第70話 救難を選ぶ人
翌朝、瀬川はいつもより少し早く救難所へ来た。
予定していた研修は昨日で終わっている。今日は午後に村瀬さんたちが迎えに来るまで、昨日の救難記録を整理し、研修中に残したものを確認してから戻ることになっていた。
入口で立ち止まった瀬川が、救難所の中を見回す。
「どうしたの?」
俺が聞く。
「いや……今日でここに来るのも最後なんだなと思って」
「また来ればいいじゃん」
「そんな簡単に来ていいんですか?」
「俺に聞かれても」
奥から相馬さんの声が飛んでくる。
「遊びに来る場所じゃないぞ」
「ほら」
俺が言うと、瀬川が笑った。
「ただ、研修ならまた来てもいい」
相馬さんが続ける。
瀬川が少し驚いて振り返った。
「いいんですか?」
「必要ならな。数日見ただけで全部覚えたつもりになられても困る」
「なってません」
「ならいい」
いつもの言い方だったが、追い返しているわけではない。
瀬川もそれが分かったらしく、「ありがとうございます」と頭を下げた。
午前中は、昨日の救難記録の確認から始まった。
小日向が端末を開く。
「人数確認のところ、これですね」
画面には、瀬川自身が残した記録が表示されていた。
『別行動者発生時、その場の人数と救難全体の人数を混同。指摘後、全体人数と所在を分けて確認する方法へ修正』
瀬川が少し嫌そうな顔をする。
「改めて見ると恥ずかしいですね」
「消します?」
小日向が聞く。
瀬川は少し考えてから首を横に振った。
「残します。次に同じことをしないための記録ですよね」
「そうですね」
「だったら、そのままで」
小日向が頷く。
俺も横から画面を見る。
「偉いね」
「久世さんなら消します?」
「できれば、あまり目立たないところに移したい」
「じゃあ聞かなきゃよかったです」
最近、本当に扱いが雑になった。
小日向が次に『救難技能記録』を開く。
昨日の救難を受けて、瀬川の欄にも新しい履歴が追加されていた。
『現場通信記録補助』
『救難対象・救難側人数確認』
『搬送救難同行』
どれも研修補助として経験したものだ。
瀬川が自分の名前の横を見る。
「これで『研修中』は消えるんですか?」
相馬さんがすぐに答えた。
「消えない」
「ですよね」
「一回現場に出たくらいで、一人前の救難員にする気はない」
「分かってます」
瀬川は残念そうにはしなかった。
むしろ昨日より落ち着いて見える。
「じゃあ、僕が救難員になるには何が必要なんですか?」
相馬さんが手を止めた。
「なりたいのか」
瀬川も一度黙った。
ここへ来た時は、戦えない自分でも誰かを助ける側にいられるのか、それを知りたいと言っていた。
答えを確かめるだけなら、昨日までで十分だったはずだ。
それでも瀬川は、はっきりと頷いた。
「続けたいです」
救難所が少し静かになった。
俺も瀬川を見る。
「探索者をやめるってこと?」
「やめません」
「パーティは?」
「そっちも続けます。みんなはC級を目指してますし、僕も探索は続けます」
「忙しくない?」
「たぶん忙しいです」
瀬川が笑う。
「でも、救難も続けたいです」
相馬さんが椅子へ座り直した。
「理由は」
瀬川は少し考えてから答えた。
「昨日、人を助けられたから……だけじゃないです」
「じゃあ何だ」
「僕にもできることがあるって分かったからです」
そこで一度言葉を止める。
「最初は、それを確かめたくて来ました。でも、ここで見てたら、できることが一つあるだけじゃ足りないって分かりました」
俺は黙って聞く。
「記録も、地図を見るのも、通信を聞くのも、人数を確認するのも、ちゃんと覚えないと現場では使えない。昨日だって僕は間違えました」
相馬さんは何も言わない。
「だから、もう少し覚えたいです。自分にもできるかどうかを確かめるんじゃなくて、ちゃんと任せてもらえるところまで」
相馬さんはしばらく瀬川を見ていた。
「なら、まず戻って村瀬さんに話せ」
「はい」
「こっちで勝手に引き抜く気はない」
「引き抜きってほどじゃないと思いますけど」
俺が言う。
「久世」
「はい」
「黙ってろ」
「はい」
瀬川が笑いをこらえている。
相馬さんは続けた。
