第69話 初めての救難補助
瀬川の研修最終日は、朝からいつもより少し落ち着かなかった。
本人は普通にしているつもりなのだろうが、さっきから救難用バッグの確認表を何度も見ている。
「瀬川君」
「はい?」
「それ、さっきも見てなかった?」
瀬川が手元の確認表を見る。
「見ました」
「その前も?」
「見ました」
「じゃあ大丈夫じゃない?」
「でも、今日は現場に行くかもしれないので」
「だからって、確認するたびに中身が変わるわけじゃないよ」
「分かってます」
そう言いながら、また確認表へ目を落とす。
俺は少し笑った。
数日前ならバッグの中身を全部出して確認していただろう。それを考えれば、確認表を見るだけで済ませている分、ちゃんと進歩している。
「緊張してる?」
「してます」
そこは素直だった。
「自分の探索なら第五層まで行ったこともあります。でも、救難班として入るのは初めてなので」
「今日はまだ現場に出るって決まってないけどね」
「分かってます」
相馬さんが言っていた通り、瀬川を連れていける救難要請がなければ、訓練だけで研修を終える予定だ。
研修最終日だからという理由で危険な現場へ連れていくことはしない。
九時を過ぎても救難要請はなく、十時を過ぎる頃には、瀬川も小日向と昨日の技能記録を整理し始めていた。
「今日、このまま何もなかったらどうするの?」
俺が聞く。
「訓練ですよね」
「残念?」
「少しは。でも、何も起きないほうがいいんですよね」
瀬川が答えると、相馬さんが奥の席から言った。
「分かってきたじゃないか」
「ありがとうございます」
「褒めてない。救難所が暇なのはいいことだ」
「それ、前にも聞いた気がします」
俺が言うと、相馬さんは書類から顔も上げなかった。
「なら覚えとけ」
そんな話をしていた十時二十分過ぎ、救難受付の電話が鳴った。
小日向が取る。
「はい、救難受付です」
瀬川の姿勢が変わった。
今度は慌てて立ち上がらず、自分の席でメモを開く。
「人数を教えてください。……二名ですね。全員一緒にいますか?」
俺も会話を聞く。
「怪我をしている方は?」
少し間があった。
「右足首ですね。出血はありますか? ……なし。立つことはできますか?」
小日向が順番に確認していき、相馬さんも席を立った。
数分後、必要な情報がまとまる。
救難対象は二人。第三層東側の保守通路、壁番号318付近の待避スペースに二人とも一緒にいる。
探索中、一人が段差で足を踏み外して右足首を痛めた。腫れがあり、立つことはできるものの、体重をかけるとかなり痛むらしい。もう一人に怪我はなく、通信も安定している。
周囲に魔物は見えておらず、現在地もほぼ特定できていた。
相馬さんが地図を確認する。
「ちょうどいいな」
その一言で、瀬川の表情が固まった。
「瀬川」
「はい」
「行くぞ」
「はい」
返事だけは早かった。
俺も立ち上がる。
「俺もですよね?」
「教育係だろ」
「今日は便利に使われても文句言いません」
「最初から言うな」
今回の救難班は五人になった。
現場指揮を担当する救難員が一人。応急対応と搬送を担当できる救難員が二人。それに俺と瀬川だ。
神代さんは呼ばない。
周辺の危険度が低く、戦闘要員を追加する必要はないという判断だった。
瀬川は正式な救難員として数えるのではなく、あくまで研修補助として同行する。
出発前、相馬さんが瀬川へ確認した。
「今日のお前の仕事は」
「記録、通信補助、人数確認です」
「判断は」
「班長に従います」
「分からない時は」
「勝手に動かず、聞きます」
相馬さんが頷いた。
「それでいい」
瀬川が救難用バッグを背負う。
俺もその横で自分の装備を確認した。
「久世さん」
「何?」
「何か忘れてません?」
「急に不安にさせないでよ」
「教育係なので確認したほうがいいかなって」
「立場、逆になってない?」
少し笑えたおかげか、瀬川の肩から余計な力が抜けた。
救難所を出て、第三層へ向かう。
普段の探索と同じ入口を通っているのに、瀬川はずっと周囲を見ていた。
「そんなに見る?」
俺が聞く。
「何を見ればいいのか分からないので、いろいろ見てます」
