第52話 《帰り道》なし
翌朝、俺は訓練場の外にいた。
正確には、訓練区画を上から見渡せる観察室だ。
目の前の大きな窓の向こうには、昨日見せてもらった可動式の壁や段差が並んでいる。ダンジョンの通路を再現するため、照明も少し落とされていた。
俺の隣には相馬さんと城戸さんがいる。
「本当に俺、ここなんですね」
「昨日からそう言ってるだろ」
相馬さんが答える。
「見るのも訓練です」
城戸さんも同じことを言う。
「久世さんが入ると、どうしても《帰り道》がある前提になりますから。今日はまず、こちらが普段どう判断しているのか見てください」
「分かってますけど」
俺は窓の向こうを見る。
神代さんは現地救難員たちと一緒に、開始位置で装備を確認していた。
剣も持っている。
ただし今日の訓練では、本物の魔物は出ない。戦闘が必要な状況になった場合は、訓練担当者が魔物役の位置や行動を伝える方式らしい。
救難対象役は六人。
うち二人が負傷している設定だ。
詳しい位置や状態は、俺たち観察側には知らされている。
神代さんたちには一部しか伝えられていない。
「始めます」
訓練担当者の声が室内にも流れた。
窓の向こうで、救難班が動き始めた。
現地側の班長は城戸さんではなく、三十代後半の男性救難員だった。
名前は西谷さん。
今回の合同訓練では、城戸さん自身は外から全体を見るらしい。
「救難対象六名。第七訓練区画内で移動不能。二名負傷。最後に確認された位置は中央通路付近。通信は断続的」
西谷さんが内容を確認する。
「まず中央通路まで行く。そこから最後の通信位置を基準に捜索。神代さんは前方警戒をお願いします」
「分かりました」
神代さんが答える。
昨日まで一緒にいたのに、今日は完全に向こう側の人だった。
「違和感あります?」
城戸さんに聞かれた。
「ちょっと」
「神代さんが?」
「俺が見てるだけなのが」
相馬さんが鼻で笑った。
「慣れろ」
訓練班は通路へ入っていく。
俺にはもちろん、何も見えない。
救難対象をまだ確認していないから《帰り道》も出ないし、そもそもここからでは対象として認識することもできない。
今日は本当に、俺の能力とは関係のない救難だった。
通路を進んだ救難班は、最初の分岐で足を止めた。
「中央通路は右です」
一人が地図を確認する。
「ただ、通信記録だと最後の反応は少し南へずれてます」
「位置情報の誤差は?」
「この区画なら十メートル程度です」
西谷さんが周囲を見る。
「先に中央通路へ。そこから痕跡を探す」
全員が右へ進んだ。
俺なら、救難対象を見つけるまでは同じだ。
《帰り道》では人を探せない。
だから、ここまでは何も変わらない。
数分後、救難班が中央通路へ出た。
壁際には、訓練用に置かれた荷物が一つある。
「バッグ確認」
救難員が近づく。
「識別番号あり。救難対象の装備です」
「周囲は?」
「足跡が奥へ続いています」
「追う」
判断が早い。
神代さんは前方を見ながら、救難員たちの速度に合わせている。
一人で先へ行かない。
それを見て、少しだけ安心した。
「神代さん、ちゃんと待ってますね」
俺が言う。
相馬さんがこちらを見る。
「何を心配してた」
「前なら先に見に行きそうだったから」
「聞かれたら怒られるぞ」
「言いませんよ」
城戸さんが少し笑った。
足跡を追った先で、救難対象役の二人が見つかった。
一人は無傷。
もう一人は右足首を痛めている設定で、壁際に座っている。
「救難です。残りの方はどこですか?」
西谷さんが聞く。
無傷の男性役が答えた。
「四人は先に東側へ行きました。負傷者がもう一人います。通信できなくなって、俺たちはここで待つことにしました」
「いつ分かれました?」
「十分くらい前です」
「東側ですね」
「はい」
救難員が負傷者の足を確認する。
「歩行可能ですが、速度は落ちます」
西谷さんがすぐに決めた。
「この二人を一人で残すのはなし。二名を連れて残り四名を探す」
「了解」
一人の救難員が負傷者を支える。
神代さんが聞いた。
