第13話 嫉妬に燃える進軍
地平線を埋め尽くす鉄の波が、小国ラトニアへと向かって押し寄せていた。
グラン・メリア王国、近衛騎士団を中核とした一万の軍勢。
かつては民を守るために振るわれた剣は、今や一人の女の執着と、一人の男の嫉妬を叶えるための凶器へと成り下がっていた。
軍の先頭で馬を走らせるのは、白銀の甲冑に身を包んだカシウスだ。
彼の表情は、狂気じみた愉悦に歪んでいた。
(ようやく……この時が来た)
イザベラ公爵令嬢から下された命は「レオンハルトの身柄を確保し、連れ戻すこと」。だが、カシウスにそんなつもりは毛頭なかった。
混乱に乗じて、あの男の喉笛をこの手で掻き切る。
それだけが、彼がこの遠征を引き受けた理由だった。
(あいつがいなくなれば、自分が英雄になれると思っていた。そう信じて疑わなかった――だが現実はどうだ)
レオンがいなくなった途端、魔物への抑止力は消え、騎士団の無能さが露呈した。自分は魔物に敗北し、民衆からは罵倒され、イザベラからは「レオンならこうではなかった」と無言の軽蔑を向けられる日々。
すべてはレオンハルトが悪いのだ。
あいつが最初からいなければ、あいつが神の加護などという力を持ち合わせていなければ、自分のプライドがこれほどまでに傷つくことはなかった。
「伝令! 全軍、速度を上げろ! 抵抗する者は一人残らず切り捨てて構わん。ラトニアの民衆ごと、あの不敬者を踏み潰せ!」
カシウスの叫びに応じるように、兵士たちが雄叫びを上げる。
彼らの瞳は血走り、どこか虚ろだった。
イザベラが禁書庫で契約した悪魔レヴィアタンの影が、軍全体に「嫉妬」と「攻撃性」を伝播させていたのだ。
正常な判断力を失った一万の獣が、静かなる小国へと牙を剥く。
その時、進軍の最前線が、突如として動きを止めた。
「……何事だ! 止まるなと言ったはずだぞ!」
カシウスが苛立ちをあらわにしながら馬を前に進める。
兵士たちが割れたその先、国境を越えてすぐの平原の中央に、それは立っていた。
* * *
一人の男。
使い古された革鎧に、腰には鈍色の鉄剣。
風に靡く黒髪を無造作に揺らし、まるで散歩の途中に立ち止まったかのような自然体で、一万の軍勢を正面から見据えている。
「……レオンハルト」
カシウスが歯を剥き出しにして、その名を呪詛のように吐き出した。
レオンハルトは、静かに大軍を見渡した。
見知った顔がたくさん並んでいる。
共に魔物と戦った同僚たち。
そして思い出す。自分が命を懸けて守ろうとした祖国の民。彼らの瞳に宿る、自分への醜い敵意と、悪魔の残滓。
「……カシウス。そこで止まってくれ。これ以上進めば、ラトニアの平穏を乱すことになる」
レオンの声は、喧騒の中でも不思議なほどはっきりと響いた。
「ハッ! 何を寝言を言っている! たった一人で我ら一万の軍勢を止められるとでも思っているのか? お前はもう英雄ではない。ただの逃亡犯だ! 貴様を殺し、その首をイザベラ様に献上することで、俺は真の英雄となるのだ!」
カシウスが剣を抜き、全軍に突撃の号令をかけようとした、その瞬間だった。
レオンハルトが、ゆっくりと腰の鉄剣に手をかけた。
「……俺は、あの日誓ったんだ。この剣は、大切な人を守るために振るうと」
レオンが深く、長く息を吸い込む。
その瞬間、世界から音が消えた。
『戦神アレースの加護』。
ドォォォォォォンッ!!
爆音と共に、レオンハルトの背後に黄金の巨像が幻視される。
戦神の威圧――。
彼が引き抜いた鉄剣は、もはや鉄の塊ではなかった。眩い光の奔流そのものとなり、大気を震わせ、地面を隆起させる。
「……退け」
レオンハルトが、剣を真横に一閃した。
それは、攻撃魔法の存在しないこの世界において、文字通りの「天変地異」だった。
剣筋から放たれたのは、光の刃ではない。
空気を圧縮し、神聖な魔力で質量を持たせた「絶対的な衝撃」だ。
ゴォォォォォォッ!!
という、大地の悲鳴のような音が響く。
一万の軍勢のど真ん中を、目に見えない巨大な槌が通り抜けたかのように、兵士たちが木の葉のように舞い上げられた。
殺してはいない。
レオンハルトは加護の力を絶妙に制御し、衝撃の波によって兵士たちを吹き飛ばしたのだ。
最前列の騎士たちの盾は粉々に砕け、後続の兵士たちは突風に煽られて次々と折り重なるように倒れ伏す。一万の軍勢は、たった一振りの余波によって、その統制を完膚なきまでに破壊された。
もうもうと立ち込める砂塵が晴れていく。
そこには、武器を失い、戦意を喪失して地面に這いつくばる数千の兵士たちと、恐怖に震えて逃げ出す軍馬の群れがあった。
ただ一人、カシウスだけが、その「衝撃の道」から意図的に外され、無傷で立ち尽くしていた。
レオンハルトは、折れもせず光り輝く剣を下げ、ゆっくりと歩き出す。
カシウスの足元まで、一歩、また一歩。
「ひ……ひぃっ……!」
カシウスの喉から、情けない悲鳴が漏れた。
先ほどまでの尊大な態度はどこへやら、彼は腰が抜けたようにその場にへたり込んだ。
「カシウス。君との決着は、聖剣の力ですべきじゃないな」
レオンハルトは、眩い光を放っていた剣から魔力を引き、元の鈍色の鉄剣へと戻した。
「君がずっと言っていたことだ。『加護がなければ自分の方が上だ』と。……だったら、やってみよう。君の望む通りに」
周囲には、打ちのめされた軍勢の呻き声だけが響いている。
レオンハルトは、加護を完全に封印し、ただの「一人の剣士」として、カシウスの前に立った。
それは、カシウスにとっての救済ではなく――
本当の意味での「絶望」の始まりだった。




