第55話 久世さんはいない
第六層へ下りる途中、私は何度か無意識に後ろを振り返りそうになった。
いつもなら、そこに久世さんがいる。
足元に見える《帰り道》を確認しながら歩き、分岐に来れば「こっちです」と言う。私はその先に危険がないかを見て、必要なら前へ出る。
今日は違う。
久世さんは第七層へ向かっている。こちらにいるのは、私と西谷さんを含む現地救難員五人の六名だ。
「神代さん」
前を歩く西谷さんに呼ばれ、私は意識を戻した。
「はい」
「この先から救難対象のいる北側区画に入ります。直近では中型魔物が四体確認されています」
「位置は変わっていませんか?」
「最後の情報では、通路から外れた空間にまとまっています。ただ、二十分以上前なので移動している可能性はあります」
私は頷いた。
「先行しますか?」
「お願いします。ただし、見つけてもすぐには仕掛けないでください」
「分かっています」
以前なら、その言葉を念押しされる必要があったかもしれない。
今は違う。
剣を抜けば倒せる。だからといって、倒す必要があるとは限らない。
私たちがここへ来た目的は、魔物を討伐することではなく、三人の探索者を地上へ帰すことだ。
北側区画へ入り、私は隊列より少し前へ出た。
通路は広く、天井も高い。見通しも悪くない。
しばらく進んだところで、奥から低い唸り声が聞こえた。
私は手を上げて後ろを止める。
西谷さんが近づいてきた。
「います」
「何体です?」
「三体は確認できます。もう一体は見えません」
曲がり角の先、大きな柱の向こうに、灰色の体毛をした四足の魔物が三体いた。
訓練ではない。
本物だ。
こちらにはまだ気づいていない。
西谷さんが地図を確認する。
「救難対象は、この先の保守通路付近です。魔物の位置からだと、百メートルも離れていません」
「迂回できますか?」
「一応できます。ただ、東側へかなり回ります」
後ろから別の救難員が地図を覗き込んだ。
「二十分以上余計にかかります。それと、東側は狭い通路が多いので、負傷者を搬送する場合は使いにくいかもしれません」
西谷さんが私を見る。
「今ここで倒す場合、どのくらいかかります?」
私はもう一度、魔物を確認した。
三体。
おそらく、見えていないもう一体も近くにいる。
強くはない。少なくとも、私一人で対応できる。
「短時間で終わらせられます。ただ、戦闘になれば残りの一体も寄ってくる可能性があります」
「周辺の別個体も?」
「音が届けば、あり得ます」
西谷さんは少し考えた。
私は待った。
自分で倒せるからといって、勝手に決めるつもりはない。
「救難対象と連絡を取ります」
西谷さんが端末を操作する。
通信はすぐにつながった。
『こちら救難班です。聞こえますか』
『はい、聞こえます』
男性の声だった。
『現在地から北へ移動できますか』
『無理です。一人、右脚をやってます。立てはしますけど、歩くとかなり痛むみたいで』
『魔物は見えていますか』
『見えてません。ただ、さっき唸り声は聞こえました』
西谷さんが私を見る。
救難対象の近くまで魔物を寄せるのは避けたい。
かといって、戦闘音で別の個体を呼ぶのも危険だ。
私は再び魔物たちの様子を確認した。
まだこちらには気づいていない。
そのうち一体がゆっくりと通路の奥へ歩き始め、残る二体も後を追った。
「動きました」
私は声を落とす。
「どちらへ?」
「西です。救難対象とは逆方向です」
西谷さんはすぐに判断した。
「待ちます。完全に離れたのを確認してから進みましょう」
私は頷いた。
剣には触れない。
三分ほど待つと、唸り声が少しずつ遠ざかっていった。さらに二分待ってから、私は角の先を確認する。
「見えません」
「残り一体は?」
「気配もありません。少なくとも通路上にはいないと思います」
「進みます」
隊列が動き始めた。
魔物は倒していない。
でも、それで問題はなかった。
救難対象から離れてくれたなら、今はそれでいい。
久世さんと一緒に救難へ入るようになってから、こういう判断が増えた。
以前の私は、前に危険があれば排除するのが一番確実だと思っていた。それ自体が間違っているわけではないし、攻略ならそのほうがいい場面も多い。
ただ、救難では戦うことで増える危険もある。
今は、それを考えるようになった。
保守通路の入口で、三人を見つけた。
男性二人と女性一人で、全員立ってはいるものの、そのうち一人の男性は壁に肩を預け、右脚をかばっている。
「救難班です」
西谷さんが声をかけると、三人の表情が少し緩んだ。
「三名で間違いありませんか?」
「はい」
「ほかに同行者はいませんね?」
「いません」
人数を確認したあと、医療担当の救難員が負傷者の状態を見る。