前を歩く班長が振り返った。
「全部見るな」
「はい」
瀬川の背筋が伸びる。
「今日は俺たちの動きを見ろ。先頭が何を確認するか、搬送担当が何を持っているか、通信が来た時に誰が返すか。それだけでいい」
「分かりました」
「魔物を見つけても、一人で何とかしようとするなよ」
「しません」
「E級だからじゃない。今日のお前の役割じゃないからだ」
瀬川は一度だけ目を丸くしてから頷いた。
「はい」
俺もその言葉を聞きながら、少し前の自分を思い出した。
できないからやらないことと、自分の役割ではないから任せることは少し違う。
神代さんだって、怪我人の診断は医療担当へ任せる。
救難では、自分にできることを全部やればいいわけではない。
第二層を抜けて第三層へ入ると、班長が通信を入れた。
「第三層到達。救難側五名、異常なし。東側保守通路へ向かいます」
瀬川が小さな端末へ時刻を記録する。
俺は横から覗いた。
「ちゃんと五名って書くんだ」
「人数確認が仕事なので」
「いいね」
「久世さんに最初に教わったので」
そう言われると少しうれしい。
第三層は比較的探索者の多い階層で、整備された通路も多い。壁番号を追えば、救難対象のいる場所までは難しくなさそうだった。
305、309、313と番号を確認しながら進む。
途中で一度だけ小型魔物の反応があったが、こちらへ近づかず別の通路へ入っていったため、そのまま距離を取った。
班長は追わない。
瀬川もすぐには何も言わなかった。
しばらく進んでから、小さな声で聞いてくる。
「戦わないんですね」
「こっちに来てないからね」
俺が答える。
「神代さんがいたら?」
「たぶん同じじゃない?」
今の神代さんなら、そうすると思う。
班長も会話を聞いていた。
「救難対象のところまで安全に行けるなら、それでいい。魔物退治が目的じゃない」
「はい」
瀬川が記録しようと端末を出す。
班長が言った。
「それは今書かなくていい」
瀬川の手が止まる。
「必要ないですか?」
「今必要なのは現在地と人数だ。感想は帰ってから書ける」
「分かりました」
瀬川が端末を戻す。
研修中、何度も出てきた話だった。
何でも記録すればいいわけではない。
その時に必要なことを優先する。
やがて壁番号318が見え、その先に待避スペースがあった。
「救難です。連絡をいただいた方ですか?」
班長が声をかける。
奥から男性が顔を出した。
「はい!」
すぐに救難員が中へ入る。
二十代くらいの男性が二人いた。一人は壁際に座り、右足を伸ばしている。
班長が瀬川を見る。
「確認」
瀬川は一瞬だけ止まったあと、二人を見た。
「救難対象二名。二名ともいます」
「よし」
俺たちも中へ入る。
二人を救難対象として確認すると、俺たち七人で地上へ戻るための《帰り道》が足元に現れた。
淡い光が、待避スペースの外へ伸びている。
ただし、すぐには動かない。
救難員が負傷した男性の足首を確認する。
「ここは痛みますか?」
「はい」
「こっちは?」
「少し」
腫れはあるものの、明らかな変形はない。
簡単に固定したあと、地上までは歩かせず、搬送椅子を使うことになった。
「すみません。歩けると思うんですけど」
男性が言う。
救難員が首を横に振る。
「立てるのと、地上まで歩けるのは別です。今日は乗ってください」
瀬川もそのやり取りを黙って聞いていた。
班長が俺を見る。
「久世さん、道は?」
俺は足元を確認する。
「通常ルートと同じ方向です。ここを戻って、西側の通路へ進みます」
班長が地図を見る。
「階段は?」
「この先にあります。ただ、今の搬送椅子なら通れる範囲だと思います」
搬送担当の救難員が地図と通路幅を確認して頷く。
《帰り道》が見えているからといって、それだけで出発するわけではない。負傷者の状態や搬送方法、実際の通路を確認してから動く。
瀬川は、その様子を黙って見ていた。
搬送椅子へ男性を移し、隊列を組む。
班長が全員に聞こえるように確認した。
「救難対象二名、救難側五名。合計七名で移動する」
瀬川も復唱する。
「七名です」
俺たちは待避スペースを出た。
最初は順調だった。
