第77話 追わない戦い
「三体です」
通路の奥を見たまま、神代さんが言った。
まだ俺には姿が見えない。ただ、床を擦る音と足音は少しずつ大きくなっていた。
班長が周囲を確認する。
俺たちのすぐ後ろには資材搬送区画があり、片桐さんはまだ搬送台の上にいる。ここから先はレールがなくなるため、通常通路へ出る前に担架へ移し直さなければならない。
一番動きにくいところで来た。
「種類は?」
班長が聞く。
「獣型です。中型が三体。こちらに向かっています」
現地の救難員の一人が片桐さんの固定を確認し、もう一人が周囲を見る。
石倉さんも腰の武器へ手を伸ばしかけた。
「俺も前に――」
「必要ありません」
神代さんが振り返らずに言った。
石倉さんの手が止まる。
「でも、俺はC級です。三体なら手伝えます」
今度は班長が答えた。
「石倉さんは救難対象です。片桐さんのそばにいてください」
「でも――」
「人手が必要なら頼みます。今は神代さんに任せます」
石倉さんは神代さんを見る。
「一人で大丈夫ですか?」
「はい」
返事に迷いはなかった。
神代さんは剣を抜く。
「ここから先へは通しません」
ライトの端に、ようやく魔物の姿が見えた。
四本足で低い姿勢のままこちらへ近づいてくる。大きさは大型犬より一回り大きいくらいで、肩から背中にかけて硬そうな外皮に覆われていた。
三体のうち、先頭の一体が低く唸る。
俺は片桐さんの近くへ移動した。
班長がすぐに指示を出す。
「神代さんが前を止める。その間に片桐さんを担架へ移す」
「はい」
救難員二人が折り畳み担架を広げる。
片桐さんが少し身体を起こしかけた。
「自分で動いたほうが――」
「そのままで」
救難員が止めた。
「こっちで移します」
「はい」
その間に、一体目の魔物が速度を上げた。
狭い通路を真っすぐ走ってくる。
神代さんは自分から距離を詰めず、相手が剣の間合いへ入るまで待った。魔物が前脚を振り下ろした瞬間に身体をずらし、その勢いを流しながら横腹へ刃を入れる。
魔物の身体が床へ転がった。
すぐ後ろから二体目が来る。
神代さんは倒した魔物を追わず、すぐに元の位置へ戻って次を待った。
以前の俺なら、ただ強いとしか思わなかったかもしれない。
今は少し違って見える。
神代さんが守っているのは、目の前の敵を倒すことより、その後ろにいる俺たちが動ける場所だった。
「久世さん、そっち持ってください」
救難員に呼ばれた。
「あ、はい」
考えている場合じゃなかった。
担架を搬送台のすぐ横へ置き、片桐さんを移す準備をする。
救難員が声をかけた。
「今から三人で持ち上げます。脚はこちらで支えるので、自分で動こうとしないでください」
「分かりました」
「肩も痛みますよね?」
「左が少し」
「そこも支えます。痛かったらすぐ言ってください」
一人が頭と肩、もう一人が腰と脚を支える。
俺は担架がずれないよう押さえた。
「いきます。せーの」
片桐さんの身体が持ち上がる。
「っ……」
小さく声が漏れた。
「脚?」
「はい。でも大丈夫です」
「大丈夫じゃなくても言ってください」
片桐さんをゆっくり担架へ移す。
前では、二体目の魔物が神代さんの横へ回ろうとしていた。
神代さんも同じ方向へ動き、こちらへ抜けられない位置を取る。魔物が何度か爪を振るうが、必要な分だけ避け、無理に反撃しない。
攻撃できそうな場面は何度もあった。
それでも、神代さんは深く踏み込まない。
俺たちとの距離を広げないためだろう。
「固定します」
救難員が片桐さんを担架へ移し終え、ベルトを締め直す。
班長が聞いた。
「状態は?」
「意識問題なし。痛みはありますが、搬送できます」
「よし」
その時、三体目の魔物が動いた。
前の一体を避けるように壁際から近づいてくる。
「神代さん、右!」
現地の救難員が声を上げる。
「見えています」
神代さんが一歩下がった。
二体がほぼ同時に近づく。
さすがに俺も身体へ力が入った。
一体でも神代さんが負けるとは思わない。二体でもたぶん同じだ。
それでも、今ここで一体でも抜けてくれば困る。
片桐さんは動けない。
石倉さんも同じことを考えたらしく、俺たちの前へ少し出た。
「石倉さん」
俺が呼ぶ。
「分かってます。行きません」
武器には触れたままだったが、それ以上前には出なかった。
二体のうち一体が飛び込む。
神代さんは正面から受けず、横へ流した。魔物は勢いを止められず、そのまま金属壁へ肩をぶつける。
大きな音が響いた。
体勢を崩した一瞬で、神代さんの剣が首元へ入る。
一体が倒れた。
残った一体は動きを止め、低い姿勢のまま神代さんと距離を取った。
神代さんも追わない。
数秒、互いに動かなかった。
やがて魔物が一歩下がり、さらに距離を取る。そのまま来た通路の奥へ走り去っていった。
神代さんはしばらく剣を構えたまま見送り、姿が消えてから班長を見る。
「追いますか?」
「必要あります?」
「ありません。こちらから近づかなければ、戻ってくる可能性は低いと思います。今のうちに移動したほうがいいです」
