第82話 帰る側になった
最初の揺れが収まってから、しばらく周囲の様子を見た。
水たまりの波紋は消え、岩壁から何かが落ちてくる気配もない。
大橋さんが通信機を確認する。
「地上、こっちは異常なし。もう少し様子を見てから戻ります」
『了解。こちらでも揺れは確認しています。今のところ入口側に異常はありません』
返事ははっきり聞こえた。
藤崎さんは周辺の岩壁をライトで確認している。
「目立った変化はなさそうですね」
「なら、そろそろ戻ります?」
俺が聞く。
大橋さんが頷いた。
「そうしましょう。予定してた確認はほぼ終わってる」
神代さんも反対しなかった。
「東側から戻りますか?」
「まずはそのつもりです」
大橋さんが答え、俺を見る。
「久世さん。《帰り道》はここで見ます?」
本来なら、それが今日最後の確認になる予定だった。
俺は少し考える。
「一度見てもいいですけど、今の揺れがあった直後ですよね。先に東側が実際に通れるか確認しながら戻りません? 途中で何か変わってたら、その時に《帰り道》を見たほうがいい気がします」
大橋さんはすぐに頷いた。
「その方がいいな。今日は《帰り道》のルートを決める日じゃない」
「はい」
藤崎さんも地図を畳む。
「東側なら、さっき通ったばかりです。まずそこから戻りましょう」
七人で来た道を引き返すことになった。
先頭は大橋さんと現地救難員。その後ろに藤崎さんと管理会社の職員が入り、俺と神代さん、もう一人の救難員が後ろにつく。
歩き始めて数分。
今度は、さっきとは違う音がした。
地面の下から、低く響くような音だった。
神代さんが足を止める。
「来ます」
何が、とは聞かなかった。
次の瞬間、床が大きく揺れた。
「止まれ!」
大橋さんの声が飛ぶ。
俺も反射的に姿勢を低くした。
足元の岩が左右に揺れ、壁のどこかで石がぶつかる音が続く。さっきとは比べものにならない。
天井から細かい砂と小石が落ち始めた。
「壁から離れて!」
救難員が叫ぶ。
広い場所へ動こうとした、その時だった。
前方で岩が割れるような音が響き、続いて何か重いものが落ちた。
神代さんが俺の腕をつかむ。
「久世さん、こっちです」
引かれるまま一歩下がると、直後に俺が立っていた場所の少し前へ拳ほどの石が落ちた。
「ありがとうございます」
「まだです」
揺れは続いている。
大橋さんたちは前方の少し広い場所へ移動していた。俺たちもそこへ向かう。
その途中で、藤崎さんの身体が大きく傾いた。
「っ!」
足元の岩がずれたらしい。
藤崎さんは踏ん張ろうとしたが、そのまま膝をつく。すぐ隣にいた管理会社の職員が身体を支えた。
「藤崎さん!」
「大丈夫、です……」
そう答えたものの、立ち上がろうとして顔をしかめる。
揺れが少しずつ弱くなった。
大橋さんが全員へ声をかける。
「その場で無理に動くな! 頭上確認!」
全員が周囲を見る。
大きな落石は止まっていた。細かい砂がまだ少し落ちていたが、それも数秒後には収まった。
やがて、さっきまで聞こえていた水の音だけが戻ってくる。
大橋さんはすぐに人数を確認した。
「久世さん」
「います」
「神代さん」
「はい」
「藤崎さん」
「います」
管理会社の職員と救難員二人からも返事が続く。
「七名全員」
大橋さんが短く息を吐いた。
「怪我は?」
「藤崎さんが脚を痛めてます」
管理会社の職員が答える。
救難員がすぐに藤崎さんの横へしゃがんだ。
「どこです?」
藤崎さんが右脚を押さえる。
「足首から上です。踏ん張った時にひねったみたいで」
救難員が状態を確認する。
「強く痛む場所は?」
「ここです」
「足先、動かせます?」
「はい」
「しびれは?」
「ないです」
受け答えはしっかりしている。ただ、立とうとすると痛みが強いらしい。
大橋さんが言った。
「今は無理に歩かせない。他は?」
神代さんが俺を見る。
「久世さん、大丈夫ですか?」
「大丈夫です。さっき助けてもらったくらいで」
「頭、打ってません?」
「打ってません」
自分でも腕や脚を確認したが問題はない。
現地救難員二人と管理会社の職員にも怪我はなかった。
大橋さんが通信を入れる。
「第五層。強い揺れあり。七名全員生存。一名負傷、右脚。現時点で歩行困難」
雑音が入った。