瀬川は隊列の後方寄りに入り、通過した壁番号と必要な時刻を記録していく。負傷していない救難対象にも救難員が付き、隊列から離れないよう声をかけていた。
十分ほど進んだところで、前方から金属が落ちるような音がした。
班長が手を上げ、全員が止まる。
「確認してきます」
先頭にいた救難員の一人が、通路の先へ向かった。
俺たちはその場で待つ。
瀬川は端末へ現在地を書き込みながら、通信を聞いていた。
『前方、作業用棚が倒れています。人は通れますが、搬送椅子は難しいです』
班長が地図を開く。
「迂回する。一本南へ下がる」
俺も《帰り道》を確認した。
光はすでに南側の通路へ曲がっている。
「こっちも南です」
「了解」
班長が通信を返す。
「そのまま南側通路へ回って、こちらと合流してください」
『了解』
隊列の向きを変える。
瀬川が人数を確認した。
「救難対象二名。救難側四名。現在六名です」
そこで、そのまま歩き出そうとした。
俺は声をかける。
「瀬川君」
「はい?」
「全体では?」
瀬川の顔が変わった。
周囲を見たあと、先ほど確認へ向かった救難員がまだ別行動中なのを思い出したらしい。
「あ……救難側は全部で五名です。今ここにいるのが四名で、先行確認が一名」
班長も足を止めたまま瀬川を見る。
「そうだ。今ここにいる人数と、救難に入っている全体人数を混ぜるな」
「はい。すみません」
瀬川は端末の記録を書き直す。
俺が横から言った。
「帰すの、あの二人だけじゃないですよ」
瀬川が俺を見る。
「救難対象がそろってるだけじゃ駄目だから。俺たちも全員帰る」
「……はい」
今度の返事は少し重かった。
分かっていたつもりだったのだろう。
それでも実際の現場では、一人が隊列を離れただけで確認の仕方が変わる。
班長が通信を確認した。
「先行一名、南側通路へ移動中。二分以内に合流予定。ここで待つ」
「待つんですか?」
瀬川が聞く。
「急ぐ必要がない。負傷者の状態も安定してる。全員そろえてから動く」
「はい」
二分もかからず、先行した救難員が戻ってきた。
「合流しました」
瀬川は今度、一人ずつ確かめるように周囲を見た。
救難対象二名。班長、搬送担当二名、俺、瀬川。
「救難対象二名、救難側五名。七名全員います」
班長が頷く。
「移動する」
隊列が再び動き始める。
俺は瀬川の隣を歩いた。
「間違えたね」
「はい」
「俺も人数確認では何度か迷ってるから」
「慰めてます?」
「一応」
「余計悔しいです」
それでも、少しだけ表情は戻った。
南側の通路は多少遠回りだったが、搬送椅子でも問題なく進めた。
途中には小さな段差があり、搬送担当の二人が一度止まる。
「前を少し上げます」
「合わせます」
声をかけながら椅子を運ぶ二人を、瀬川は今度こそ端末より先に見ていた。
まず現場を見る。
必要なことだけを記録する。
研修中に聞いてきたことが、少しずつ実際の動きにつながっている。
第二層へ上がる手前で、負傷者の状態をもう一度確認した。
痛みは増えておらず、顔色にも大きな変化はない。
《帰り道》も変わらず上へ続いている。
班長が瀬川へ聞いた。
「現在人数」
「救難対象二名、救難側五名。七名全員います」
今度は迷わなかった。
「よし」
第二層へ上がる。
そこから先は大きな問題もなく、やがて第一層へ入った。
出口が見えてくると、搬送椅子に座っていた男性がほっとしたように息を吐く。
「本当にありがとうございます」
「まだ地上前です」
班長が答えた。
俺は少し笑った。
救難所にいる時、小日向もよく似たことを言う。
発見しても終わりではなく、出口が見えたから終わりでもない。
先頭の救難員が地上へ出る。
救難対象の一人が続き、搬送椅子の男性も運び出された。俺たちも順番に出口を抜ける。
最後の一人が地上へ出たところで、瀬川は周囲を見回し、一人ずつ確認してから班長へ報告した。
「救難対象二名、救難側五名。七名全員、地上へ戻りました」
「了解。救難終了」
その言葉を聞いて、瀬川がようやく肩の力を抜いた。
医療担当へ負傷者を引き継ぎ、俺たちは救難所へ戻った。
相馬さんと小日向が待っている。
「どうだった」
相馬さんに聞かれ、瀬川は少し考えてから答えた。