「向こうには向こうの救難体制がある。そこで訓練を続けられるなら、それが一番いい。足りないものがあれば、またこっちへ来ればいい」
「分かりました」
「あと、救難をやるからって探索を疎かにするな。ダンジョンに入った経験も無駄じゃない」
「はい」
瀬川はしっかり頷いた。
相馬さんはそれ以上何も言わず、また書類へ戻る。
「相馬さん」
「何だ」
「ありがとうございます」
「まだ何もしてない」
それでも瀬川は少しうれしそうだった。
昼前になると、神代さんも救難所へ顔を出した。
「今日、戻るんですよね」
「はい」
瀬川が答える。
「お世話になりました」
「こちらこそ」
神代さんは瀬川の技能記録を見る。
「昨日、現場にも入りましたよね」
「一回、人数確認を間違えました」
「聞きました」
「もう伝わってるんですか?」
「久世さんからではありませんよ」
言う前に釘を刺された。
「俺、何も言ってないけど」
「言いそうだったので」
「最近みんな俺に厳しくない?」
誰も答えてくれなかった。
神代さんは瀬川の記録を見ながら言う。
「でも、最初の現場で間違えたことを自分で残せたなら、それでいいと思います」
「神代さんも、昔うまくできなかったことを残してましたよね」
「はい」
「消したくならないですか?」
「少しは」
神代さんが笑った。
「でも、今できるようになったことも一緒に残るなら、悪くないです」
瀬川が頷く。
小日向が横から言った。
「そういう意味でも、この記録は作ったら終わりじゃないですね。経験が増えれば、その都度変わりますから」
「ずっと更新するの?」
俺が聞く。
「人が変わりますから」
「大変だね」
「久世さんも自分の記録、更新します?」
「何か増えた?」
「教育補助」
「それ救難技能?」
瀬川が笑った。
相馬さんは笑わなかった。
「入れなくていい」
「ですよね」
午後になると、研修初日に瀬川を連れてきた村瀬さんが、迎えの救難員と一緒にやって来た。
「お世話になりました」
村瀬さんが相馬さんへ頭を下げる。
「こっちも確認できたことがあった」
相馬さんが答えた。
小日向が『救難技能記録』の試作品を画面に出す。
「これが、研修中に作り始めたものです」
村瀬さんが覗き込んだ。
「瀬川から少し聞いてます。探索者ランクとは別に、救難で何を経験して、何を任せられるかを残すものですよね」
「まだ試作です」
小日向が説明する。
「項目も運用方法も固まってません。今は何人か分を登録して、実際に使いながら問題を確認している段階です」
村瀬さんはしばらく画面を見ていた。
「これ、うちでも試してみていいですか?」
小日向が相馬さんを見る。
「構わない。ただし、そのまま正解だと思うな」
「もちろんです」
「地域が違えば必要な技能も変わる。そっちで使って、変なところや足りないところがあったら教えてくれ」
「分かりました」
村瀬さんが笑う。
「情報共有に来たはずが、持って帰るものが増えましたね」
「こっちも増えた」
相馬さんが言う。
「人が増える前に、誰が何をできるか残す必要があるって気づけた」
瀬川が少し驚いた。
「僕が聞いたからですか?」
「きっかけはな」
「お」
俺が言う。
「瀬川君、結構すごいんじゃない?」
「久世、いちいち持ち上げるな」
「すみません」
瀬川が苦笑する。
村瀬さんが瀬川を見る。
「で、お前はどうだった」
「それなんですけど」
瀬川が少し姿勢を正した。
「戻ってからも、救難の訓練を続けたいです」
村瀬さんが一度だけ目を細める。
「本気か?」
「はい」
「探索は?」
「続けます」
「仲間には?」
「これから話します」
「先に話せ」
「はい」
そこは相馬さんと同じだった。
村瀬さんは少し考えてから言う。
「こっちにも救難に入ってる探索者はいる。ただ、お前みたいな低ランクの若手をどう育てるかは、正直まだ決まってない」
「分かってます」
「なら、まず補助からだ。通信と記録。それから搬送訓練もやる」
瀬川の顔が明るくなった。
「はい」
「実際の現場に出すかは、そのあと決める」
「分かりました」
そのやり取りを聞いていた相馬さんが、小日向へ言う。
