第56話 それでも帰す
東側の旧作業通路へ入る前に、西谷さんは隊列を止めた。
「先に二人で確認します。神代さん、お願いします」
「分かりました」
私は搬送椅子の後ろを別の救難員へ任せ、西谷さんと一緒に通路へ入った。
旧作業通路は、通常使われている区画より照明が少ない。壁際には古い配管が残り、床にも細かなひびが入っていた。
記録上は通行できることになっているが、最近は使われていない。それだけの情報で負傷者を連れて入るわけにはいかない。
「足元、少し荒れていますね」
西谷さんがライトを床へ向ける。
「搬送椅子でも通れそうですが、速度は落ちると思います」
私は通路の先を確認した。
「幅は問題なさそうです」
「この先に一か所、下りがあります」
端末の地図を確認しながら進み、数分ほどでその場所に着いた。
階段ではなく緩やかな坂になっていたが、床の一部が濡れている。
「水漏れですか?」
「たぶん配管ですね」
西谷さんが壁際を確認すると、古い配管の継ぎ目から少量の水が落ちていた。通れないほどではないものの、床が滑りやすくなっている。
「搬送椅子は通せますか?」
「前後で支えれば大丈夫でしょう。念のためロープも使います」
「分かりました」
さらに先へ進み、魔物や崩落がないことも確認する。通路の幅にも問題はなかった。
十五分ほど確認したところで、私たちは救難対象の待つ場所へ戻った。
「通れます」
西谷さんが全員へ伝える。
「ただし、途中に足元の悪い坂があります。搬送椅子には補助ロープをつけて下ろします」
救難員たちがすぐに準備を始め、救難対象の三人にも状況を説明する。
「少し遠回りになりますが、このまま地上へ向かえます」
西谷さんが言うと、脚を負傷した男性が頷いた。
「お願いします」
私は搬送椅子の後ろへ戻り、九人で移動を始めた。
最短の道ではないし、久世さんがいれば別の道を示したかもしれない。もっと早く帰れる経路があった可能性もある。
それでも、今の私たちが持っている情報を一つずつ確認した上で、この道なら通せると判断した。
それで十分だった。
旧作業通路へ入り、先ほど確認した坂まで進む。
「ここからロープを使います」
救難員が搬送椅子に補助ロープを取りつけ、私は後ろから支えた。
「神代さん、押さえすぎなくて大丈夫です」
「分かりました」
力を入れすぎれば、前を持つ人の動きと合わなくなる。
以前の私なら、自分一人で持ったほうが早いと思っていたかもしれない。今は前にいる救難員の速度を見ながら、同じ歩幅で進む。
「下ろします」
「はい」
一歩ずつ坂を下り、濡れた場所では搬送椅子を少しだけ浮かせる。後ろ側だけが高くならないよう、前の救難員の動きに合わせた。
「もう少し下げます」
「了解です」
時間はかかったが、危なげなく坂を抜けることができた。
脚を負傷した男性が申し訳なさそうにこちらを見る。
「すみません。重いですよね」
「大丈夫です。重いから運んでいるわけではありませんから」
男性が少し不思議そうな顔をした。
言ってから、自分でも説明が足りなかったことに気づく。
「怪我をしているから運んでいる、という意味です」
「あ、はい」
前を持っていた救難員が笑いをこらえている。
「神代さん、説明足しましたね」
「必要だと思ったので」
「大丈夫です。最初から伝わってました」
少し恥ずかしくなった。
こういう時、久世さんならもっと自然に言うのだろう。
でも、今は自分の仕事をすればいい。
旧作業通路を抜けるまで、さらに二十分ほどかかった。
途中で一度だけ小型の魔物を見つけたが、こちらに気づく前に脇の通路へ入っていったため、追う必要はなかった。戦闘を避け、そのまま帰還を優先する。
やがて前方に見慣れた標識が現れた。
通常利用されている第五層側の連絡区画だ。
「ここから先は通常ルートへ戻れます」
西谷さんが言う。
救難対象の女性がほっと息を吐いた。
「やっとですか」
「はい。ただ、地上まではまだあります」
「それでも、道が分かるだけで安心します」
その言葉を聞いて、私は少し考えた。
久世さんの《帰り道》がある時、救難対象が安心する理由が少し分かった気がする。
自分たちがどこへ向かっているのか分からない時間は、それだけで不安になる。今日は私たちも、防火扉が閉じた時にはすぐ次の道が分かったわけではなかった。
地図を見て、記録を確認し、実際に通れるか確かめてから進む道を決めた。
時間はかかった。
それでも今は、帰る方向が分かっている。
