第15話 敗軍の帰還と狂王女の微笑
泥と血にまみれた敗残兵の列が、重い足取りでグラン・メリア王都の門をくぐった。
白銀に輝いていたカシウスの甲冑は見る影もなくひしゃげ、彼の顔には深い絶望と疲労が刻み込まれていた。
一万の軍勢のうち、まともに帰還できたのは数千に満たない。
レオンハルトのたった一振りの剣撃、そして加護なき鉄剣による圧倒的な蹂躙。
その恐怖は、兵士たちの精神を完膚なきまでに破壊していた。
だが、帰還した彼らを待っていた王都の光景は、戦場とは別の意味でカシウスを戦慄させた。
活気のあった大通りから人の姿が消え、どんよりとした暗雲が空を覆い尽くしている。街の至る所から、獣の腐臭と、人々のすすり泣く声が微かに聞こえてくる。
レオンハルトという抑止力を失い、魔物が頻繁に出没するようになった王都は、すでに死に体となっていた。
重い足取りで王宮へと向かったカシウスは、玉座の間に通された。
彼女はすでに、この国で王のように振舞っている。
「……イザベラ様。申し訳、ありません。我々は……敗北しました」
冷たい大理石の床に膝をつき、カシウスは声を絞り出した。
処刑される。
そう覚悟していた。
一万の軍を率いておきながら、たった一人の男に、それも自分たちが追放した男に無様に敗れ去ったのだ。
どんな罵倒も、残酷な罰も受け入れるつもりだった。
「ご苦労様、カシウス」
頭上から降ってきたのは、予想に反して、春の陽だまりのように甘く優しい声だった。
驚きに顔を上げたカシウスの目に映ったのは、玉座に腰掛けるイザベラの姿だった。
だが、その姿はどこかおかしい。
彼女の美しい金髪の毛先は不気味な漆黒に染まり、白磁のような肌には、脈打つ黒い血管のような紋様が浮かび上がっていた。
そして何より、彼女の瞳孔は爬虫類のように縦に細く裂け、もはや人間のものではない妖光を放っていた。
「イ、イザベラ様……? その、お姿は……」
「気になさらないで。少しばかり、大きな力を受け入れる準備をしているだけよ」
イザベラはうっとりと微笑んだ。
彼女の周囲には、黒い霧のようなものがゆらゆらと立ち込めている。
「彼を、殺せなかったのね?」
「……はい。我々の力では、足元にも及びませんでした。奴は、悪魔です」
カシウスが震える声で答えると、イザベラは鈴を転がすように笑った。
「ええ、知っているわ。だって彼は、私のために世界を壊してくれる特別な人だもの。あなたが負けるのは当然よ」
カシウスは背筋に氷を差し込まれたような悪寒を覚えた。
この女は、自分が敗北することを最初から知っていた?
いや、それどころか、レオンハルトの力を前に自分たちが蹂躙されることを望んでいたとでもいうのか。
「さて、カシウス。あなたたちには、もう一つだけやってもらうことがあるわ」
イザベラがスッと立ち上がると、黒い霧が玉座の間を這うように広がっていった。
「私の願いを叶えるためには、もっとたくさんの『絶望』が必要なの。恐怖、悲鳴、そして命。それらを捧げることで、あの方は必ず私の元へ来てくれる」
「な、何を……」
「選別を始めるわ。この王都にいる無価値な人間たちを、私の糧として捧げなさい。もちろん、あなたたち敗残兵も、その一部よ」
イザベラが指を鳴らすと、王宮の影から、悍ましい姿をした魔獣たちが次々と姿を現した。
いや、それは魔獣だけではない。黒い霧に飲まれ、自我を失い異形の怪物と化したかつての騎士たちの姿もあった。
「ひっ……! お、お助けを! イザベラ様ッ!」
カシウスが這いずって逃げようとしたその瞬間、床を這っていた黒い霧が、まるで意志を持つ蛇のように彼の足首に絡みついた。
霧は冷たいどころか、焼けるような熱気を持って彼の甲冑の隙間から侵入していく。
「あ、熱い……熱いぃぃッ! 何だ、これは、何が……!?」
「それは、あなたの心にある『嫉妬』よ、カシウス。レオンへの憎しみ、届かなかった羨望……それがこの悪魔の雫と混ざり合い、あなたを新しい姿に変えてくれるわ」
イザベラが細長い指をカシウスへ向けると、霧は一気に彼の全身を包み込んだ。
ミシミシ、ボキボキッという、生身の人間からは決して発せられない、骨が砕け、再構築される悍ましい音が玉座の間に響き渡る。
「が、あ……あ、あ、ああぁぁぁぁぁッ!!」
カシウスの悲鳴が、次第に獣のような咆哮へと変わっていく。
白銀だった彼の甲冑は、内側から溢れ出す黒い液体によってドロドロに溶け、自身の皮膚と一体化していった。
背中からは不揃いな骨の棘が突き出し、顔面を覆うバイザーの下では、眼球が破裂し、代わりにイザベラと同じ「裂けた紅い瞳」が四つ、新たに開いた。
――数分後。
そこには、騎士団副団長の面影をわずかに宿した、黒い金属質の肉体を持つ「異形の騎士」が跪いていた。
「……ああ、素敵。レオンへの嫉妬が強かった分、とても力強い『家畜』になったわね」
イザベラがその異形の頭を、愛犬を撫でるように優しく撫でる。
その体には、カシウスとしての知性はもはや存在しない。
そこにあるのは、イザベラの命に従い、レオンを憎む本能だけを植え付けられた、文字通りの怪物だった。
「さあ、カシウス。その姿で街へ降りなさい。そして、私に捧げるための絶望を……もっと、もっと集めてくるのよ」
異形と化したカシウスは、言葉にならない低い唸り声を上げると、四足歩行のような不自然な動きで、王宮の闇へと消えていった。




