第83話 見えない
「《帰り道》が、出てないです」
俺がそう言うと、その場の空気が変わった。
誰も大きな声は出さなかったが、全員が一度こちらを見る。
最初に口を開いたのは神代さんだった。
「もう一度確認しても同じですか?」
「はい」
俺は足元を見る。
いつもなら、意識すればすぐに見えるはずの淡い光がどこにもない。
大橋さんが俺の顔を見る。
「久世さん。体調は?」
「大丈夫です」
「頭を打ったりは?」
「してません」
さっき神代さんにも聞かれた。
俺自身も念のため頭や首を触ってみるが、痛みはなく、視界にも異常はない。
「《帰り道》だけですか?」
神代さんが聞く。
「たぶん」
「たぶん?」
「他に確認できるスキルがないので」
俺のスキルは《帰り道》だけだ。
比較のしようがない。
大橋さんは少し考えたあと、すぐに地上へ通信を入れた。
「第五層。久世さんの《帰り道》を確認できず。原因不明」
雑音の向こうから返事が来る。
『……了解。久世本人の負傷は?』
「外傷なし。意識も問題ありません」
『分かった。能力の確認は後でいい。今は退避優先で』
その返事を聞いて、少しだけ肩の力が抜けた。
《帰り道》が出ないことは、俺にとって大きな問題だ。
でも地上側からすれば、今ここで原因を考えることが最優先ではない。
七人が第五層にいて、一人が歩けず、通常経路も崩れている。
それだけで、やることは十分にある。
大橋さんが通信を切る。
「聞いた通りです。今は《帰り道》なしで考えます」
管理会社の職員が少し不安そうに俺を見る。
「スキルって、急に使えなくなることもあるんですか?」
「俺は初めてです」
正直に答える。
「今まで一度も?」
「少なくとも、帰る必要がある場面で見えなかったことはありません」
自分で言って、改めて妙な感じがした。
崩落していても、水の中でも、扉が閉じていても、道そのものが簡単ではない時でさえ、光だけはあった。
今回は、それがない。
藤崎さんが地面に座ったまま言う。
「私が怪我したからですかね」
「分かりません。ただ、今まで負傷者がいたことは何度もあります」
「ですよね」
藤崎さんは自分の右脚を見る。
救難員がすでに簡単な固定をしている。腫れは出ているが、しびれや足先の動きに問題はない。
ただ、自力で長い距離を歩かせるのは難しい。
大橋さんが地図を広げた。
「まず、帰れる可能性がある道を全部確認しましょう」
俺たちは地図の周りへ集まる。
藤崎さんだけはその場から動かさず、救難員一人がそばについた。
大橋さんが現在位置を指す。
「ここが第五層の確認地点。東側通常経路はさっきの崩落で使えない」
地図上では、来た時に使った道が地上まで最も短い。
今はその入口から先が塞がれている。
「次、西側」
藤崎さんが指を動かす。
「西側はここから大きく回り込んで、第四層の西端へ出ます。距離はありますが、通常は通れます」
「途中の岩場ってどこです?」
神代さんが聞く。
「ここです」
藤崎さんが地図を示す。
「自然の段差が続く場所です。一か所ずつの高低差は大きくないんですが、道幅が狭い」
「担架は?」
「通せる場所と、かなり厳しい場所があります」
大橋さんが救難員を見る。
「現物を見ないと判断できないな」
「はい」
地図だけでは分からない。
俺は光のない足元を見る。
いつもなら、こういう時は《帰り道》がまず方向を示してくれる。西なのか、それとも別の道なのかを確認してから、実際にどう通るか考える。
今日は、その最初の方向すら分からない。
「他には?」
大橋さんが聞く。
藤崎さんが少し考えた。
「南側に縦穴があります」
「縦穴?」
「昔の探索ルートです。今は正式な退避経路には入れてません」
地図の下側を指す。
細い線が第五層から第四層へ伸びている。
「登れるんですか?」
俺が聞く。
「探索者なら。固定ロープも一部残っています。ただ、かなり急です」
大橋さんが藤崎さんを見る。
「担架は無理ですね」
「少なくとも、そのまま持ち上げるのは無理です」
候補としてはかなり厳しそうだった。
管理会社の職員が言う。
「じゃあ、西側しかないんじゃ……」
「今のところは」
大橋さんが答える。
「ただし、通れると確認してからです」
すぐに出発はしない。
負傷者を連れて長い距離を進んだあとで行き止まりになるほうが危ない。
大橋さんが班を分ける。
「確認に出るのは俺、神代さん、久世さん、救難員一名。藤崎さんと管理会社の方はここで待機。もう一人の救難員が残る」
俺は人数を確認した。
確認側四人。
待機側三人。
全体で七人。
これまでの救難でも、一時的に班が分かれることはあった。それでも、最終的に一緒に帰る人たち全体が《帰り道》から外れたことはない。