「瀬川の記録、向こうに渡せる形にしとけ」
「本人の確認も取ります」
小日向が瀬川を見る。
「大丈夫です」
瀬川が答えた。
俺は少し不思議な気分だった。
瀬川一人の研修記録が、そのまま別の地域へ持っていかれる。
大げさな制度ができたわけでも、正式な資格が生まれたわけでもない。
ただ、誰が何を経験し、何を任せられるのかを残す。それを別の救難所でも試してみる。
今はそれだけだ。
少し前までは、救難に必要な人を相馬さんたちが頭の中で覚えていた。
そこから少しずつ、やり方が変わり始めている。
瀬川は自分の荷物をまとめた。
来た時と同じバッグだ。
「久世さん」
「何?」
「ありがとうございました」
「俺、そんなに教えた?」
「それ言います?」
「相馬さんと小日向と神代さんに教わってた時間のほうが長くない?」
「それはそうですけど」
そこは否定してほしかった。
瀬川が笑う。
「でも、久世さんがいたから聞きやすかったです」
「それ褒めてる?」
「たぶん」
「たぶんなんだ」
「あと、現場で人数確認を間違えた時に止めてもらったのも」
「次は自分で気づいてね」
「はい」
「何でも記録しようとして、現場を見なくなるのもなし」
「はい」
「バッグの中身を全部出して確認するのも」
「もうしません」
「本当に?」
「たぶん」
「そこはたぶんなんだ」
今度は俺が笑った。
瀬川は少し迷ってから聞いてくる。
「久世さん」
「うん」
「僕、救難を続けてもいいと思いますか?」
俺は瀬川を見る。
ここへ来たばかりの頃なら、何と答えればいいか少し迷ったかもしれない。
でも、今は答えやすかった。
「俺が決めることじゃないでしょ」
「そうなんですけど」
「やりたいなら、やればいいと思うよ。ただ、ちゃんと覚えてから」
瀬川が頷いた。
「はい」
「俺もまだ覚えてる途中だし」
「久世さんも?」
「ずっとじゃない?」
救難に慣れてきても、知らない場所はある。知らないやり方もあれば、自分だけではできないこともたくさんある。
たぶん、それはこれからも変わらない。
村瀬さんたちが帰る時間になった。
瀬川が入口で振り返る。
「また来ます」
「研修ならな」
相馬さんが答えた。
小日向も手を振る。
「次は、そっちで使った技能記録の改善点も持ってきてください」
「分かりました」
神代さんも軽く頭を下げた。
「気をつけて」
「はい」
俺も手を上げる。
「またね」
瀬川は最後にもう一度頭を下げ、村瀬さんたちと救難所を出ていった。
ドアが閉まると、少しだけ静かになった気がした。
「終わりましたね」
小日向が言う。
「そうだね」
俺は瀬川が使っていた席を見る。
ここへ来た時、瀬川は救難の現場がどう動いているのか、まだほとんど知らなかった。
今だって、一人前になったわけではない。
それでも、記録の取り方を覚えた人が一人増えた。地上から救難を支える方法を知った人が一人増え、救難対象だけでなく、救難側も含めて全員で帰る必要があると現場で知った人が一人増えた。
小日向が端末を見ながら言った。
「向こうでも救難技能記録を試すなら、また項目が増えそうですね」
「仕事増える?」
「増えます」
「大変だ」
「久世さんも手伝ってください」
「俺、記録苦手だよ」
「知ってます」
相馬さんが書類を置いた。
「だから増やすんだろ」
俺が見る。
「何を?」
「できる奴をだ」
その言葉を聞いて、瀬川が出ていったドアへもう一度目を向ける。
救難所には、助けを求める連絡だけが集まるわけじゃない。誰かを帰す方法を覚えに来る人もいる。
誰かを帰す方法を覚えに来る人もいる。
その人が別の場所へ戻り、覚えたことを使えるようになれば、俺がそこにいなくても帰せる人は増えていく。
少し前まで、そんなことは考えていなかった。
「増えましたね」
俺が言う。
小日向が顔を上げた。
「何がです?」
「人を帰す側の人です」
小日向は瀬川が出ていった入口を見てから、頷いた。
「そうですね」
その時、救難受付の電話が鳴った。
小日向がすぐに受話器を取る。
「はい、救難受付です」
俺も自分の席へ戻った。
瀬川の研修は終わった。
それでも、人を帰す仕事は今日も続いている。




