第62話 教える側
翌朝、救難所へ行くと、瀬川はもう来ていた。
俺より早い。
机の上には、昨日見せた救難用バッグの中身がきれいに並べられている。
「おはようございます」
「おはよう。早いね」
「昨日のうちに覚えきれなかったので、もう一回確認してました」
俺は並べられた装備を見る。
救難用ロープ、予備ライト、簡易固定具、止血用品、携帯食、水、通信機器の予備電源。そのほかにも細かいものがいくつかある。
「全部出したの?」
「はい」
「戻せる?」
瀬川が手を止めた。
「……たぶん」
「そこ大事じゃない?」
「今からやります」
昨日より少しだけ話し方が自然になっていた。
俺も荷物を置き、瀬川の向かいに座る。
「じゃあ、戻してみようか」
「はい」
瀬川は一つずつ確認しながらバッグへ戻していく。
かなり丁寧だ。
止血用品の数を確認して使用期限を見たあと、予備ライトを点灯させて電池残量まで確かめる。ロープも傷がないか、端から端まで確認していた。
十分ほど経っても、まだ半分くらいしか終わっていない。
「瀬川君」
「はい?」
「いつもこんな感じ?」
「何がです?」
「確認」
瀬川は手を止めた。
「ちゃんとやったほうがいいですよね?」
「ちゃんとはやったほうがいい」
「ですよね」
「でも、救難が入ってからこれ全部やってたら遅くない?」
瀬川がバッグを見る。
「確かに」
「今は点検だからいいけど、救難要請が来てから全部最初から確認してたら、出るまでにかなり時間かかるよ」
「でも、不足があったら困りませんか?」
「困る」
「じゃあ、確認したほうが」
「だから普段から確認しておくんじゃないかな」
言いながら、俺も少し不安になった。
教える側として正しいことを言えているのだろうか。
ちょうどそこへ小日向が来た。
「合ってますよ」
「聞いてた?」
「また狭い救難所のせいにします?」
「便利だね、それ」
小日向がバッグの横へしゃがむ。
「救難用バッグは、使ったあとと定期点検の時に中身を確認します。出動前は封とチェック表を見て、不足がないことだけ確認すればいいようにしてあるんです」
瀬川がバッグについている札を見る。
「これですか?」
「そうです。最終点検日と担当者が書いてあります」
「じゃあ、出動するたびに全部出す必要はない?」
「ないです。むしろ毎回やってたら、その間にも時間が過ぎますから」
瀬川は少し考えながら、机に並べた装備を見る。
「丁寧にやればいいと思ってました」
「俺も最初は似たようなこと考えてたよ」
「久世さんも?」
「今でも確認多いって言われる時あるし」
小日向が笑った。
「久世さんは逆に、報告書の確認が足りませんけどね」
「今それ関係なくない?」
「あります」
「ないよ」
瀬川も笑っている。
俺は装備をバッグへ戻すのを手伝いながら言った。
「救難って、何でも時間をかけて確認すれば安全になるわけじゃないんだと思う」
瀬川が俺を見る。
「どういうことですか?」
「確認してる間にも、向こうの時間は進むから」
これまでの救難でも、怪我人の状態が変わったこともあれば、水位が上がったこともある。濃霧の中で、あえて動かず待ったこともあった。
急いだほうがいい時もあれば、止まったほうがいい時もある。
俺自身、今でも毎回迷う。
「必要なことは確認する。でも、今やらなくていいことまで全部やろうとすると遅くなる。その辺は俺もまだ難しいけど」
瀬川は頷いた。
「何を今確認するかを決めるってことですか?」
「たぶん」
「また、たぶん」
「しょうがないでしょ。俺だって勉強中なんだから」
「教育係ですよね?」
「相馬さんに言って」
ちょうど後ろから本人の声がした。
「呼んだか」
「呼んでません」
相馬さんがこちらへ来て、バッグを見る。
「何してる」
「装備確認です」
「何分かかった」
瀬川が時計を見る。
「十五分くらいです」
「遅い」
即答だった。
瀬川の表情が引き締まる。
「すみません」
「謝る前に理由を考えろ。何で遅かった」
「全部、一つずつ確認していたからです」
「必要だったか?」
「普段の点検なら必要だと思います。でも、出動直前ならチェック表を確認して、不足や異常がある時だけ中身を見るほうが早いです」
相馬さんは俺を見る。
