第64話 現場に行かない救難
研修四日目の午後、救難所の電話が鳴った。
その瞬間、瀬川の顔が変わった。
昨日まで何度も受付の練習をしていたからだろう。反射的に席を立ちかけたものの、電話を取ったのは小日向だった。
「はい、救難受付です」
俺も手元の作業を止める。
瀬川は小日向の横へ行こうとして、一度こちらを見た。
「聞いてていいよ」
「はい」
瀬川は邪魔にならない位置へ移動した。
小日向の声が、少しずつ仕事のものへ変わっていく。
「人数を教えてください。……五名ですね。怪我をしている方はいますか?」
俺は机の上に置いていたペンを置いた。
瀬川もすぐにメモを取る。
「全員一緒にいますか?」
短い間があった。
「はい。五名全員一緒ですね。今いる場所に魔物は見えますか?」
通話が続く中、相馬さんも奥の席から出てきた。
小日向が聞き取った内容を、別の用紙へ整理していく。
救難対象は五人。中規模ダンジョンの第四層にいて、全員が同じ場所にいる。一人が転倒して膝を打っているものの、大きな怪我はなく自力歩行も可能。通信も安定している。
帰還用の通路へ向かっていた途中で、進行方向が崩れていることに気づき、引き返した。その後いくつか分岐を間違え、現在地が分からなくなったらしい。
「その場は安全ですか?」
小日向が聞く。
『今のところ魔物はいません』
端末から相手の声がわずかに聞こえる。
「では、今は動かないでください。周囲を確認したいので、見える範囲に番号や案内表示があれば教えてください。探しに歩く必要はありません」
瀬川が小さく頷いた。
昨日まで練習していたことが、そのまま使われている。
『壁に数字があります。四……二……』
「四二ですか?」
『いえ、たぶん四二七です。汚れてて最後が見えづらくて』
「分かりました。ほかに見えるものはありますか?」
聞き取りが続く。
壁番号らしい「427」。古い照明。右側には金属製の扉があり、その扉には青い表示板がついている。近くには細い配管が三本見えるらしい。
小日向が一つずつ記録し、瀬川も同じ内容を書き留めていく。
数分後、小日向は通話を保留にして相馬さんを見た。
「第四層西側の旧管理区画だと思います」
「確度は?」
「壁番号が正しければ高いです。ただ、末尾が汚れていて見えにくいそうです」
相馬さんが地図を開く。
瀬川も近くから覗き込み、「427……」と小さく呟きながら設備図の番号を追っていた。
俺も地図を見る。
だいたいの場所は分かる。ただ、救難対象をまだ直接見ていない以上、《帰り道》が出るわけでもないので、今の俺にできることはそれくらいだった。
「西側なら、ここの救難班で十分だな」
相馬さんが言った。
俺は顔を上げる。
「出ます?」
「お前は出ない」
思っていた答えと違った。
「俺、行かないんですか?」
「行かない」
「神代さんは?」
「呼ばない」
そこまで即答されると、少し置いていかれたような気分になる。
「大丈夫なんです?」
相馬さんが俺を見る。
「何がだ」
「五人ですよ。一人、膝も打ってるし」
「歩ける」
「でも、道が分からなくなってるんですよね」
「場所はほぼ絞れてる」
相馬さんは地図の一点を指した。
「第四層で通信も生きてる。怪我も軽く、周辺に危険な魔物の報告もない。現地班だけで対応できる」
俺はもう一度地図を見る。
言われてみれば、その通りだった。
「久世さんが行ったほうが早くないですか?」
瀬川が聞いた。
相馬さんは瀬川を見る。
「早い可能性はある」
「じゃあ、どうして?」
「必要ないからだ」
答えは短かった。
瀬川は少し考える。
「久世さんを使わないほうがいいってことですか?」
「違う。必要なら使う。必要じゃないなら使わない。それだけだ」
相馬さんは地図を開いたまま続けた。
「久世を出せば、《帰り道》で帰還経路を決める時間は減るかもしれない。ただ、現地班で問題なく帰せる救難に、毎回こいつを出す理由はない」
「ほかの救難が来るかもしれないから?」
瀬川が聞く。
「それもある。一人しかいない人間を、どこにでも出す仕組みにはしない」
その言葉には聞き覚えがあった。
少し前まで話し合っていたことが、もう普通の判断として使われている。
相馬さんが小日向へ指示を出した。
「現地班を三名。医療対応できる奴を一人入れろ。第四層なら追加の搬送具は軽装でいい」