……少なくとも、俺はそう考えていた。
「ちょっと待ってください」
俺が言うと、大橋さんがこちらを見る。
「どうしました?」
「今、四人と三人に分かれるじゃないですか」
「はい」
「その前に一つだけ確認していいですか」
俺は改めて全員を見る。
藤崎さん。
管理会社の職員。
大橋さん。
救難員二人。
神代さん。
そして俺。
全員いる。
「もう一回だけ《帰り道》を見ます」
大橋さんは止めなかった。
「お願いします」
七人全員で帰ることを意識する。
やはり光は出ない。
「駄目です」
「分かりました」
今度は大橋さんも、それ以上聞かなかった。
「じゃあ確認に行きます」
神代さんが剣へ手をかける。
「前、行きます」
「お願いします」
俺たち四人で西側へ入った。
東側より道幅は広い。
最初の数分は問題なかったが、足元はかなり悪い。岩の間には細い水が流れ、一部は滑りやすくなっている。
神代さんが先を照らす。
「ここなら担架でも通れそうですね」
救難員が答える。
「今の幅なら」
「問題はこの先か」
大橋さんが地図を見る。
俺は無意識に足元へ目を落とした。
もちろん、光はない。
まだそのことに慣れない。
「久世さん」
神代さんに呼ばれた。
「はい」
「足元」
「あ」
小さな段差に引っかかりかけていた。
「すみません」
「今日は《帰り道》を見なくていいですから」
「見てないんですけど、探しちゃうんですよ」
「余計危ないです」
正しい。
俺は前を見る。
今は普通に歩く。それだけでいい。
十分ほど進むと、通路が狭くなってきた。
両側から岩壁が迫り、二人並ぶのも難しい。
救難員が幅を確認する。
「担架は通るかもしれないけど、持つ側がきついですね」
「横から支えられないな」
大橋さんが答える。
さらに先へ進んだところで、地面が途切れていた。
「これか」
大橋さんが足を止める。
俺も後ろから覗いた。
通路を横切るように、大きな亀裂が入っている。
幅は三メートルほど。
下へライトを向けても底は見えず、反対側にはそのまま道が続いていた。壁には古い固定金具も残っている。
「前からこんなに開いてました?」
大橋さんが聞く。
藤崎さんへ通信を入れる。
雑音が混じるが、何とかつながった。
『そこまで行きました?』
「亀裂を確認。幅三メートル前後」
少し間があった。
『広がってます』
「以前は?」
『一メートルちょっとです。跨ぐのは無理でも、簡易板を渡して通れるくらいでした』
大橋さんが亀裂を見る。
「今は無理だな」
神代さんが対岸を確認する。
「私なら渡れます」
「神代さんだけならね」
大橋さんが答える。
現地救難員も同じ意見らしい。
「ロープを張れば、動ける人間なら渡せると思います」
俺が聞く。
「藤崎さんは?」
救難員は亀裂と対岸を見比べてから答えた。
「今の状態で、担架のままこの幅を越えるのは難しいです」
「ですよね」
西側も、そのままでは使えない。
大橋さんが地図を見る。
「この先は?」
通信越しに藤崎さんが答える。
『亀裂を越えれば、第四層側までつながっています。そっちは比較的安定してるはずです』
帰る方向自体はある。
でも、今の七人では通れない。
俺は亀裂の向こうを見る。
もし藤崎さんが怪我をしていなければ、七人全員が普通に歩けるなら、ロープを使ってここを越えられるかもしれない。
南側の縦穴だって使える可能性はある。
東側は崩れている。
西側は負傷者を渡せない。
南側は担架搬送が難しい。
俺たちは一度、待機地点へ戻ることにした。
戻る途中も、《帰り道》は出なかった。
藤崎さんたちと合流すると、大橋さんが状況を説明する。
「西側は亀裂が拡大。歩ける人間なら渡れる可能性がありますが、藤崎さんの搬送は現状難しいです」
藤崎さんが頷く。
「そうですか」
管理会社の職員が不安そうに聞く。
「じゃあ、帰れる道がないってことですか?」
誰もすぐには答えなかった。
東側は崩落。
西側には亀裂。
南側は急な縦穴。
少なくとも今分かっている範囲では、七人全員がそのまま帰れる道はない。
俺はもう一度足元を見る。
相変わらず、光はなかった。
そこでようやく、一つの考えが浮かぶ。
「……もしかして」
神代さんが俺を見る。
「何ですか?」
まだ確信なんてない。
でも、今までとの違いを考えると、それしか思いつかなかった。
「《帰り道》が出ないんじゃなくて……今は、七人で帰れる道そのものがないんじゃないですか」
その場に少し沈黙が落ちた。
俺自身、その考えが正しいのかは分からない。
ただ初めて、《帰り道》が見えないことと、目の前の状況がつながった気がした。




