数日前に城壁を越えて侵入してきた下級魔獣に食い殺された。
騎士団に助けを求めても、返ってきたのは冷たい沈黙と、閉じられた城門だけだった。
皮肉なものだ。
彼らが「汚らわしい」と蔑み、追い出した英雄こそが、彼らが今喉から手が出るほど欲している「平穏」そのものだったのだ。
その惨状を、王宮の最上階からうっとりと見下ろす影があった。
イザベラ・ヴァロア。
彼女の姿は、数日前よりもさらに「人間」から遠ざかっていた。
肌は透けるように白く、その下を走る血管はどす黒い意志を持って脈打っている。
背中からは、影が実体化したかのような禍々しい触手がゆらゆらと立ち昇り、彼女の周囲の空間そのものを歪めていた。
『……素晴らしい。実に見事な「苗床」だ、イザベラ』
彼女の影の中から、悪魔レヴィアタンの声が響く。
『この街を満たしているのは、純度の高い嫉妬、後悔、そして底なしの絶望だ。聖王国の聖女が死に、世界の均衡が崩れた今、これだけの「糧」があれば……あのお方の封印を解くには十分すぎる』
「ふふ、そうでしょう? 彼らはとても優秀な家畜だわ」
イザベラは、狂気を宿した瞳で王都を愛でるように眺めた。
「でも、まだ足りないの。もっと、もっと鋭い悲鳴が欲しいわ。レオンが、この音を聞いて、いてもたってもいられなくなって駆けつけてくれるような……最高の合唱が必要なのよ」
彼女は、マリアンヌたちが座っていたソファに深々と腰を下ろした。
そのソファには、今や生首となったマリアンヌの剥製が飾られている。
「カシウス。……聞こえるかしら、私の可愛い家畜さん」
背後の闇から、ガチガチと金属が擦れる不快な音が響いた。
そこには、もはや騎士の面影を微塵も残していない、黒い塊が立っていた。
全身を黒い粘液質の肉とひしゃげた甲冑が覆い、四つの紅い眼球が独立して動いている。
数カ月前はカシウスであったその怪物は、喉の奥からヒュウヒュウと音を漏らし、イザベラの前に跪いた。
「『収穫』の始まりよ。……街へ降りなさい。そして、生き残っている全ての民に、平等に『絶望』を与えてあげるの。殺してはいけないわよ? 死ぬ間際の一瞬まで、自分たちの愚かさを呪い、レオンを求めて泣き叫ばせるの。その感情の昂りが、あのお方の扉を開く鍵になるのだから」
異形の騎士カシウスは、獣のような咆哮を一つ上げると、窓から街へと飛び降りた。
それに続くように、王宮の地下から、黒い霧に汚染された「狂騎士」たちが次々と街へ解き放たれていく。
街は、真の地獄へと変貌した。
「選別」という名の無差別な虐殺が始まったのだ。
騎士たちは、守るべきはずだった民衆に襲いかかった。
だが、彼らは一撃で息の根を止めることはしない。
わざと手足を切り落とし、家々に火を放ち、人々が互いを踏みつけ合って逃げ惑う様子を、歪んだ快楽とともに観察する。
「やめてくれ! 私は、私はイザベラ様を支持していたんだ! 教会に寄付もした!」
裕福な商人が金貨の袋を差し出して命乞いをするが、異形のカシウスはその腕を袋ごと食いちぎった。
「あが……あ、あああああッ!!」
商人の絶叫が響き渡る。
その悲鳴に呼応するように、街を覆う黒い霧がより一層濃く、粘り気を帯びていく。
人々の負の感情。
それが、物理的なエネルギーとなってイザベラの元へと集束し始めていた。
レオンに向けて放たれた罵詈雑言。
他人を蹴落としてでも生き残ろうとした醜い執着。
それら全てが、イザベラというフィルターを通じ、聖王国の地下に封印された「破壊神」への捧げ物へと変換されていく。
王都グラン・メリアは、もはや国家としての機能を完全に失っていた。
そこにあるのは、ただ巨大な「絶望の発電所」としての機能だけだ。
イザベラは、民衆が自分の名前を呪い、レオンの名を呼ぶたびに、身体の奥底から込み上げる悦楽に身を震わせた。
「そうよ……もっと呼んで。もっと私を憎みなさい。もっと彼を求めなさい」
彼女の背中から生えた触手が、王宮の壁を突き破り、天へと伸びていく。
王都の上空に溜まった黒い霧が、渦を巻いて下降し、イザベラの体内へと吸い込まれていく。
彼女の魂は、数十万の怨嗟を飲み込み、肥大し、そしてついに、人間の器が耐えられる限界を超えた。
「ああ……来るわ。ついに、お会いできるのね……」
イザベラの瞳から、白い光彩が消えた。
代わりに溢れ出したのは、底の見えない真っ黒な「暗黒の液体」だった。
それは涙のように頬を伝い、床に落ちた瞬間に、石材を腐食させながら際限なく増殖していく。
グラン・メリアの王宮が、内側から黒い影に飲み込まれていく。
空は完全に漆黒に染まり、星も月も消えた。
そこにあるのは、ただ巨大な、脈動する「絶望の塊」だけ。
屈強な騎士たちも、令嬢たちも、そして苦しみ藻掻く民たちも。
全てはこの「苗床」を育てるための肥料に過ぎなかった。
大陸全土に、響くはずのない重低音の鼓動が伝わっていく。
ラトニアで剣を握るレオンハルトの耳にも、その「世界の断末魔」は届いていた。
グラン・メリアという国は、この日、地図の上から消滅した。
代わりに誕生したのは、神話時代の悪夢そのもの。
次なる段階――
「破壊神復活」への準備は、一滴の慈悲も残さぬ虐殺によって、完璧に整えられたのである。




