第96話 置いていけ
「俺を置いて、先に行ってもらえませんか」
右足を痛めた男は、冗談を言っている顔ではなかった。
周りにいた同じパーティらしい探索者たちがすぐに反応する。
「何言ってんだよ」
「でも俺がいると遅くなるだろ」
「だからって置いてく理由にならない」
「後ろから来てんだぞ」
戦闘音は確かに近づいていた。
まだ曲がり角の向こうで、ここから魔物は見えない。
それでも金属音や獣の鳴き声が、さっきよりはっきり聞こえる。
男は俺を見る。
「久世さんなら分かりますよね。俺がいなければ、みんなもっと早く帰れるんじゃないですか」
俺は首を横に振った。
「それは俺が決めることじゃないです」
「でも《帰り道》は――」
「道を見るのは俺ですけど、誰を置いていくか決める能力じゃないです」
少し前なら、俺も自分で何とか答えようとしたかもしれない。
今は違う。
俺は班長を見る。
「班長」
「聞いてます」
班長がこちらへ来た。
男にも分かるように、その場へしゃがむ。
「名前は?」
「三浦です」
「三浦さん。痛いのは右足だけ?」
「はい」
「意識ははっきりしてる。自力で呼吸できる。搬送中に状態悪化もなし。合ってる?」
救難員が答える。
「合ってます。足首は固定した方がいいです。骨折か捻挫かは地上で見ないと分かりませんが、搬送は可能です」
班長が三浦さんを見る。
「なら運びます」
「でも俺を運ぶと遅れるでしょう」
「遅れます」
言い切った。
三浦さんが黙る。
「ただ、今ここに一人残す方が危険です。誰かを一緒に残せば、その分だけさらに人数が減る。第五層側には魔物が来てるし、地上の救難班がここまで安全に入ってこられる保証もまだない」
「でも――」
「今の時点では、置いていく利点がありません」
感情ではなく、理由だった。
「運べる。通路も通せる。前も空けてある。それなら運びます」
三浦さんの仲間がほっとしたように息を吐く。
班長は続ける。
「今後、状況が変わって本当に誰かを残さなきゃ全員死ぬような判断になれば、その時は別です。でも今はそこまで追い込まれてない」
三浦さんはしばらく黙っていたが、やがて頷いた。
「……分かりました」
「あと、勝手に立とうとしないでください」
「はい」
「それで悪化したら、もっと時間かかります」
「すみません」
「謝らなくていいです。言うこと聞いてください」
淡々としている。
でも、その方が三浦さんも納得しやすいようだった。
俺は少しだけ安心した。
「久世さん」
三浦さんに呼ばれる。
「はい?」
「俺が残るって言っても、《帰り道》は変わらないんですか?」
一瞬、第二森下ダンジョンでのことを思い出した。
藤崎さんを勝手に帰る集団から外せるわけではない。
ただ、今回それを試す必要はない。
「今は三浦さんも一緒に帰すつもりです」
俺は答えた。
「だから、俺の都合で三浦さんだけ外した道を見ることはできません」
「本人が残るって言っても?」
「少なくとも、そう言われただけで簡単に切り替えるものじゃないです」
三浦さんが少し笑った。
「融通利かないですね」
「俺もそう思います」
「久世さんがですか?」
「スキルの方です」
近くにいた探索者が吹き出した。
緊張が少しだけ緩む。
その時、通信から声が飛んだ。
『第六班、狭い区間へ入りました!』
班長がすぐに立つ。
「全員、準備してください。第六班が抜けたら次へ動きます」
救難員は三浦さんの右足を改めて固定し、簡易搬送シートから折り畳み式の担架へ移す準備を始めた。
ここから先は幅がある。
担架の方が安定して運べる。
「三浦さん、持ち上げます。痛かったらすぐ言ってください」
「お願いします」
四人でゆっくり身体を移す。
三浦さんが一度顔をしかめたが、それ以上痛みが増した様子はない。
担架へ固定する。
班長が俺を見る。
「久世さん、この先」
「確認します」
《帰り道》を見る。
淡い光は第二集結地点から先へ進み、第三層へ上がる階段へ続いている。
「第三層方向です。さっき確認した道と同じです」
「了解」
班長は無線へ指示を出す。
「第一から第四班、順次第三層へ向けて進行。第五班は負傷者搬送のため最後に回します」
第五班の一人が聞いた。
「俺たちも残ります」
「三浦さんのパーティ?」
「はい」
「分かりました。ただし、搬送を手伝う人以外は第六班が来たら先に出します」
全員がここに固まる必要はない。
できる人が、必要な場所に残る。
それだけだ。
俺は再び第一班の先頭へ入った。
「行きます」
足元の光に従って歩く。
第二集結地点から第三層までは、第五層ほど狭くない。
一つ階段があるが、手すりもあり、床にも大きな異常はない。
最初の班を第三層側まで上げる。
「第一班、到着」
人数確認。
続いて第二班。
俺は班長から指示を受けながら、前と後ろを何度も往復するのではなく、先頭側の経路確認に集中した。
少しして第三層側から通信が入る。
『先行していた八名、地上へ退避完了しました』
俺は思わず班長を見る。
「八人、帰れたんですね」
「はい。これで残りはこっちの二十九人です」
三十七人のうち八人が地上へ出た。
残り二十九。
