第85話 帰れる人だけなら
待機地点へ戻ると、藤崎さんが俺たちの顔を見た。
「駄目でしたか」
大橋さんが頷く。
「固定点に使おうとした岩が荷重に耐えませんでした。人を乗せる前に分かったので、事故にはなってません」
「そうですか」
藤崎さんは残念そうにはしたが、それ以上は言わなかった。
管理会社の職員が聞く。
「別の場所にロープを張るのは?」
「可能性はあります。ただ、亀裂の周辺自体が揺れで変わってます。同じやり方を場所だけ変えて試すなら、もう少し詳しく岩盤を見ないと危ないです」
救難員の答えを聞きながら、大橋さんが地図を広げる。
東側は崩落、西側は亀裂、南側は縦穴。一度整理した三つの道は、今のところどれもそのままでは使えない。
俺は足元を見る。
もちろん、《帰り道》もまだ出ていなかった。
「一回、別の考え方をしましょう」
大橋さんが言った。
全員が地図を見る。
「七人全員を今すぐ動かす前提を外します」
藤崎さんが顔を上げた。
「分かれるってことですか?」
「可能性としてです」
大橋さんは神代さんを見る。
「神代さんだけなら、南側の縦穴を上がれると思います?」
神代さんは少し考えた。
「固定ロープを信用しない前提なら、自力で登れる場所はあると思います。ただ、第四層側の状態が分からないので、上まで抜けられるとは言えません」
「西側の亀裂は?」
「私一人なら越えられます」
「久世さんは?」
「俺?」
急に聞かれた。
「西側をロープ使って渡るなら」
救難員が俺を見る。
「久世さんなら行けます。普通に動ける人なら、補助ロープがあれば渡せると思います」
「南の縦穴は?」
「俺は無理です」
即答すると、神代さんが少しだけ笑った。
「判断が早いですね」
「自分のことなので」
無理なものは無理だ。
大橋さんは気にせず続ける。
「つまり、動ける人だけなら西側から抜けられる可能性はある」
管理会社の職員が地図を見る。
「じゃあ、誰かが先に地上へ戻って助けを呼ぶのは?」
もっともな疑問だった。
ただ、大橋さんはすぐには答えなかった。
地上との通信は完全には切れていないし、すでに向こうでも救難準備は始まっている。一人を無理に戻して伝令にする必要がある状況ではない。
「選択肢には入ります」
大橋さんが言う。
「ただ、今のところ地上とは連絡が取れてる。こっちの位置も人数も負傷状況も伝わってる」
救難員も頷く。
「神代さんが抜けた場合、こちらの戦力は下がります」
このダンジョンには魔物がいる。
今まで姿を見せていないからといって、このまま来ないとは限らない。神代さんがいるだけで、待機中の安全性はかなり違う。
大橋さんが通信を入れた。
「地上。こちらで一部人員を先行退避させる案を検討中。そちらの救難班の準備状況を確認したい」
少し雑音が入ったあと、返事が来る。
『こちらは第四層までの進入経路を確認中。揺れの影響で一部点検が必要ですが、救難班は待機済みです』
「南側旧縦穴の上側は?」
『接近経路の安全確認がまだ取れていません』
「了解」
大橋さんが通信を切る。
「今、神代さんを一人で上げる意味は薄いですね」
神代さんも頷いた。
「私もそう思います」
管理会社の職員が少し迷ってから聞く。
「でも、西側なら……動ける人だけ先に行けるんですよね?」
「行ける可能性はあります。ただ、先に行く理由が必要です」
大橋さんの言葉に、俺は少し納得した。
行けるから行く、ではない。
人員を分けることで何が良くなるのか、その代わりに何が悪くなるのかまで考えて決める。
藤崎さんが口を開いた。
「だったら、私を置いて行くのが一番早いですよね」
その場が少し静かになった。
管理会社の職員がすぐに藤崎さんを見る。
「藤崎さん」
「いや、別に変なことを言ってるつもりはないです。私以外は歩ける。西側を渡れるなら、六人は先に帰れるでしょう。地上側から救難班が来られるなら、私はここで待てます」
大橋さんは否定も肯定もしなかった。
「藤崎さん一人にするつもりはありません」
「なら、誰か一人残ればいい」
「その案も含めて考えます」
感情だけで「置いていけません」と言わない。
その方が、俺には安心できた。
大橋さんが全員を見る。
「現状を整理します。動ける六人だけなら、西側を通れる可能性は高い。ただし、一人か二人を先行させても、地上側への情報伝達という意味はほとんどない」
救難員が続ける。
「残る人数を減らせば、藤崎さんを守る側も減ります」
「神代さんを先に出せば、こっちの戦闘力が落ちる。逆に神代さんを残せば、先行する側が西側で問題に遭遇した時の対応力が落ちる」
大橋さんは地図の上で指を止めた。
「今は分ける利点より、残る不利のほうが大きい」
管理会社の職員が頷く。
「じゃあ、全員ここに?」
「今のところは」
大橋さんが今度は俺を見る。
「久世さん。一つ確認していいですか」
「はい」