安心させられるのは、特別な能力だけではないのかもしれない。
「第五層の安全区画まで、あと十分ほどです」
西谷さんが全員に伝えた。
そこには別の救難班が待機しており、負傷者を引き継げる予定になっている。
私は搬送椅子を持ったまま歩いた。
前方の通路が少しずつ明るくなっていく。このまま進めば、こちらの救難は地上への搬送までつなげられる。
そう思った時、西谷さんの端末から呼び出し音が鳴った。
「相馬さんです」
通信を開く。
『第六層班、聞こえるか』
「聞こえます」
『状況は』
「救難対象三名全員を確保。一名を搬送中です。第五層安全区画まで約十分。その後は地上へ搬送予定です」
『了解。魔物は』
「接触していません。旧作業通路を使って通常ルートへ戻りました」
短い間があった。
『神代さんはいるか』
私は搬送椅子を別の救難員へ任せ、端末の近くへ行った。
「います」
『そっちの救難が安全区画まで入ったら、追加で頼みたいことがある』
「何ですか?」
相馬さんはすぐには答えず、周囲の状況を確認しているようだった。
『第七層の久世たちは、救難対象四人を見つけた』
少しだけ安心する。
「全員無事ですか?」
『今のところ大きな怪我はない。ただ、帰還途中で止まってる』
「何があったんですか?」
『久世の《帰り道》が、旧搬送ゲートの向こうを指している』
私は足を止めた。
「ゲートは開かないんですか?」
『久世側の操作盤が死んでる。手動解除も、そっち側からはできないらしい』
西谷さんが端末の地図を開いた。
「旧搬送ゲート……あそこですか」
「知っていますか?」
「第七層西側と第五層の搬送区画をつないでいる古いゲートです。通常はほとんど使いません」
相馬さんの声が続く。
『制御室は反対側にある』
「反対側というのは?」
『第五層側だ』
西谷さんと目が合った。
私たちは今、その第五層へ向かっている。
「ここから行けますか?」
私が聞くと、西谷さんが地図を確認した。
「安全区画からなら行けます。通常ルートから外れて十五分ほどです」
「救難対象は?」
「予定どおり安全区画で別班に引き継げます」
相馬さんが言う。
『そっちの三人を途中で放り出して行けとは言わない。まず自分たちの救難を終わらせろ。その上で動けるなら頼む』
「分かりました」
通信が切れる。
私は地図を見る。
久世さんたちは第七層にいて、私たちは第五層にいる。今は別々の場所にいるが、向こうが帰るために必要な設備はこちら側にある。
「神代さん」
西谷さんが言う。
「まず、この三人を安全区画まで運びます」
「はい」
「引き継ぎが終わったら、こちらから三名出します。神代さんにも来てもらえますか?」
迷う理由はなかった。
「行きます」
隊列が再び動き始める。
焦って先へ行ってはいけない。
こちらには、まだ帰している途中の三人がいる。まずこの人たちを安全な場所まで連れていき、それが終わってから久世さんたちのところへ向かう。
第五層の安全区画へ着くと、待機していた救難班がすぐに負傷者を引き継いだ。
医療担当同士で状態を確認し、地上への搬送方法を決めていく。
私は最後までその様子を見届けた。
「三名、引き継ぎ完了です」
西谷さんが相馬さんへ連絡する。
『了解。そっちはそのまま地上へ搬送する』
「こちらから三名、旧搬送ゲート制御室へ向かいます」
『頼む』
救難対象の男性が私を見る。
「神代さんたちは戻らないんですか?」
「別の救難があります」
「さっきの?」
詳しい内容は話していなかったが、それでも察したらしい。
「はい」
男性は少し笑った。
「じゃあ、行ってください。こっちは大丈夫です」
私は頷く。
「地上まで気をつけてください」
「そっちも」
救難員に連れられ、三人が先へ進んでいく。
私はその背中を見送った。
こちらの救難は、もう私たちがついていなくても続けられる。
久世さんはいなかったし、《帰り道》もなかった。途中では防火扉まで閉じた。
それでも、自分たちで別の道を探し、三人をここまで帰してくることができた。
だから、次の救難へ動ける。
「神代さん、出ます」
西谷さんに呼ばれた。
「はい」
私は向きを変え、今度は地上ではなく第五層の奥へ向かった。
久世さんの《帰り道》は、向こう側まで続いているらしい。
でも、その先にある扉を開けることはできない。
だったら、こちらから開ければいい。
久世さんが帰る方向を示しているなら、その道を実際に通れるようにする。
今度は、それが私たちの仕事だった。