『……了解……地上でも……』
声が途切れる。
大橋さんが少し位置を変えた。
「聞こえますか?」
『聞こえる。そちら……通路……確認を』
今度は少しましだ。
「これから確認します。こちらから無理には動きません」
『了解』
通信は切れていない。
ただ、さっきまでより明らかに不安定だった。
大橋さんは救難員の一人に言う。
「藤崎さんを見ててくれ」
「了解」
俺たちは周辺の状況を確認することになった。
問題は、さっき大きな音がした方向だ。
来た道の先。
東側の通常経路。
大橋さんと神代さんが少し先まで見に行き、俺も距離を空けてついていく。
曲がり角を越えたところで、全員が足を止めた。
「……これは」
通路がなくなっていた。
完全に消えたわけではない。
ただ、大きな岩がいくつも崩れ落ち、人が通れる隙間を塞いでいる。その向こうがどうなっているのかも見えなかった。
神代さんが近づこうとする。
大橋さんが止めた。
「触らないでください。まだ動くかもしれない」
「はい」
俺も離れた位置から見る。
さっき通ったばかりの道だ。
十分も経っていないのに、もう同じようには通れない。
藤崎さんの言葉を思い出す。
ダンジョンは、同じ形のままではない。
まさか数分後に見せられるとは思わなかった。
「東側は使えないですね」
俺が言う。
「今すぐはな」
大橋さんが答える。
「掘れば通れる、で手を出す場所じゃない」
神代さんも頷いた。
「上が安定しているか分かりません」
俺たちは藤崎さんたちのところへ戻った。
状況を伝えると、藤崎さんが地図を広げる。
「じゃあ、西側です」
「通れる?」
大橋さんが聞く。
「さっき確認した範囲では。ただ、東よりかなり遠回りです」
「藤崎さんが歩けない」
「……ですよね」
救難員が言った。
「担架はあります。携行用を一台」
今日の目的は救難ではなかったが、現地救難班は最低限の装備として折り畳み式の担架を持ってきている。
「搬送自体はできる」
大橋さんが地図を見る。
「西側の幅は?」
「大部分は問題ありません。ただ、途中に岩場があります」
「担架で通れる?」
藤崎さんは少し考えた。
「場所によります。人が歩くだけなら問題ないんですが」
今度は俺の番だった。
全員の視線が少しだけこちらへ向く。
誰も急かさない。
でも、考えていることは分かる。
東側は崩れた。
西側は遠く、藤崎さんを担架で運べるか分からない。
こういう時のために、俺には《帰り道》がある。
「一度、見ます」
俺が言った。
大橋さんが頷く。
「お願いします」
その前に、俺は全員を確認した。
藤崎さん。
管理会社の職員。
大橋さん。
救難員二人。
神代さん。
そして俺。
七人。
誰か一人だけ先に帰すつもりはない。
今ここにいる七人で帰る。
そう認識したところで、大橋さんが声をかけた。
「久世さん、ちょっと待って」
「はい?」
「一応、地上にも今から《帰り道》を確認すると伝える」
大橋さんが通信を入れる。
「第五層。東側通常経路は崩落で通行不可。現在、藤崎さん歩行困難。これから久世さんが《帰り道》を確認します」
雑音の向こうから返事があった。
『了解……こちらも……救難準備に切り替える』
その言葉を聞いて、少し変な感じがした。
救難準備。
いつもなら、俺たちがする側だ。
今日は違う。
地上では、俺たち七人を帰すために誰かが動き始めている。
「久世さん」
神代さんが俺を見る。
「はい」
「お願いします」
俺は頷き、《帰り道》を意識する。
いつもなら、それだけで見える。
今ここにいる全員で地上へ帰るための、淡い光の道。
俺は足元を見た。
何もない。
一度顔を上げ、西側の通路も見る。
そこにも光はなかった。
「……あれ?」
大橋さんが反応する。
「どうしました?」
俺はもう一度、七人を確認した。
人数は合っている。
藤崎さんもここにいる。
全員を置いていかず、一緒に帰るつもりでいる。
もう一度《帰り道》を意識する。
それでも、いつもの光は現れなかった。
神代さんが俺の表情を見る。
「久世さん?」
俺は足元から目を離さないまま答えた。
「……見えません」
「え?」
「《帰り道》が、出てないです」
これまで何度も当たり前のように見てきたはずの光が、今はどこにもなかった。




