第75話 開ける人
閉じた非常扉の前で、俺たちはいったん動きを止めた。
《帰り道》は扉の向こうへ続いている。でも、その扉は今のままでは開かない。
片桐さんは担架の上にいる。意識ははっきりしているものの、左脚の腫れは強く、ここから来た狭い保守路を戻るのはできれば避けたい。
班長が通信機を持つ。
「第五層側の制御室へ行けば、固定部を解除できるんですね?」
『できます。ただ、少し確認させてください』
岸本さんの声が返ってきた。
『EX-408は、閉鎖後も非常設備として残す予定だった扉です。通常電源は切っていますが、完全に使えなくしたわけではありません』
「なら、電源を戻す?」
『いえ。それはやめたほうがいいです』
返事は早かった。
『周辺の設備もまとめて停止させているので、この扉だけのために電源系統を戻すのは危険です。固定部だけ手動で外します』
俺には半分くらいしか分からない。
でも、分からないからこそ勝手に触らないほうがいいことだけは分かる。
神代さんが扉の横にある表示を見る。
「こちらでできることはありますか?」
『今は触らないでください』
「分かりました」
神代さんは素直に一歩離れた。
班長が俺を見る。
「久世さん。道は変わってない?」
俺は足元を確認する。
「変わってません。この扉の向こうです」
「了解」
班長は通信へ戻った。
「地上。第五層側へ人を回せますか」
今度は相馬さんが答える。
『もう手配してる』
「早いですね」
俺が思わず言う。
『閉じた扉を見てから考えるほど暇じゃない』
いつもの相馬さんだった。
『別班を第五層へ回す。現地救難員二名と、管理会社の保守担当一名だ。制御室まで通常通路から入れることは確認した』
岸本さんの声も入る。
『保守担当には、こっちから手順を伝えます。閉鎖作業の記録も出しました』
「岸本さんじゃなくて大丈夫なんですか?」
俺が聞いた。
『大丈夫です。同じ設備を扱える人が入口に残ってました』
それを聞いて少し安心した。
岸本さん自身が、また中へ入る必要はない。
必要なのは岸本さん一人ではなく、この設備を扱える人だ。
少し前まで救難所で何度も聞いた話と似ている。一人しかできない仕事を作らないという考え方は、救難だけのものではないらしい。
班長が片桐さんのそばへ戻る。
「少し待ってもらいます」
「分かりました」
片桐さんが答えた。
痛みがあるせいか、さっきより声が低い。
救難員がすぐに状態を確認する。
「痛み、強くなってますか?」
「少し」
「十段階なら?」
「……六くらいです」
「さっきは?」
「五です」
救難員は片桐さんの脚をもう一度確認した。
「しびれは?」
「ないです」
「足先、動かせます?」
片桐さんがゆっくり動かす。
「動きます」
「分かりました。今はこのまま固定します。無理に身体を起こさないでください」
石倉さんが片桐さんを見る。
「悪い。あの時、もっと手前で止まってれば」
「それ今言う?」
片桐さんが苦笑する。
「言いたくなるだろ」
「じゃあ地上出てからにして。今聞いても脚治らないから」
「……分かったよ」
二人の会話を聞いて、少しだけ安心した。
少なくとも、まだ話す余裕はある。
神代さんは非常扉ではなく、来た通路のほうを見ていた。
「神代さん?」
「待っている間も、後ろが安全とは限りませんから」
俺も振り返る。
確かにそうだ。
扉が開くのを待っているからといって、この場所そのものが安全になったわけではない。担架があり、動けない人もいる。狭い設備区画で魔物が来れば、それだけ守るものが増える。
神代さんは剣へ手をかけたまま、通路側に立っていた。
俺にはできない仕事だ。
その代わり、俺は足元の光を見る。
こっちも変化はない。
しばらくして、小日向の声が通信機から聞こえた。
『第五層側の班、制御室へ到着しました』
班長がすぐに応答する。
「状況は?」
別の救難員の声に切り替わった。
『制御室前です。扉は開いています。管理会社の方が中を確認します』
続いて、聞き慣れない男性の声が入った。
『EX-408の制御盤、確認しました。電源は停止状態です』
岸本さんが地上側から答える。
『そのままで大丈夫です。右側に固定部の手動解除があります。黄色いカバーです』
『あります』
『開ける前に、閉鎖作業票が差してないか確認してください』
少し間があった。
『あります。「機械固定済み・通電禁止」』
「何です、それ?」
俺が聞く。
班長も分からないらしく、小さく首を振った。
岸本さんが説明する。
『作業中に、誰かが間違って設備を動かさないための表示です。閉鎖するときに固定した証拠でもあります』
「じゃあ、外していいんですか?」
『勝手には駄目です』
俺は黙った。
聞けば聞くほど、俺が触らなくてよかったと思う。
『管理会社側で解除許可を取ります。少し待ってください』
そこから数分、通信が途切れた。
班長も急かさない。
俺は時計を見る。
片桐さんを見つけてから、思っていたより時間が経っていた。