私は少し離れた位置から周囲を確認した。
こういう時に、自分から怪我人へ手を出さなくなったのも最近のことだ。
以前なら、立てないなら私が運べばいいと思っていた。
実際、それはできる。
でも、動かしていいかを決めるのは私ではない。
「右足首の捻挫が強いですね」
医療担当が言う。
「骨折の可能性は低そうですが、ここから普通に歩かせるのは避けたいです」
「担架ですか?」
西谷さんが聞く。
「簡易搬送椅子でいけます。足を固定して、なるべく体重をかけない形にしましょう」
二人の救難員が準備を始める。
私は周囲を確認したまま聞いた。
「私が運んだほうがいいですか?」
医療担当が少し考える。
「搬送椅子の後ろをお願いできますか。前はこちらで持ちます」
「分かりました」
必要な役割だけを受け持つ。
それでいい。
準備を終え、九人で移動を始めた。
救難対象三人と救難員六人。
私は搬送椅子の後ろを持って歩く。
今日は久世さんがいない。
だから、足元に光もない。
西谷さんが地図を確認しながら、通常帰還路へ向かう。
「このまま南へ戻ります。さっきの魔物が戻ってくる可能性があるので、西側の連絡通路を使います」
私は聞いた。
「距離は?」
「少し増えますが、搬送椅子でも通れます」
「分かりました」
今までなら、久世さんが先に方向を示してくれた。
今日は、西谷さんたちが地図と最新情報を使って道を決めていく。
私はその判断に従う。
不安がないわけではない。
ただ、昨日の訓練を経験したことで分かったこともある。
《帰り道》がなくても、救難員は何も分からないまま歩いているわけではない。
地図があり、通行記録があり、救難対象の状態がある。そこに現場を見てきた人の経験も加わる。
それらを一つずつ重ねながら、進む道を選んでいる。
連絡通路へ入って十分ほど進んだところで、西谷さんが足を止めた。
前方から金属音が響いた。
私は搬送椅子を別の救難員へ任せ、前へ出る。
「何かいますか?」
西谷さんが聞く。
「魔物ではないと思います」
さらに近づくと、通路の先に大きな防火扉が見えた。
半分ほど閉じた状態で止まっている。
人一人なら横向きで通れそうだが、搬送椅子を通すには狭すぎる。
「この扉、さっきまで開いてたんですよね」
救難員の一人が言う。
「行きに通った時は全開でした」
西谷さんが端末を確認する。
「設備異常の通知は出てません」
別の救難員が操作盤を確認するが、反応はない。
何度か試したあと、首を横に振った。
「駄目です。電源が落ちています」
「手動では?」
「解除装置が反対側です」
私は扉へ手をかけた。
力を入れれば動かせるかもしれない。
そう考えたところで、西谷さんが声をかける。
「神代さん、待ってください」
私は手を止めた。
「動かせそうです」
「分かっています。ただ、固定機構が壊れていた場合、途中で落ちる可能性があります」
扉を見る。
確かに、この重さのものが搬送中に落ちれば危険だ。
力で開けられることと、安全に通せることは違う。
「すみません」
私は手を離した。
「いえ。まず別の方法を探します」
西谷さんが地図を開く。
通常帰還路は、この扉の先だ。
ここを通れないとなると、一度戻って別の通路を使う必要がある。
ただ、負傷者を連れている。
先ほど避けた魔物も、今どこにいるか分からない。
救難対象の一人が不安そうに聞いた。
「あの……帰れますよね?」
私は反射的に答えそうになった。
大丈夫です。
久世さんなら、たぶんそう言う。
でも私は《帰り道》を見ることができない。
見えないものを見えるふりはできない。
それでも、ここで黙る必要もない。
「帰るために来ています」
私は答えた。
「少し道を確認します。ここで待っていてください」
男性は少しだけ安心したように頷いた。
私は西谷さんの横へ行き、地図を見る。
「別ルートはありますか?」
「二つあります。一つは、さっき魔物がいた区域へ戻る道。もう一つは、東側を大きく回る旧作業通路です」
「旧作業通路は搬送できますか?」
「記録上は通れます。ただ、最近は使われていません」
「確認できれば、使える可能性はある?」
「あります」
私は地図を見た。
最短ではない。
安全かどうかも、まだ分からない。
一瞬だけ、久世さんならどちらへ行くのだろうと考えた。
でも、今ここに久世さんはいない。
だから、私たちで決める。
「西谷さん。別の道を探しましょう」
西谷さんはすぐに頷いた。
「そのつもりです」
私は剣を持ち直し、東側へ続く通路を見た。
久世さんがいないから帰れない、では困る。
そのために、昨日まで訓練をしていた。
今度は本番で、自分たちの手で帰る道を見つける番だった。