「私が背負ったほうが早くありませんか?」
観察室で俺は少し笑った。
「言った」
相馬さんも聞こえていたらしい。
城戸さんは黙って見ている。
西谷さんが神代さんへ答える。
「今は歩けています。途中で状態が変わった時にお願いします」
「分かりました」
神代さんはすぐに引いた。
一度言って、判断する人に任せる。
それでいい。
救難班は二人を連れ、東側へ進んだ。
ただし速度はさっきより遅い。
足を痛めた人間に合わせているからだ。
俺が救難に入っている時も、こういうことはある。
でも普段は足元の光ばかり見ている。
今日は外から全部見える。
誰か一人が遅くなるだけで、隊列全体の動きが変わる。
前の人が何度も振り返る。
曲がり角では全員が通過するまで待つ。
狭い場所では、負傷者を先に通す。
一つ一つは小さい。
それでも、こういうものを全部積み重ねて人を帰している。
しばらく進んだところで、救難班が二度目の分岐に着いた。
東へ向かうなら左。
右は遠回りになる。
西谷さんが左へ進もうとしたところで、訓練担当者から音声が入った。
『左側通路、崩落を確認。完全閉鎖ではありませんが、通過には除去作業が必要です』
救難班が止まる。
神代さんが左側を確認する。
「私なら動かせると思います」
西谷さんが地図を見る。
「どのくらい?」
「この程度なら数分で」
「二次崩落の想定は?」
訓練担当者から返事が来る。
『不明。通行安全確認には追加で十五分必要とします』
西谷さんはすぐには決めなかった。
地図を広げる。
右側の通路を見る。
「右から回れば?」
別の救難員が答える。
「東側へ出るまで二十分以上余計にかかります」
「左を通せば、確認込みで十五分」
「ただし負傷者を崩落箇所の近くで待たせることになります」
神代さんも地図を見る。
「右へ回りましょう」
西谷さんが顔を上げた。
「理由は?」
「時間差が五分程度なら、ここで負傷者を待たせる必要はないと思います」
「俺も同意です」
別の救難員が言う。
「右なら通行記録もあります」
西谷さんが頷いた。
「右へ行く」
救難班が進路を変える。
俺は何となく窓へ近づいた。
「久世なら?」
相馬さんに聞かれた。
「何がです?」
「今、どっちだったと思う」
「対象を見つけてないので分かりません」
「想像でいい」
俺は考える。
左は近い。
でも安全確認に時間がかかる。
右は遠いが、今のところ通れることが分かっている。
「右かもしれません」
「根拠は?」
「今いる負傷者が歩けるから。止まるより、ゆっくりでも進める道のほうが出そうな気がします」
「気がする、か」
「俺にも見えない時は分かりませんよ」
城戸さんがこちらを見る。
「今のが大事なんです」
「何がです?」
「久世さんでも、光がなければ普通に考えるしかない」
「そりゃそうですよ」
「現場側は毎回それをやっています」
俺は窓の向こうを見る。
確かにそうだった。
右を選んだ救難班は、遠回りの通路を進んでいる。
その選択が正しいかどうか、今の時点では誰にも分からない。
それでも、持っている情報から決めるしかない。
二十分ほどして、残り四人を見つけた。
全員そろっている。
そのうち一人が左膝を痛め、立てない設定だった。
「六名確認」
西谷さんが一人ずつ数える。
「負傷者二名。こちらの一名は歩行不能」
救難員が状態を確認する。
簡易担架が必要になった。
神代さんが担架の後ろへ回る。
「持ちます」
「お願いします」
今回は誰も止めなかった。
必要だからだ。
救難対象六人と救難班が一つになる。
ここからが帰還だった。
俺なら、この瞬間に《帰り道》を見る。
でも今日は、それがない。
西谷さんが地図を開く。
「通常帰還路は西側。来た道を戻れば一番近い」
別の救難員が首を横に振る。
「崩落地点があります」
「右へ回れば戻れます」
「担架で通れる?」
地図を見る。
先ほど通った遠回りの通路には、一か所だけ狭い場所がある。
歩いていた時は問題なかった。
担架を持つと話が変わる。
「幅を確認します」