《帰り道》は見えているのに、一歩も進めない。
不思議な感じだった。
これまでだって、道が出ればそのまま帰れるわけではなかった。魔物がいれば避ける必要があるし、通れない場所があれば通る方法を探す。
今回も同じだ。
ただ、目の前の障害は、俺たちが知らない設備だった。
知らないから、勝手に動かせない。
「久世さん」
石倉さんが声をかけてきた。
「はい」
「その光、本当にこの扉の向こうなんですよね?」
「はい」
「開かなかったら?」
聞かれて、俺は少し考えた。
「その時は、別の方法を探します」
「道が変わるんですか?」
「変わることもあります」
「じゃあ、待たなくても――」
「でも、今は変わってません」
俺は扉の向こうへ続く光を見る。
「今は、こっちから帰れるってことだと思います」
自分でも少し曖昧な言い方だと思う。
《帰り道》が、どういう理由でこの道を選んでいるのかまでは俺にも分からない。
ただ、今ここにいる七人で帰る道として、この方向を示している。
だったら、まずはその道を通れるようにすればいい。
通信が戻った。
『解除許可、出ました』
岸本さんの声だった。
『第五層、作業をお願いします』
『了解』
保守担当の男性が答える。
『黄色カバー開放。手動解除レバー確認』
『いきなり最後まで倒さないでください。半分まで動かして、表示を確認してください』
『半分まで動かします』
通信の向こうから金属音がした。
俺たちのいる扉では、まだ何も変わらない。
『表示、固定一から解除』
『そのまま二段目まで』
再び金属音が響く。
今度は、目の前の非常扉の奥から小さな振動が伝わってきた。
神代さんが扉を見る。
「動きました」
俺にも分かった。
さっきまで赤かった状態表示の一部が消えている。
『固定二、解除しました』
第五層から連絡が入った。
扉の横の表示が変わる。
『固定部 解除』
班長が読み上げた。
「こっちも変わりました」
『まだ扉は開けないでください』
岸本さんが言う。
解除ハンドルを持っていた救難員が、手をかける寸前で止まった。
『扉の周辺に、引っかかっているものがないか確認してください。閉鎖作業中に資材を置いている可能性があります』
全員で扉の下や左右、上部を確認する。
目立ったものはない。
「問題なし」
班長が答えた。
『では、解除ハンドルをゆっくり回してください。重かったら止めてください』
現地の救難員がハンドルを差し込み、ゆっくり力をかける。
最初は動かなかった。
もう一人が補助に入ろうとしたところで、班長が止める。
「待って。重い?」
「少し。でも回りそうです」
「無理するな」
救難員がもう一度、ゆっくり力を入れる。
今度は動いた。
金属の擦れる音と一緒に、ハンドルが少しずつ回っていく。
やがて扉の内部で大きな音がした。
「解除できた」
班長が扉へ手をかける。
一人では重く、もう一人も加わった。
少しずつ隙間が広がっていく。
俺は足元を見る。
《帰り道》は変わらない。
開いていく扉の向こうへ、そのまま続いている。
「通れます」
俺が言った。
扉が、人が通れるところまで開いた。
その先にも通路が続いている。
幅も十分あり、担架を通すことができそうだ。
神代さんが先へ入り、周囲を確認する。
「問題ありません。少し先まで見えます」
班長が通信する。
「非常扉、開放。搬送再開します」
『了解』
相馬さんが答えた。
『第五層側の班は制御室周辺を確認してから地上へ戻す。そっちは二人を優先しろ』
「了解」
第五層側で扉を開けてくれた人たちと、俺たちは顔を合わせていない。
それでも、その人たちがいなければ扉は開かなかった。
岸本さんが図面を確認し、別の設備員が制御室へ向かい、救難員が護衛についた。地上では相馬さんと小日向が情報をつないでいる。
いくつもの仕事がつながって、ようやく一枚の扉が開いた。
「久世さん」
神代さんが呼ぶ。
「はい」
「道は?」
俺は光を見る。
「まだ、このままです」
「では行きましょう」
「はい」
片桐さんの担架を持ち上げる。
七人全員が扉を抜けたところで、班長が人数を確認した。
「救難対象二名、救難側五名。七名、全員通過」
俺たちはそのまま先へ進む。
少しだけ振り返ると、開いた非常扉の向こうに、さっきまでいた設備室が見えた。
俺の《帰り道》は最初からここを示していた。
でも、俺には扉を開けられなかった。
必要だったのは、設備を知っている人と、その人たちへ情報をつなぐ人だった。
少し前まで助けられる側にいた岸本さんたちの知識が、今度は俺たちを先へ進ませている。
救難では、できることを持っている人が、その時に必要な場所で動く。
たぶん、それでいい。
「久世さん」
前から班長に呼ばれた。
「すみません」
俺は急いで追いつく。
考えるのは、帰ってからでいい。
今はまだ、七人で地上へ向かっている途中だ。
《帰り道》は、開いた扉の先から旧排気管理区画の奥へ伸びていた。