「仮に藤崎さんがここへ残ることになったとして、六人だけの《帰り道》を見ることはできます?」
俺は首を横に振った。
「できないです」
藤崎さんがこちらを見る。
「私が残ると言っても?」
「少なくとも、俺が勝手に藤崎さんだけ外すことはできません」
ここへ入る前にも、大橋さんには説明している。
《帰り道》は、一人ずつ別々に出せるものじゃない。
今、一緒に帰る人たち全員で一本。
負傷している人だけ外したり、動ける人だけ先に近道を出したり、そういう使い分けはできない。
「今の俺は、藤崎さんも一緒に帰すつもりです」
俺は続けた。
「だから、『藤崎さんを除いた六人だけ』って決めて道を見ることはできません」
大橋さんが頷く。
「確認できれば十分です」
「現実の判断として誰かを残すことになったら?」
管理会社の職員が聞いた。
俺は少し考える。
「その時に《帰り道》がどうなるかまでは分かりません。でも、少なくとも今ここで、都合よく対象を減らすことはできないです」
「分かりました」
大橋さんが地図へ目を戻した。
「なら、スキルの対象を減らす方法は考えなくていい。現実の判断として誰かを残す必要が出たら、その時は別です。でも今は、その必要がない」
そこは大事だった。
《帰り道》が出ないから全員残るのではない。今の状況では、人員を分けるより七人で帰る方法を探した方が合理的だから残る。
順番を逆にしてはいけない。
藤崎さんが地図を見ながら言った。
「西側の亀裂なんですが」
「何かあります?」
大橋さんが聞く。
「昔、あの辺りに別の細い通路があった気がするんです」
全員の視線が藤崎さんへ向いた。
「別の通路?」
「正式な退避経路じゃありません。地形調査で使っただけの側道です」
藤崎さんは紙の地図ではなく、端末を操作する。
何度か画面を切り替えたあと、古い記録を開いた。
「これです」
俺たちも画面を見る。
現在の地図には載っていない細い線が、西側の亀裂の手前から横へ伸びていた。
「いつの記録です?」
救難員が聞く。
「七年くらい前です。そのあと入口側が小さく崩れて、使わなくなりました」
大橋さんが顔をしかめる。
「また崩落か」
「ただ、完全に埋まったわけじゃなかったはずです」
「今も通れる保証は?」
「ありません。でも、亀裂そのものを越えなくて済む可能性はあります」
藤崎さんはすぐに答え、画面を拡大した。
神代さんが地図を見る。
「どこへつながってるんですか?」
「亀裂の向こう側より少し先です。昔は岩盤の状態を調べるために使っていました」
「担架は?」
大橋さんが聞く。
藤崎さんは少し迷う。
「当時なら、一人が通れる程度です」
「それじゃ駄目ですね」
「今のままなら。ただ、塞いでいるのが小規模な崩落だけなら、広げられるかもしれません」
大橋さんが黙って地図を見る。
さっきまでの西側ルートは、亀裂をどう渡るかだけを考えていた。
でも、亀裂を渡らなくていい道が残っているかもしれない。
俺も端末を見る。
「確認します?」
「します」
大橋さんの返事は早かった。
「ただし、今度は崩落箇所を触る可能性がある。藤崎さんの情報が必要です」
「分かりました」
「現場まで動けます?」
救難員が藤崎さんの脚を見る。
「担架なら」
「まだ連れていきません」
大橋さんが答えた。
「まず入口だけ確認します。通れそうなら、その後で藤崎さんの知識をどう使うか考える」
俺たちはまた役割を決める。
確認に行くのは大橋さん、神代さん、俺、救難員一人。残るのは藤崎さん、管理会社の職員、救難員一人。
さっきと同じ四人と三人だ。
立ち上がる前に、大橋さんが俺を見る。
「久世さん」
「はい」
「《帰り道》は?」
足元を見る。
まだ何もない。
「出てません」
「了解」
それだけだった。
俺も今度は、それ以上気にしなかった。
見えないなら、今できることをやる。
西側へ向かい、亀裂の少し手前で藤崎さんから教えられた場所を探す。
最初はただの岩壁にしか見えなかった。
神代さんがライトを動かす。
「ここ、少し奥まってます」
近づいて見ると、岩の間にわずかな隙間があり、その前には崩れた石が積もっていた。
大橋さんがしゃがみ込む。
「完全には塞がってないな」
救難員がライトを奥へ向ける。
数メートル先までは空間が続いている。その先は曲がっているのか、ここからでは見えなかった。
「石をどければ、人は入れるかもしれません」
「担架は?」
「今の幅じゃ無理です」
やっぱり、すぐには使えない。
ただ、さっきの亀裂とは違う。
向こう側が三メートル離れているわけではなく、ここにはまだ地面が続いている。
大橋さんが崩れた岩を一つずつ確認する。
「勝手には触らない。藤崎さんに確認してからだ」
「了解」
俺も隙間の奥を見る。
《帰り道》はまだ出ていない。
それでも、今度は少しだけ状況が違った。
ないと思っていた場所に、使えるかもしれない道が残っていた。