「教えたか」
「一応」
「珍しいな」
「何でですか」
「ちゃんと教えてるからだ」
「俺、どういう評価なんです?」
相馬さんは答えず、瀬川へ視線を戻した。
「救難で慎重なのは悪くない。ただ、慎重っていうのは時間をかけることじゃない」
「はい」
「必要なところに時間を使え」
瀬川が頷いた。
俺も横で聞いていた。
教えているつもりだったのに、結局俺まで教わっている。
相馬さんはそのまま別の机へ向かった。
「久世さん」
瀬川が小さな声で聞く。
「何?」
「相馬さん、いつもあんな感じですか?」
「もっと短い時もあるよ」
「怖くないですか?」
「慣れる」
「聞こえてるぞ」
離れたところから相馬さんの声が飛んできた。
瀬川の背筋が伸びる。
俺は笑った。
午前中は装備確認のあと、救難要請を受けた時の聞き取りを練習することになった。
小日向が遭難者役になり、瀬川が受付を担当する。
「では始めます」
小日向が自分の携帯端末を持ち、少し離れた席へ移動した。
すぐに救難所の端末が鳴る。
瀬川が取った。
「はい、救難受付です」
『助けてください。ダンジョンの中で道が分からなくなりました』
小日向が妙に迫真の声を出す。
瀬川の表情が変わった。
「現在地は分かりますか?」
『分かりません』
「周囲に何がありますか?」
『岩があります』
「岩の大きさは?」
『大きいです』
「色は?」
『灰色です』
「形は?」
『岩です』
俺は横で笑いそうになった。
瀬川は真剣だ。
「壁に番号はありませんか?」
『分かりません』
「探してください」
そこで小日向が普通の声に戻った。
「はい、そこ」
瀬川が端末から顔を上げる。
「駄目ですか?」
「本当に危ない状態の人に、いきなり周囲を探させるのは危ないですよ」
「あ」
「まず何人いるか、怪我人がいるか、今その場が安全か。その辺から確認したほうがいいです」
瀬川がメモを見る。
「位置を聞くことばかり考えてました」
「位置も必要です。でも、場所を聞いてる間に魔物が来たら意味ないですから」
俺も会話に入る。
「俺も人を探す時は位置が欲しいけど、その前に動いていい状態かどうかは知りたいかな」
「久世さんなら、見つけたら《帰り道》があるからですか?」
「それとは関係ないよ」
瀬川が俺を見る。
「怪我してる人に『こっち来てください』って言って、動かしちゃ駄目な怪我だったら困るでしょ」
「ああ……」
「あと、五人で入ったのに四人しかいなかったら、残り一人を置いて帰ることになる」
昨日、最初に人数を覚えたほうがいいと言った理由もそこにある。
瀬川は新しい順番をメモした。
人数、怪我の有無、現在の危険、通信状態、位置情報。
そこまで書いたところで、神代さんが救難所へ入ってきた。
「おはようございます」
「おはようございます」
瀬川がすぐに立ち上がる。
神代さんは机の上のメモを見る。
「研修ですか?」
「受付の練習してます」
俺が答えた。
「神代さんも何か教えてください」
「私が?」
「昨日、手伝うって言ってたので」
「分かりました」
神代さんは少し考え、瀬川を見る。
「では一つだけ」
「はい」
「救難対象に『大丈夫ですか』と聞くだけではなく、具体的に聞いたほうがいいと思います」
瀬川がメモを取る。
「具体的に?」
「歩けますか、出血していますか、息苦しさはありますか、意識がぼんやりしていませんか、などです」
「大丈夫ですか、だと駄目ですか?」
「大丈夫だと思って、そう答えてしまう人もいます」
その言葉には実感があった。
隣県で二件の救難が重なった時も、体調を崩した男性が「歩けると思った」と、具合が悪くなっていることをしばらく言わなかった。
本人が大丈夫と言っていても、それだけでは判断できないことがある。
「救難対象の言葉を疑うってことですか?」
瀬川が聞く。
神代さんは首を横に振った。
「疑うというより、答えやすい聞き方をするんです」
瀬川は少し考えてから頷いた。
「なるほど」
俺も横で聞きながら納得する。
「それ、俺も覚えとこう」
「久世さんもですか?」
「俺、教えてる途中で結構覚えてない?」
「教育係なのに」
「教育係でも覚えていいでしょ」
神代さんが少し笑った。
