第16話 黄昏のラトニア、束の間の安らぎ
山脈の稜線に陽が落ち、小国ラトニアは柔らかな琥珀色の光に包まれていた。
国境沿いの平原で、一万の軍勢をたった一人で退けた男――レオンハルトは、愛馬の首を優しく撫でながら、見慣れた王都の門をくぐった。
彼の背後には、彼を補佐するために出撃していた数人のラトニア騎士たちが続く。彼らの表情には、伝説の目撃者となった高揚感と、それ以上に、自国の守護神が無事に戻ったことへの深い安堵が混ざり合っていた。
グラン・メリアであれば、これほどの勝利を収めれば、街は熱狂的な歓声と、英雄を称える軍歌で埋め尽くされただろう。
だが、ラトニアは違った。
「おかえり、レオンさん! 今日のお土産は何だい?」
通りかかった果物屋の店主が、荷馬車の上から気さくに手を振る。
「レオン兄ちゃん! また剣の稽古、つけてよ!」
夕食の支度を促す母親の声を無視して、子供たちがレオンの足元に駆け寄ってくる。
レオンは少し照れくさそうに頬を掻き、馬を止めた。
「ただいま。……ごめんよ、今日はお土産になるような魔物は狩れなかったんだ」
彼がそう言って微笑むと、街の人々はどっと笑い声を上げた。
彼らにとって、レオンハルトは「一振りで天変地異を起こす超越者」である前に、一緒に祭りの準備をし、壊れた柵を直してくれる、少しばかり腕の立つ「隣人」なのだ。
その光景を眺めながら、レオンの胸の奥に溜まっていた重苦しい澱が、少しずつ溶け出していくのを感じた。
カシウスと対峙した時の、あの剥き出しの嫉妬。
顔見知りの同僚たちが異形の怪物のように自分を睨んでいた、あの視線。
それらが、この温かな夕暮れの中に霧散していくようだった。
城の入り口では、フィリア姫が待っていた。
彼女は豪華な礼装ではなく、動きやすい普段着の上に、薄手のショールを羽織っただけの姿で立っていた。
その瞳は、レオンの姿を捉えた瞬間、夕陽よりも眩しく輝いた。
「レオン様……!」
フィリアは周囲の目も憚らず、駆け寄ってレオンの手を取った。
「無事で、本当に無事で良かったです。……怪我はありませんか?」
レオンは一瞬、言葉に詰まった。
「……フィリア様。ただいま戻りました。――この通りピンピンしていますよ。ラトニアの皆さんの祈りが、僕を守ってくれましたから」
強がってみせたものの、フィリアの慈愛に満ちた眼差しに見つめられると、レオンの心は嘘をつけなくなる。彼女はレオンの大きな手を両手で包み込み、そっと自分の頬に寄せた。
「……今日は、もうおしまいです。戦士としての報告も、騎士としての義務も、明日にしましょう。今はただ、レオンという一人の男性として、私のそばにいてください」
城の西側に位置する、小さな私設庭園。
そこはフィリアが幼い頃から大切に育ててきた花々が咲き乱れる、二人だけの聖域だった。
テーブルには、ラトニア特産のハーブティーと、素朴な焼き菓子が並べられている。
レオンは甲冑を脱ぎ捨て、柔らかな布の服に着替えていた。戦場での鋭い空気は消え、そこにはどこにでもいる、少し疲れの見え隠れする青年がいた。
「……信じられないんです、いまだに」
ハーブティーの湯気を見つめながら、レオンがぽつりと零した。
「俺が剣を振るえば、大地が裂ける。一万の人間が、虫けらのように吹き飛ぶ。……それが『加護』の力だと分かっていても、時々、自分の右手が自分のものではないような、恐ろしい感覚に陥るんです」
レオンは自分の掌を見つめた。
「……カシウスという男が、俺を殺したいほど憎んでいました。彼をあそこまで狂わせたのは、俺の存在そのものだったんじゃないか。俺の力が、周りの人間を不幸にしているんじゃないか……そう考えると、胸が締め付けられるんです」
グラン・メリアを追放された時、彼は「自分がいなければ、この国は平和になる」とさえ思っていた。だが、結果としてその祖国は、英雄を失った喪失感から狂気へと走り始めている。
自分の強さが、他者の弱さを暴き、醜悪な嫉妬を煮立たせてしまう。
その孤独は、どんな名剣でも断ち切ることはできなかった。
「レオン様」
フィリアが椅子から立ち上がり、隣に座るレオンの肩にそっと頭を預けた。
「あなたは、神様ではありません。……ましてや、ただの『道具』でもありません」
彼女の指先が、レオンの節くれだった、戦いの痕が残る指に絡まる。
「あなたが大地を裂くのは、その下にある小さな花を守るため。あなたが軍勢を退けるのは、名もなき民の夕餉の時間を守るためです。私は、カシウスという方のことは分かりません。でも、その方があなたを憎んだのは、あなたのせいではなく、その方が自分自身の弱さと向き合えなかったからです」
フィリアの声は、静かだが確固たる力を持っていた。
「私が見ているのは、戦神の加護を受けた英雄ではありません。……お腹が空くと少しだけ機嫌が悪くなって、子供たちの笑顔を見ると目尻を下げる、不器用で、誰よりも優しいレオンという一人の男性です。あなたがどれほど強大な力を持っていても、私の前ではただの『愛しい人』なのですよ」
愛しい人。
その言葉が、レオンの乾いた心に、恵みの雨のように染み渡っていった。
グラン・メリアでは、誰も彼を「人間」として見てはいなかった。ある者は最強の武器として崇め、ある者は地位を脅かす脅威として排除しようとした。
加護という名のレッテルを剥がした後に残る、生身の自分を見てくれる者など、一人もいなかったのだ。
レオンは、震える手でフィリアの細い肩を抱き寄せた。
「……ありがとう、フィリア。俺は……俺はここにいてもいいんだと、君に言われるたびに、ようやく人間になれる気がします」
「ええ。ずっとここにいてください。世界があなたをどう呼ぼうとも、私はあなたの名前を呼び続けますから」
二人の影が、石畳の上に一つに重なる。
* * *
黄昏の静寂の中で、レオンは生まれて初めて、重い聖剣の重みを忘れ、ただ一人の女性を愛する喜びを噛み締めていた。
それは、神から与えられた加護よりも、遥かに尊く、温かな「奇跡」だった。
しかし、運命の歯車は、このささやかな安らぎを許しはしない。
レオンがラトニアの温かな夜風に吹かれているちょうどその時、遥か北方の「聖王国」では、世界の均衡を支えていた最後の光が、いまにも消えようとしていた。
冷たい祈りの声が響く大聖堂。
老齢の聖女ローゼメアリーは、自らの命を削って維持してきた結界が、外側から押し寄せる「負の感情」の荒波に耐えきれず、ついに軋む音を立てたのを聞いた。
「……ああ、主よ。時は、満ちてしまったのですね」
枯れ木のように細い指先から、数珠が静かに滑り落ちる。
グラン・メリアから、抗いようのない「破滅」の気配が、途切れることなく押し寄せていた。
人々の負の感情を糧に生まれた魔物たちは、聖女の結界に引き寄せられては自壊し、そのたびに老いた聖女の寿命を削り取っていく。
束の間の安らぎは、まもなく終わる。
それは、レオンハルトが「英雄」としてではなく、「神殺し」としての宿命を背負うことになる、長い夜の始まりだった。