「了解です」
小日向がすぐに連絡を始める。
俺は自分の席へ戻ろうとして、少し迷った。
「俺、何してればいいです?」
「待機」
「本当に?」
「嫌なら報告書でも書いてろ」
「待機します」
瀬川が笑った。
十五分ほどで、現地救難班が第四層へ入った。
それからは、救難所に届く通信を聞きながら状況を追うことになった。
瀬川は小日向の隣に座り、現場から入ってくる情報を書き取っている。
『第四層到達。西側管理区画へ向かいます』
小日向が時刻を記録する。
「十五時二十二分、第四層到達」
瀬川も同じ時刻を書く。
俺はその後ろから記録を見ていた。
「これ、全部残すの?」
「全部じゃないですよ」
小日向が答える。
「でも、移動の節目は残します。あとで所要時間を見る時に使えるので」
「なるほど」
「久世さんも覚えてください」
「俺の研修にもなってない?」
「一緒に覚えればいいじゃないですか」
瀬川まで言う。
教育係の立場が少し怪しくなってきた。
現地班は十分ほどで西側区画へ入り、壁番号を確認しながら進んでいるらしい。
『420確認。東へ進みます』
「順番に増えてますね」
瀬川が地図を見る。
「そうですね」
小日向も指で位置を追う。
「通報時の427が正しければ、この先です」
俺も地図を見る。
距離だけなら近い。
それでも、現場から見えるものと設備図が完全に一致しているとは限らない。
『423確認。通路分岐あり。北側は封鎖されています』
小日向が記録する。
瀬川が聞いた。
「この封鎖って、救難対象が言ってた崩落ですか?」
「場所が違いますね」
小日向が地図を確認する。
「おそらく前から閉鎖されている区画です」
「確定ですか?」
「まだしません」
瀬川が頷いた。
通報時情報と現場確認。
自分で提案した項目を、きちんと意識しているらしい。
少しして、現地班から新しい通信が入った。
『425確認。青色表示の扉あり。ただし配管は二本です』
瀬川の手が止まる。
通報では三本だった。
「違う場所?」
俺が言う。
小日向はすぐには答えなかった。
「まだ分かりません」
『扉の表示は管理用倉庫B。救難対象から聞いた表示内容は?』
現地班から聞かれ、小日向が通報記録を確認する。
「表示内容までは確認できていません。青い板があるという情報だけです」
『了解。次を確認します』
通信が切れる。
瀬川が地図を見る。
「427じゃなかったら、候補も変わりますよね」
「変わります」
小日向が答える。
「でも、今は現地班が番号を追えているので、このまま確認してもらいます」
「こっちから追加で聞かないんですか?」
「何を?」
「扉に書いてある文字とか」
小日向は少し考えた。
「聞いてもいいです。でも、今すぐ必要かな」
瀬川が止まる。
昨日まで何度も出てきた話だった。
必要なことを、必要な時に確認する。
「現地班がもう近くまで行ってるから?」
「そうです。今電話して救難対象に扉の文字を確認してもらうより、現場側がそのまま進んだほうが早いかもしれません」
瀬川は納得したように頷いた。
俺は二人の会話を聞きながら、少し不思議な気分になった。
救難要請が入ったのに、俺は椅子に座ったままだ。
装備も着けていないし、神代さんもいない。
それでも救難は進んでいる。
『426確認』
現地班から通信が入る。
少し間が空いて、続報が来た。
『427確認。金属扉あり。青色表示。配管三本』
瀬川が地図に印をつける。
「合ってた」
さらに通信が続く。
『扉の先から声を確認しました』
小日向の表情が少し緩んだ。
「救難対象を発見したら、人数と状態を再確認してください」
『了解』
俺も思わず立ち上がった。
別に立つ必要はないのだが、自然と身体が動いていた。
数十秒後、現地班から報告が入る。
『救難対象五名を発見。五名全員同一区画。意識清明。膝を打った一名も自力歩行可能です』
瀬川が「五名」と書き、その数字を丸で囲んだ。
「人数、大事ですね」
俺を見る。
「でしょ?」
少しだけ教育係らしい顔をしてみた。
「まだ帰ってませんよ」
小日向が言う。
「分かってるよ」
発見しただけでは終わらない。
現地班は五人の状態を確認し、水分を取らせたあと、帰還経路を決め始めた。
