第88話 帰れる状態
旧側道の奥にある下りは、高さにすれば二メートルもない。
ただ、藤崎さんを担架に乗せたまま降ろすとなると話は別だった。歩ける人間なら壁に手をつきながら降りられるが、担架を前後から持ったまま進めば、足を滑らせた時に支えきれない。
大橋さんが救難員を見る。
「ロープで制御すればいける?」
「固定点が取れれば」
「上と下、両方に人が必要?」
「はい。上からロープで担架を支えて、下側で受けます。途中で横に振られないように補助も欲しいです」
七人のうち、一人は藤崎さんだ。
残り六人で、どう安全に担架を下ろすかを考える。
神代さんが言った。
「私が先に下ります」
大橋さんが頷く。
「まず神代さんと救難員一人で固定点と下側の足場を確認してください。実際に藤崎さんを下ろす時は、神代さんと救難員一人が下側。俺ともう一人が上でロープ。久世さんは担架の横から姿勢を見てもらえます?」
「俺で大丈夫ですか?」
「持ち上げろとは言ってません」
「それなら」
管理会社の職員には、荷物と補助ロープを手伝ってもらうことになった。
まずは藤崎さんを動かす前に、下りを安全に使える状態にしなければならない。
神代さんと救難員一人が先に旧側道へ入り、下りの周辺を詳しく確認する。その間、俺と大橋さん、もう一人の救難員、管理会社の職員は藤崎さんと入口側に残った。
「今度はいけますかね」
藤崎さんが言う。
「いってほしいですね」
「久世さんの《帰り道》が出たら分かりやすいんですけど」
「それを待つと何も進まないので」
「逆になりましたね」
「何がです?」
「今まで久世さんが道を見つけて、みんながそこを通れるようにしてたんでしょう?」
少し考える。
「そうですね」
「今日は先に、みんなで通れるようにしてる」
言われてみれば、その通りだった。
今までは光が先にあった。どこへ進めば帰れるのか分かっていて、その途中にある問題を一つずつ解決してきた。
今日は違う。
先に人間が帰れる方法を探している。その先に光が出るのかどうかは、まだ分からない。
通信機から神代さんの声がした。
『固定に使えそうな岩があります』
続いて救難員の声が入る。
『上側の壁際です。亀裂なし。打音も問題ありません』
大橋さんが聞く。
「アンカー取れる?」
『取れます。ただ、一点じゃなく二点で分散させます』
「了解。神代さん、下側まで降りられます?」
『確認します』
少しして返事が来た。
『降りられます。下にも人が立てる場所があります』
「分かった」
大橋さんは、藤崎さんのそばに救難員一人を残すことにした。
「藤崎さん、少しだけここで待ってください。必ず一人残します」
「分かりました」
俺と大橋さん、管理会社の職員の三人で必要な装備を持って旧側道へ入る。
入口を抜け、大きな岩の横を通った。
空の担架では何度か試したが、実際に藤崎さんを通すのはまだ先だ。今は、下りを安全に使えるか確認するための準備だけをする。
下りの上側へ着くと、救難員が二か所にアンカーを取り、ロープを通していた。
神代さんはすでに下へ降りている。
「下、足場はどうです?」
俺が聞く。
「平らではないですけど、一人なら十分動けます。二人でも立てる場所はあります」
「滑りそう?」
「少し。でも、受ける位置は取れます」
大橋さんが周囲を見る。
「まず空担架で試す」
ロープを担架に固定し、上から少しずつ下ろしていく。
上側では大橋さんと救難員がロープを操作し、俺と管理会社の職員が横から担架の向きを見る。神代さんは下側で受ける位置に入った。
「下げます」
救難員が声をかける。
「はい」
神代さんが下から返す。
ゆっくり下ろしていくと、担架が途中で岩へ寄った。
「止めて」
俺が言う。
すぐに動きが止まる。
「右側、壁に当たりそうです」
大橋さんが覗き込んだ。
「補助ロープ一本足すか」
救難員が頷く。
「横振れ防止に使えます」
もう一本、担架の側面へ細いロープをつける。
今度は俺と管理会社の職員がそれを持ち、担架が壁へ寄りすぎないように調整することになった。
再び下ろす。
「少し右」
神代さんが下から声を上げる。
俺たちは補助ロープを調整し、担架の向きを戻した。そのままゆっくり下ろしていくと、今度は壁に当たらず、最後まで降ろしきることができた。
「下、着きました」
神代さんの声が返る。
大橋さんが聞く。
「問題は?」
「空なら大丈夫です」
救難員が答えた。
「実際に人を乗せるなら、速度をもっと落とします。ただ、方法としては使えます」
大橋さんはすぐに次へ進まなかった。
「固定点、もう一回確認」
荷重を抜き、アンカー周辺を見る。
砂は落ちておらず、亀裂もない。ロープにも異常はなかった。
救難員が頷く。
「ここならいけます」
一度全員で入口側へ戻り、藤崎さんと待機していた救難員に結果を伝えた。
七人が再びそろう。
「どうでした?」
藤崎さんが聞く。
「通せそうです」
大橋さんが答える。
「ただ、少し揺れます。痛みが強くなったらすぐ止めます」
「分かりました」
