第17話 聖女の祈り、潰える結界
大陸の最北端、峻厳な氷壁に囲まれた聖王国は、かつて一度も外敵の侵入を許したことがなかった。
この国を包み込むのは、歴代の聖女がその身を捧げて維持してきた「銀の天蓋」と呼ばれる神聖な結界だ。
この光の膜は、物理的な侵攻を防ぐだけでなく、人の心を惑わす邪気や魔の気配を浄化し、国全体を永遠の静謐の中に置くはずのものだった。
しかし今、その白銀の空は、濁った鉛色に変色しつつあった。
「……ああ、なんと重く、苦しい……。これは、人の心が生み出した毒か……」
聖都の中央にそびえ立つ大聖堂の奥深く。
冷たい石畳の上に膝をつき、聖女ローゼメアリーは震える指先を組んでいた。
彼女の背後には、聖王国の栄光を物語るステンドグラスが並んでいるが、そこから差し込む光は弱々しく、彼女の枯れ木のような体を照らすにはあまりに頼りなかった。
ローゼメアリーはすでに七十年の歳月をこの祈りに捧げてきた。
かつては「神の愛し子」と謳われた彼女の潤った髪は今や白く干らび、その瞳は光を失いつつある。
聖女の力とは、神からの一方的な恩寵ではない。
自身の生命力を、神聖な魔力へと変換し続ける「生きた炉」としての責務だ。
彼女は、聖女に任命されてから、一時も休むことなく自らの命を燃やし、国の盾となってきた。
だが、ここ数ヶ月、結界にかかる負荷は異常なまでに膨れ上がっていた。
隣国グラン・メリアから、人々の負の感情で強化された魔物たちが、津波となって押し寄せているのだ。
英雄を排斥し、嫉妬に狂い、疑心暗鬼に陥った何百万という民衆の怨嗟。
そして、王宮の奥底で悪魔と契約した女が放つ、ドロドロとした狂気の波動。それらが北風に乗って聖王国を叩き、清浄な結界を腐らせていく。
「ローゼメアリー様! もうおやめください! これ以上は、御身が持ちませぬ!」
若い司祭が涙ながらに駆け寄る。
だが、ローゼメアリーは静かに首を振った。
「私が手を止めれば、この国は一刻と持たず魔に飲み込まれます。……わかっています。次の聖女が現れるのは数年先でしょう。この波は――私が、防がねばならないのです」
その時だった。
ズゥゥゥゥゥンッ!
という、大気を揺らす不気味な振動が聖都を襲った。
物理的な地震ではない。
それは、結界の強度が限界を超えた際の発散現象だった。
聖都の外壁付近にいた騎士たちは、信じられない光景を目にしていた。
結界の外、吹き荒れる吹雪の中から、巨大な山のような影がいくつも姿を現したのだ。
それは、通常の魔物とは明らかに一線を画す「大魔獣」の群れだった。
人々の恐怖や憎悪を触媒として受肉したそれらは、肉の塊というよりは、黒い怨念の集合体に見えた。体長数十メートルに及ぶ巨体が、結界の膜にその鉤爪を立て、ギチギチという耳障りな音を立てて引き裂こうとしている。
「……来ましたか」
ローゼメアリーの脳裏に、凄惨な光景が走る。
魔獣たちは飢えていた。物理的な肉ではなく、聖王国の民が持つ「清浄な魂」を、絶望というスパイスをかけて食らうために集まってきたのだ。
「おお、主よ……。どうか、私の最後の息を、この国を救う糧に変えたまえ……!」
ローゼメアリーが叫び、天を仰いだ。
彼女の全身から、それまでとは比較にならないほどの純白の光が溢れ出す。
文字通り、魂の芯まで燃やし尽くす最後の一撃。
「銀の天蓋」が一瞬だけ輝きを取り戻し、結界に張り付いていた魔獣たちが、その光に焼かれて絶叫を上げる。
だが。
その光は、あまりにも短すぎた。
パリンッ。
誰にも聞こえない、しかし全世界に響き渡るような、透明な破砕音。
大聖堂の中央、結界の核であった聖なる宝珠が、粉々に砕け散った。
同時に、ローゼメアリーの瞳から、最後の一筋の光が消える。
彼女の体は、糸が切れた人形のようにゆっくりと崩れ落ちた。
「ローゼメアリー様ッ!!」
司祭の叫びも虚しく、聖女の体は氷のように冷たくなっていた。
そして、主を失った結界は、もはやただの薄い霧に過ぎなかった。
空から銀色の破片が、雪のように降り注ぐ。
それはロマンチックな光景などではなく、この国の「死」を告げる葬列の合図だった。
咆哮が、街中に響き渡る。
外壁を容易く乗り越え、大魔獣たちが聖都の市街地へと雪崩れ込んでいった。
人々は逃げ惑い、祈りは悲鳴へと変わり、白銀の雪は一瞬にして鮮血の色に染まっていく。
聖王国の崩壊。
それは、この大陸の均衡が完全に失われたことを意味していた。
聖女の代替わりにおける、神の守護が失われた「空白の期間」。
この世でもっともおぞましい「神降ろし」の祭壇が、グラン・メリアの地下で完成しようとしていた。
同じ頃、遠くラトニアの地で。
フィリアと穏やかな夜を過ごしていたレオンハルトは、突然、胸の奥を鋭い針で刺されたような痛みに襲われた。
「……っ!?」
「レオン様? どうなさったのですか?」
心配そうに顔を覗き込むフィリアの声も、今の彼には遠く聞こえた。
レオンハルトは、北の空を見つめた。
夜の帳に包まれているはずの北平原の向こう側が、不気味に赤黒く明滅している。
「……消えた」
「え……?」
「光が、消えた。世界を繋いでいた、大きな光が……」
レオンハルトの震える右手が、無意識に腰の剣の柄を強く握り締める。
『戦神アレースの加護』が、かつてないほどの激しさで彼の中で鳴り響いていた。
それは戦いの予感ではない。
この世のあらゆる命を脅かす「究極の破壊」への、神の警告だった。
安らぎの時間は、わずか数時間で終わりを告げた。
明日、日が昇る頃には、レオンハルトは再び立ち上がらねばならない。
隣国で蠢く狂気と、聖王国を飲み込んだ魔の嵐。
それらすべてを背負い、彼は「聖剣」という名の呪いと共に、地獄へと足を踏み入れることになるのだ。