数字が減っただけなのに、少し気持ちが軽くなる。
でも後ろでは、まだ戦っている。
第三班が上がる途中、通信から激しい音が聞こえた。
『右、二体!』
A級探索者の声。
神代さんが返す。
『前の一体だけ止めます。後ろは触らなくていいです』
剣が何かを切る音。
直後に低い鳴き声が響いた。
『一体処理。残りは距離あります』
班長が聞く。
「後方班、位置は?」
『狭い区間の入口です。第六班は通過中』
「第六班が抜けたらすぐ離れる」
『了解』
俺は第三層への階段の上で、その通信を聞いていた。
戻りたくなる。
神代さんが戦っている。
俺よりずっと強いことも分かっている。それでも、自分だけ前にいるのは落ち着かない。
前を歩いていた探索者が俺を見る。
「神代さん、大丈夫ですかね」
「俺に聞かれても、たぶん皆さんと同じくらいしか分かりません」
「一緒に仕事してるんですよね?」
「してますけど、強さまで共有してないので」
男が少し笑う。
「それもそうか」
俺も少しだけ笑ってから前を見る。
今はここを止めない。
第四班まで第三層へ入った。
俺は班長へ報告する。
「第四班、到着しました」
『了解。第五班準備』
今度は三浦さんを乗せた担架だ。
俺は階段を下りて、第二集結地点まで戻った。
第五班の探索者たちと救難員が担架を囲んでいる。
三浦さんが俺を見た。
「結局戻ってきたんですね」
「道の確認です」
「俺を心配して?」
「それは神代さんに言うやつじゃないですか?」
「何でです?」
「何となく」
自分でもよく分からない返事をしてしまった。
班長がこちらを見る。
「久世さん、雑談終わったら行きます」
「はい」
担架を持ち上げる。
今度は四人で安定して運べる。
階段だけは少し時間がかかった。
前側を先に一段下げるのではなく、上りなので後方側が高さを調整しながら一段ずつ進む。
三浦さんの表情を確認し、そのたびに痛みを聞く。
「大丈夫」
「次、上げます」
急がない。
後ろに魔物がいるからこそ、ここで落とせない。
階段の半分まで来たところで通信が入る。
『第六班、第四層へ抜けました!』
続いて神代さん。
『後方班も入ります』
班長が返す。
「接触は?」
『二体追ってきています』
「第四層まで?」
『来ると思います』
班長が少し考える。
「予備退避路の扉は閉められる?」
第五層側の救難員から返事が来る。
『手動ですが閉鎖できます。ただし耐魔物用の隔壁ではありません』
「時間稼ぎには?」
『なります』
「後方班通過後、閉めてください。施錠まではしなくていい」
『了解』
俺たちは三浦さんを第三層へ上げた。
担架を平らな場所へ置く。
「痛みは?」
「さっきと変わりません」
救難員が確認する。
「そのまま行けます」
第五班の残りも到着する。
あとは第六班と後方だけだ。
班長が俺に言う。
「久世さん、先頭へ戻ってください」
「ここにいた方が――」
「ここは俺たちで見ます。第三層から上を止めないでください」
俺は一度だけ後ろを見る。
「分かりました」
第三層の前方へ戻る。
《帰り道》は上へ続いている。
しばらくすると第六班も到着した。
これで退避対象二十九人全員が、第五層から第四層を抜けたことになる。
最後に神代さんたちが来た。
先頭にA級探索者三人。
その後ろを神代さんが歩いている。
剣には魔物の体液がついていたが、怪我をしている様子はない。
俺は思わず近づく。
「大丈夫ですか?」
「はい」
「何体?」
「三体です。あとは扉を閉めてきました」
A級の男性が後ろから言う。
「この人、ほんとに追わないんですね」
俺が聞く。
「神代さんが?」
「一体逃げたんですよ。普通なら追えば倒せた」
神代さんが答える。
「倒す必要がなかったので」
「前だったら追ってました?」
俺が聞くと、神代さんがこちらを見る。
「久世さん」
「はい」
「今、その話します?」
「しません」
A級の男性が笑った。
班長が人数を確認する。
「第五層からの二十九名、全員第四層以浅へ移動完了。後方班も合流」
通信に報告する。
地上から返事が来た。
『了解。第三層から上は退避経路確保済み。救急班、入口で待機しています』
ここから先は比較的安全だ。
それでも、まだ地上ではない。
班長が全員を見る。
「休憩三分。そのあと移動再開します」
三浦さんが担架から天井を見る。
「俺、置いてかれなくてよかったです」
仲間の一人がすぐに言う。
「当たり前だろ」
「いや、さっきは本気だったんだけど」
「もう言うな」
俺は二人のやり取りを聞きながら、《帰り道》を見る。
光は三浦さんの担架の横を通り、全員が向かう先へ伸びている。
誰か一人を置いていく必要はなかった。
だから、置いていかなかった。
特別なことではない。
救難側が状況を見て、全員で帰れると判断した。
俺の光は、その判断の代わりにはならない。
ただ、その先に帰る方向を示しているだけだった。
三分後、班長が立ち上がる。
「行きます。今度は地上まで止めません」
俺も前へ出た。
三十七人のうち、八人はもう帰った。
残る二十九人も帰す。
その後ろから魔物が来ていたとしても、やることは変わらなかった。