「そうしましょう」
神代さんが剣を収めながら戻ってくる。
俺は聞いた。
「一体残して大丈夫ですか?」
「今の目的は、この通路を通れるようにすることです」
「また来たら?」
「その時は止めます」
神代さんらしい答えだった。
石倉さんも神代さんを見る。
「昔から、ああいう戦い方なんですか?」
俺も少し気になった。
神代さんは首を横に振る。
「以前なら、たぶん追っていました」
「やっぱり」
俺が言う。
「何ですか?」
「いや、そんな気がしただけです」
「久世さんに何度も言われましたから」
「俺?」
「倒すために来たんじゃない、と」
一緒に救難へ入り始めた頃の話だ。
俺自身は、そんな立派なことを教えたつもりはない。ただ、魔物を追いかける神代さんを見て、救難対象を置いていかないでほしいと言っただけだった。
それでも今は、神代さんのほうが自然にやっている。
「片桐さん、動かします」
救難員の声で会話を切る。
俺たちはすぐに役割へ戻った。
搬送台から担架への移し替えは終わっている。
前後を現地の救難員二人が持ち、班長が先頭に立つ。神代さんは後方、石倉さんは担架の横へ入り、俺は《帰り道》を確認する。
班長が周囲を見た。
「人数確認」
俺も一緒に数える。
救難対象二名。
救難側五名。
「七名、全員います」
「行くぞ」
通常通路へ出る。
さっき魔物が来た方向を通らなければならない。
倒れた二体を避けて進んだ先にも、《帰り道》は続いていた。逃げた一体の姿はない。
しばらく進んだところで、班長が足を止めた。
「久世さん。通常の階段はこっちだ」
班長が右側を指す。
地図でも、地上へ向かうならそちらのほうが自然だ。
でも、《帰り道》は違った。
「左です」
俺が答える。
「また通常ルートじゃないのか」
「みたいです」
左側には、緩やかに下っていく通路がある。
地上へ帰る途中で下るのは、少し変な感じがした。
現地の救難員も地図を見る。
「こっちは旧管理区画だぞ」
石倉さんが聞く。
「何かあるんですか?」
「昔の作業通路があるはずだ。ただ、今はほとんど使ってない」
班長が通信を入れる。
「地上。北側通常通路まで到達。久世さんの《帰り道》が階段ではなく、旧管理区画側を示しています」
相馬さんの返事はすぐだった。
『片桐さんの状態は』
「担架搬送継続。大きな変化なし」
『なら、道を確認しろ。無理なら戻れ』
「了解」
続いて岸本さんの声が入る。
『旧管理区画って、北側ですか?』
「はい。第四層北側。通常階段の反対方向です」
『少し待ってください』
岸本さんが設備図を確認する。
俺はその間に足元の光を見る。
淡い線は、緩い下り坂の奥へ続いていた。
片桐さんが担架の上から聞く。
「下に行くんですか?」
「一回だけみたいです」
「地上、上ですよね?」
「そこは俺も分かってます」
石倉さんが笑う。
「久世さん、それ言われるんですね」
「たまに言われます」
もちろん、《帰り道》が一度下へ向かうこと自体は珍しくない。
最短距離ではなく、今いる全員で帰れる可能性の高い道を示すからだ。
今回なら、理由も何となく想像できる。
通常階段を使えば、片桐さんを担架に乗せたまま上らなければならない。距離が短くても、負傷者にも運ぶ側にも負担が大きい。
『ありました』
岸本さんの声が戻る。
『その先に旧資材搬出路があります』
「搬出路?」
俺が聞く。
『昔、大型設備を地上側へ運び出すために使っていた通路です。今の通常階段が整備される前からあります』
班長が聞いた。
「地上までつながってる?」
『第二層までです。そこから通常管理路へ合流します』
「状態は?」
『記録上は通行禁止にしていません。ただ、しばらく人は通っていません』
現地の救難員が地図を見る。
「階段よりかなり遠回りだな」
神代さんが聞く。
「坂が多いんですか?」
『ほとんどが緩い傾斜路です。資材を台車で運ぶための道なので』
全員が片桐さんを見る。
担架で階段を上がるより、そちらのほうが負担は少なそうだった。
俺は足元の光を示す。
「《帰り道》も、そっちです」
班長が決めた。
「確認しながら使う。久世さん、先をお願いします」
「はい」
俺たちは左へ曲がった。
通路は緩やかに下っている。
壁の表示は古く、一部は文字が消えかけていた。その奥には、『旧資材搬出路』と書かれた案内が残っている。
神代さんが俺の横へ来た。
「また、知らない道ですね」
「このダンジョン、知らない道ばっかりです」
「閉鎖する前に来られてよかったかもしれません」
「救難じゃなければね」
「そうですね」
俺は少し笑って、前を見る。
探索者が使わなくなった通路も、止められた設備も、閉じられた扉も、もう必要がないと思われていたものばかりだ。
それでも今は、その一つ一つが片桐さんを地上へ帰すために使われている。
俺たちは担架を持ち直し、古い搬出路へ入った。
《帰り道》は、その奥へまっすぐ続いていた。