「一度、人数確認を間違えました」
最初にそれを言った。
相馬さんが班長を見る。
「先行確認で一名が別行動した時です。救難対象と、その場にいる救難側の人数は確認できていました。ただ、救難全体の人数と分けて考えられていませんでした。久世さんが気づいて止めています」
「そうか」
相馬さんが瀬川を見る。
「何で間違えた」
「目の前にいる人数だけで確認を終わらせました。別行動中の一名がいることを分かっていたのに、全体人数との確認が抜けました」
「次は」
「今いる人数と、救難全体の人数を分けます。別行動がある時は、誰がどこにいるのかも一緒に確認します」
相馬さんが頷いた。
「なら覚えとけ」
叱られると思っていたのか、瀬川が少しだけ意外そうな顔をする。
「それだけですか?」
「同じ間違いを何度もするなら話は別だ」
「はい」
小日向が横から聞いた。
「ほかは?」
班長が答える。
「問題ありません。記録も通信補助も、指示した範囲ではできていました」
「お」
俺が瀬川を見る。
「増えるんじゃない?」
「何がです?」
「技能記録」
瀬川が少し笑った。
「増やすために行ったんじゃないです」
昨日の俺の言葉を、そのまま返された。
「覚えてたか」
「《記録》なので」
「それずるくない?」
小日向が笑った。
報告が終わったあと、瀬川は今日の救難記録を自分でまとめることになった。
俺も隣に座る。
「何書く?」
「救難対象二名。第三層。右足首負傷一名。位置判明済み。救難側五名で、僕は研修補助として参加」
そこまで入力したところで、瀬川の手が止まった。
「人数確認を間違えたことも残します」
「書くんだ」
「神代さんの記録にも、最初にうまくできなかったことが残ってましたよね」
「そうだったね」
「なら、これも残したほうがいいと思います」
瀬川は端末へ入力する。
『別行動者発生時、その場の人数と救難全体の人数を混同。指摘後、全体人数と所在を分けて確認する方法へ修正』
自分で書くとなかなか厳しい。
「もうちょっと優しく書いてもいいんじゃない?」
「事実なので」
相馬さんみたいなことを言い始めた。
小日向が記録を確認する。
「これでいいと思います」
「本当に?」
「失敗したことを残すためじゃなくて、次に何を確認すればいいか分かる内容になってますから」
瀬川が頷く。
その下には、今日経験したことも追加された。
『現場通信記録補助』
『救難対象・救難側人数確認』
『搬送救難同行』
ただし、すべて研修補助としての経験だ。
一度現場へ出ただけで、一人前になったわけではない。瀬川自身も、それは分かっているようだった。
「どうだった?」
俺が改めて聞く。
「何がです?」
「初めての救難」
瀬川は少し考えた。
「思ってたより、自分がやることは少なかったです」
「そう?」
「もっと何かしなきゃいけないと思ってました。でも、勝手にやらないほうがいいことも多かったので」
前を確認する人、怪我を見る人、搬送する人、全体を判断する班長。それぞれに役割があって、今日の瀬川に任されたのは記録と人数確認だった。
「それでいいんじゃない?」
俺が言う。
「今日は、それが瀬川君の仕事だったんだから」
瀬川は少し笑った。
「一回間違えましたけど」
「次は同じところで間違えなきゃいいよ」
「久世さんも最初からそんな感じだったんですか?」
「もっと役に立ってなかった気がする」
「それ聞くと安心します」
「教育係として、それでいいのかな」
瀬川が笑う。
研修に来た時、瀬川は戦えない自分でも誰かを助ける側にいられるのか知りたいと言っていた。
今日、魔物とは戦っていないし、怪我の処置や搬送を担当したわけでもない。
それでも救難班の一人として現場へ入り、人数を確認し、通信を記録した。そして一度間違え、その場で直した。
派手な活躍ではない。
でも、今日の瀬川に必要だったのは、きっとそれで十分だった。
瀬川は完成した記録を見ながら、少しだけうれしそうにしている。
名前の横にある『研修中』の文字は、まだ消えていない。
それでいい。
初めての救難は、七人全員で地上へ戻ることができた。
今は、それが一番大事だった。