救難員が右脚の固定を確認し直す。
「しびれあります?」
「ないです」
「足先動かせます?」
藤崎さんが動かす。
「大丈夫です」
「じゃあ行きます」
担架を持ち上げる。
今度は空ではない。
入口の狭い場所へ入る前に、大橋さんが全員へ確認した。
「急がない。引っかかったら戻す。無理に押さない」
「了解」
担架を少し傾けると、藤崎さんが顔をしかめた。
「痛みます?」
救難員が聞く。
「少し。でも大丈夫です」
入口を抜け、次は大きな岩の横へ進む。
ここも空担架で通した時と同じ角度に合わせる。
「右、少し下げます」
「はい」
数センチずつ進める。
担架の端が岩に近づいたところで、俺が声をかけた。
「左、あと少し余裕あります」
前側が位置を調整し、そのまま岩の横を抜ける。
「通りました」
藤崎さんが息を吐いた。
「ここが一番狭かったですか?」
「今のところは」
大橋さんが答える。
「次は下りです」
「今のところ、が怖いですね」
「俺も言ってから思いました」
少しだけ笑いが起きた。
ここまで緊張が続いていた分、その程度の会話でも空気が軽くなる。
下りの手前まで進む。
まず神代さんと救難員一人が先に下側へ移動し、受ける位置についた。
上側には大橋さんともう一人の救難員が残り、藤崎さんを乗せた担架へロープを固定する。俺と管理会社の職員は、横振れを抑える補助ロープを担当した。
「藤崎さん、今から下ろします」
大橋さんが言う。
「お願いします」
「怖かったら目閉じてもいいですよ」
俺が言う。
「閉じた方が怖いです」
「ですよね」
大橋さんが俺を見る。
「久世さん、集中」
「はい」
ロープが張り、担架がゆっくり前へ動き始めた。
最初の段差を越えると、藤崎さんの身体が少し揺れる。
「痛みどうです?」
「大丈夫です」
速度を落としたまま、さらに下ろす。
途中で担架が左へ寄った。
「左止めて」
神代さんの声が飛ぶ。
俺たちは補助ロープを張り、担架の姿勢を戻す。
「そのまま」
少しずつ降ろしていく。
藤崎さんの表情は硬いが、痛みが急に強くなった様子はない。
「もう少しです」
下側の救難員が声をかける。
最後の段差を越え、担架が下の平らな場所へ着いた。
「着きました」
全員が一度、力を抜いた。
大橋さんが聞く。
「藤崎さん、状態は?」
「大丈夫です。さっきより増えた感じはないです」
救難員が脚を確認する。
「腫れも急には変わってません。少し休みましょう」
その場で五分ほど休憩を取った。
俺は水を飲みながら、旧側道の先を見る。
ここから先は、藤崎さんの記録では比較的広い通路が続いている。
神代さんと救難員が少しだけ先を確認して戻ってきた。
「この先、担架で通れます」
神代さんが言う。
大橋さんが確認する。
「どこまで?」
「西側の本ルートへ合流するところまで見えます。その先も地図通りです」
藤崎さんが端末を見る。
「そこまで出れば、第四層へ上がる道につながります」
大橋さんは地上へ通信を入れた。
「第五層。旧側道の通行を確保。負傷者を担架で下りまで通過。これから西側本ルートへ合流します」
雑音の向こうから返事が来る。
『了解。第四層西側はこちらで安全確認が進んでいます。合流地点から上は通行可能』
大橋さんが聞き返す。
「第四層から地上まで?」
『現在確認できている範囲では問題なし。救難班も第四層側へ向かっています』
「了解」
通信を切る。
俺は頭の中で、ここまで確認した道をつなげた。
旧側道の入口は担架で通れる。大きな岩の横も抜けられた。急な下りも、ロープを使って藤崎さんを安全に下ろすことができた。
その先は西側本ルートへつながり、第四層から上は地上側でも安全確認が進んでいる。
神代さんも、大橋さんも、救難員二人もいる。管理会社の職員も動けるし、藤崎さんも担架で運べている。
少なくとも今確認できている範囲では、七人で先へ進める状態がそろっていた。
俺は立ち上がる。
「大橋さん」
「はい?」
「一回、見ます」
大橋さんはすぐに意味を理解した。
「お願いします」
改めて全員を見る。
藤崎さん、管理会社の職員、大橋さん、救難員二人、神代さん、そして俺。
七人全員、ここにいる。
一緒に帰る。
そう意識して、《帰り道》を確認した。
足元に、淡い光が現れた。
ずっと探していたはずなのに、見えた瞬間だけ反応が遅れた。
光は俺の足元から伸び、さっき自分たちで通れることを確認した旧側道の先へ続いている。
「久世さん?」
神代さんが俺を見る。
俺は光から目を離せないまま答えた。
「……出ました」
大橋さんが聞く。
「《帰り道》?」
「はい」
もう一度、七人を見る。
人数は変わっていない。誰もここから出ていない。
少なくとも変わっていたのは、さっきまで通れなかった場所を一つずつ確認し、七人で先へ進める状態になっていたことだった。
それが光が現れた理由なのかは、まだ分からない。
神代さんが聞く。
「帰れますか?」
俺は淡い光の先を見てから頷いた。
「はい。七人で帰れます」
光は、旧側道の先から地上へ向かって伸びていた。