現在地から通常ルートへ戻る道は二つあるらしい。一方は短いが、一部の床が荒れている。もう一方は少し遠回りになるものの、比較的歩きやすい。
『南側通路、一部床面損傷あり。通常歩行には問題ありません。ただし膝痛の対象がいるため、西側経由を選択します』
瀬川が地図を見る。
「短いほうを使わないんですね」
「怪我人がいるからじゃない?」
俺が答える。
「でも、歩けるって」
「歩けるのと、歩きやすいのは違うでしょ」
言ってから、自分でも少し驚いた。
前なら、俺も短い道でいいと思っていたかもしれない。
《帰り道》が何度もそういう経路を選んできたから、自然に考えるようになったのだと思う。
相馬さんが奥から言った。
「久世」
「はい?」
「今のは合ってる」
「珍しく褒められた」
「調子に乗るな」
やっぱり短かった。
現地班は西側経由で五人を連れて移動し始めた。
途中で一度だけ小型魔物の反応があり、別の通路を使ってやり過ごす。戦闘もなく、大きな問題も起きなかった。
通信から聞こえてくるのは、現在地や人数、体調、進行方向といった必要な情報だけだ。
それでも俺は、思っていた以上に画面から目を離せなかった。
瀬川も同じだった。
「何か変な感じします」
瀬川が小さな声で言う。
「何が?」
「救難って、もっと現場にいる人だけがやるものだと思ってました」
「俺も」
小日向がこちらを見る。
「僕、だいたいいつもここにいますけど」
「あ」
瀬川が気まずそうな顔になる。
「すみません」
「いいですよ」
小日向は笑った。
「現場に行かないと目立ちませんからね」
「でも、ずっとここでやってたんですよね」
「受付も連絡も記録も、誰かがやらないといけませんから」
そう言いながら、小日向は現地班から届いた情報を更新する。
俺も今まで何度も見てきたはずだった。
救難所を出る時には小日向がいて、帰った時にも小日向がいる。俺たちが中へ入っている間も、ずっとここで状況を追っていた。
分かっていたつもりだったが、最初から最後まで地上に残って一件の救難を見るのは初めてだった。
『第二層へ移動。五名とも状態変化なし』
「あと少しですね」
瀬川が言う。
「うん」
それから十分ほどして、地上側の入口から連絡が入った。
『救難対象五名、全員帰還しました』
小日向が時刻を記録する。
「十六時十四分。五名全員帰還」
瀬川も同じ内容を書いた。
俺は思わず息を吐いた。
結局、俺は救難所から一歩も出なかった。《帰り道》も使っていないし、神代さんが剣を抜くこともなかった。
それでも、五人は無事に帰ってきた。
「久世さん」
瀬川が俺を見る。
「何?」
「ちょっと変なこと聞いていいですか?」
「いいよ」
「悔しくないですか?」
予想していなかった質問だった。
「何が?」
「久世さんが行かなくても、救難できたこと」
俺は少し考えた。
正直に言えば、救難要請が入った時は自分も行くつもりだった。行かないと言われて、少し物足りなく感じたのも本当だ。
でも、五人全員が戻ってきた今は違う。
「全然」
「本当ですか?」
「うん。むしろ、こっちのほうがいいんじゃない?」
「どうしてですか?」
「俺がいなくても帰せる人が増えるなら、そのほうが困らないでしょ」
瀬川は少し考えてから頷いた。
相馬さんがこちらへ来る。
「終わったなら記録まとめろ」
「はい」
小日向が答え、瀬川もすぐに資料を揃え始めた。
俺はその様子を見ながら聞く。
「俺、何かやる?」
小日向が少し考えた。
「今日の感想でも書きます?」
「感想文?」
「冗談です」
「びっくりした」
瀬川が笑った。
俺は自分の席へ戻る。
今日、俺は誰も迎えに行っていないし、誰にも《帰り道》を見せていない。
それでも救難所では、最初から最後まで誰かが動いていた。
電話を受ける人がいる。地図を確認する人がいる。現場へ向かう人がいて、地上で情報をつなぐ人もいる。
どれか一つが欠けていたら、五人が帰るまでにもっと時間がかかっていたかもしれない。
瀬川は記録を書きながら、小日向に何か質問している。
研修に来た時は、救難に関わるなら自分もダンジョンへ入らなければならないと思っていたのだろう。
俺も、どこかで似たように考えていた。
でも、人を帰すための仕事はダンジョンの中だけにあるわけではない。
そのことを、今日は俺も地上から見ることができた。