午後は、救難用担架の扱いを練習することになった。
倉庫から簡易担架を出し、瀬川に組み立ててもらう。
これは問題なかった。
講習で経験があるらしく、手順も覚えている。
「できました」
「早いね」
「これは練習したので」
少し自信があるらしい。
そこで相馬さんが言った。
「じゃあ久世、乗れ」
「何で俺?」
「運ぶ相手が必要だろ」
「瀬川君でもいいじゃないですか」
「瀬川は運ぶ側の練習だ」
仕方なく俺が担架へ寝る。
瀬川と神代さんが前後に分かれて立った。
「神代さん一人でも俺を運べそうですけど」
「運べますよ」
「やらないでくださいね」
「しません」
相馬さんが廊下の先を指した。
「狭い通路を想定する。そこを曲がって戻ってこい」
二人が担架を持ち上げる。
すぐに違和感があった。
「瀬川君」
「はい?」
「ちょっと高くない?」
「あ、すみません」
瀬川が自分側を下げる。
今度は神代さん側との高さが微妙に合わず、担架が少し傾いた。
「何か斜めなんですけど」
相馬さんがため息をつく。
「止まれ」
担架が下ろされた。
「瀬川、誰見てた」
「前です」
「神代さんは?」
「瀬川さんの動きを見ていました」
「それだけじゃ足りない。運ばれてる奴の状態も見ろ」
俺は担架に寝たまま相馬さんを見る。
「俺、教材みたいですね」
「今そうだ」
「扱い雑じゃない?」
誰も答えなかった。
相馬さんは瀬川へ説明を続ける。
「前へ進むことばかり考えると、段差で担架が傾く。持ってる人間同士だけ合わせても、乗ってる奴が苦しいこともある。ただし、全部を一人で見ようとするな」
「はい」
「前を見る奴、足元を見る奴、負傷者を見る奴。必要なら役割を分けろ」
朝の装備確認と同じだった。
全部を一人で確認しようとせず、必要なことを分けて誰かに任せ、その上で自分の仕事をする。
「もう一回やります」
瀬川が言った。
再び担架が上がる。
今度はさっきより安定していた。
神代さんが進行方向を確認し、瀬川は自分の足元と俺の状態を交互に見る。曲がり角では一度止まり、二人で声を合わせて向きを変えた。
「久世さん、大丈夫ですか?」
瀬川が聞く。
「大丈夫」
「どこか当たってませんか?」
「大丈夫」
「気分悪くないですか?」
「大丈夫」
「本当に?」
「そこまで確認する?」
神代さんが笑った。
「でも、さっき具体的に聞くって」
「今の久世さんは怪我人役ではありませんよ」
「あ」
また一つ覚えたらしい。
訓練を終えて担架から降りる。
瀬川は朝からずっとメモを取っていた。
装備の点検、救難受付での聞き取り、搬送時の役割分担。覚えることは多い。
「疲れた?」
俺が聞く。
「ちょっと」
「初日から詰め込みすぎじゃない?」
「昨日が初日ですよ」
「そうだった」
「久世さん、大丈夫ですか?」
「それ今練習してる?」
瀬川が笑った。
机へ戻ると、相馬さんが一枚の紙を置いた。
「今日覚えたことを書け」
瀬川が受け取る。
「報告書ですか?」
「違う。自分用だ」
瀬川は少し安心した顔をした。
俺も横から見る。
「俺も?」
「お前は報告書を先にまともに書けるようになれ」
「ですよね」
瀬川がまた笑った。
俺は自分の席へ座る。
教える側になったからといって、急に何でも分かるようになるわけではない。
むしろ、人に説明しようとすると、自分が何となくやっていたことの理由に気づく。
人数を確認することも、相手の状態を具体的に聞くことも、全部を一人でやろうとしないことも、救難を始めた頃は言われたからやっていた部分が多かった。
今は少しずつ、自分の言葉で説明できるようになっている。
瀬川がメモを書きながら聞いた。
「久世さん」
「何?」
「明日は何やるんですか?」
俺は少し考えた。
「小日向さんのところかな」
「記録ですか?」
「たぶん一番向いてそうだし」
瀬川の顔が少し明るくなる。
やっぱり記録が好きらしい。
「楽しみです」
「小日向さんに言ったら、本当に仕事増えるよ」
「大丈夫です」
即答だった。
俺は少し笑った。
慎重すぎるところはあるし、救難についてもまだ知らないことのほうが多い。
それでも、知らないことを覚えようとはしている。
最初は、それでいいのかもしれない。
俺だって、そうだった。