救難員が記録を開く。
「最狭部八十五センチ」
担架の幅を見る。
「厳しいな」
西谷さんが別ルートを探す。
南側。
距離は長い。
ただし搬送路として使われているため、幅は十分にある。
「南へ回ると四十分追加です」
「通信は?」
「ここから先、二か所で不安定になります」
「魔物想定区域も一つあります」
情報が増える。
俺は思わず足元を見そうになった。
もちろん何もない。
光があれば、たぶん一瞬で方向は決まる。
今は違う。
救難班は地図と記録を見比べ、救難対象の状態を確認し、通路の幅まで調べている。
「南へ行きます」
西谷さんが決めた。
「時間はかかる。でも担架を途中で立てたり、無理に狭所を抜けるより安全です」
全員が頷く。
神代さんも何も言わない。
担架を持ち直し、隊列が動き始めた。
「久世さん」
城戸さんが言う。
「どうです?」
「何がです?」
「遅いと思いますか」
正直に考えた。
救難対象を見つけてから、ここまでかなり時間がかかっている。
《帰り道》があれば、もっと早く進む方向は決まっていたかもしれない。
「時間はかかってますね」
「はい」
「でも、何でその道を選んだのかは分かります」
城戸さんが頷く。
「私たちは、それを積み重ねて帰します」
救難班は南側の搬送路へ入った。
途中で通信が一度途切れた。
そこで全員を止め、位置を確認する。
少し進むと、今度は訓練担当から魔物出現の想定が入った。
『前方通路に中型魔物二体。現時点では救難班に気づいていません』
神代さんが前へ出る。
「排除しますか?」
西谷さんはすぐには答えなかった。
地図を見る。
「この先に退避用の小部屋がある。全員そこへ入れますか」
「入れます」
「なら一度待つ。魔物がこちらへ来るなら対応する」
「分かりました」
神代さんも剣を抜かなかった。
全員で小部屋へ入る。
五分待つ想定のあと、訓練担当から魔物が別方向へ移動したと連絡が入った。
戦闘なし。
救難班は再び動く。
俺はそれを見ながら、神代さんが前に言っていたことを思い出した。
状況によります。
城戸さんに救難の基準を聞かれた時の答えだ。
本当にその通りだった。
倒したほうがいい時もある。
待ったほうがいい時もある。
遠回りしたほうがいい時もある。
正解が最初から見えているわけではない。
それでも、その場にある情報を集めて、一つずつ決めていく。
訓練開始から一時間半ほど経った頃、救難班が出口へ戻ってきた。
救難対象役の六人も全員いる。
担架の一人も無事だった。
訓練担当者が終了を告げる。
窓の向こうで、救難員たちがようやく力を抜いた。
神代さんがこちらを見上げる。
目が合った。
俺は手を上げる。
神代さんも小さく手を上げ返した。
「全員帰りましたね」
俺が言う。
「ああ」
相馬さんが答える。
城戸さんも訓練場を見ている。
「久世さん」
「はい」
「《帰り道》なしでも帰れました」
「そうですね」
当たり前のことのはずなのに、少し不思議な気分だった。
俺が救難へ入るようになってから、帰還する時にはいつも光があった。
今日はそれがない。
それでも救難員たちは、地図を読み、負傷者の状態を見て、通れる道を調べ、必要なら遠回りを選んだ。
時間はかかった。
迷いもした。
でも、六人全員を連れて戻ってきた。
「どうでした?」
城戸さんに聞かれる。
俺は少し考えてから答えた。
「俺、普段かなり楽してますね」
相馬さんが呆れた顔をする。
「今さらか」
「方向決めるところだけですよ」
「分かってる」
城戸さんが笑った。
「明日は逆です」
「俺が入る?」
「はい」
窓の向こうでは、神代さんたちが訓練の振り返りを始めている。
明日は俺もあちら側へ行く。
《帰り道》がある状態で、同じように救難をする。
今日より早くなるかもしれない。
違う判断になるかもしれない。
それでも、一つだけ先に分かったことがあった。
俺の《帰り道》がなくても、人を帰す方法はちゃんとある。
その上で俺が何を足せるのか。
次に確かめるのは、そこだった。




