第50話 次の救難の形
合同訓練への参加を決めた翌日、救難所の机には朝から地図が広げられていた。
昨日まで積まれていた外部からの問い合わせとは違う。
机に広げられているのは、水没した第三層や濃霧に覆われた第六層、藤堂たちが地図にない保守区画へ入り込んだ第十層など、これまで久世が参加した救難の記録だった。
これまで久世が参加した救難の記録を、小日向が一つずつまとめ直したものだった。
「朝からずいぶん出してるな」
俺が言うと、小日向が端末から顔を上げた。
「合同訓練の前に、一回整理しておこうと思って」
「全部か?」
「全部は無理です。代表的なのだけ」
向かいでは久世が地図を眺めている。
神代さんも来ていた。
最近はもう、救難要請が入っていなくても普通にこの席に座っている。
「俺も必要?」
久世が聞く。
「久世さんの救難記録なんだから必要ですよ」
「昨日も会議したよね」
「今日は会議じゃないです」
「何するの?」
小日向が一枚の地図を机の中央へ置いた。
「久世さんがいなかったら、どう帰してたか考えます」
久世が俺を見る。
「それ、俺いる?」
「いる」
俺が答える。
「自分がいる時しか考えない奴になったら困る」
「そういうつもりじゃないんだけどな」
久世は言いながらも椅子へ座り直した。
小日向が最初の記録を開く。
「じゃあ、これからいきます」
表示されたのは、隣県で行った水没救難だった。
「条件は、第三層東側の浸水。救難対象三名。一名は先に発見済みで、残る二名の位置は不明」
小日向が読み上げる。
「通信は不安定。水流あり。通常通路の一部は通行困難」
「懐かしいですね」
神代さんが地図を見る。
久世が答える。
「俺はあんまり懐かしくないです。流されかけたので」
「あれは久世さんが前に出すぎたんです」
「だから反省してるって」
俺は二人を放っておいて、小日向を見る。
「続けろ」
「はい。まず、久世さんがいない場合」
小日向が地図を指した。
「現地救難班は水流と水位を確認しながら、探索済み区域を広げる。救難対象二名の捜索は、本人たちが持っていた装備の情報と現場に残った痕跡から進める」
「そこは久世がいても同じだ」
俺が言う。
「はい。《帰り道》では二人の場所は分からないので」
久世も頷く。
「見つけるまでは普通に探すしかない」
「発見後は?」
神代さんが聞いた。
小日向が少し考える。
「現地救難班が水位、流れ、負傷者の状態を見て帰還ルートを決める。ただ、今回みたいに途中で水位が上がった場合は、一度止まって別経路を再確認することになると思います」
「時間はかかるな」
「はい」
俺は地図を見る。
「でも帰せないわけじゃない」
「そうですね」
小日向が答える。
「久世さんがいる場合は、救難対象を見つけたあと、《帰り道》で帰還方向を絞れる。水位が変わって道が変わった時も、別の経路を選ぶ判断が早くなる」
久世が口を挟む。
「ただ、そこが水中の穴だらけかどうかは分からないよ」
「それも書いてあります」
「ちゃんと?」
「久世さんよりちゃんと」
「信用ないなあ」
神代さんが少し笑った。
俺は小日向の資料を見る。
《帰り道》がある場合とない場合では、確かに救難の進め方に違いが出る。
久世がいれば、帰還経路を探す時間を大きく減らせる。
だが、水に入れるか判断するのは現地の救難員だ。
ロープを張るのも、水位を見るのも、負傷者を支えるのも久世ではない。
一つずつ分けていけば、見えてくる。
久世にしかできないことと、それ以外の人間がやるべきことが。
次に出したのは濃霧の救難だった。
救難班そのものが方向を見失い、救助した探索者を含めて七人が帰れなくなった件だ。
「これは久世さんがいないと、かなり難しかったですよね」
小日向が言う。
「難しいのは間違いない」
俺は答える。
「でも、だから終わりじゃない」
「通常ならどうします?」
「まず動かす範囲を狭める。ロープで隊列を固定する。壁番号や分岐を記録して、同じ場所を回ってないか確認する。通信が入る場所まで戻れるなら、外からも誘導を入れる」
神代さんが地図を見る。
「魔物が出た場合は?」
「帰還優先だ。避けられるなら避ける」
「久世さんがいなくても?」
「関係ない」
神代さんが頷いた。
以前の神代さんなら、この場で最初に考えるのは魔物の排除だったかもしれない。
今はもう違う。
「私が同行しているなら、先行して安全を確認します。ただし、追いかけません」
「それでいい」
俺が言う。
久世が横から地図を見る。
「俺がいなかったら、どっちに進むか決めるの大変そうですね」
「大変だよ」
小日向が答える。
「でも、そのために壁番号とか地図とか通信記録があるんじゃないですか」
「そうか」
久世は少し考えた。
「《帰り道》があると、そういうの飛ばしてるように見えるのかな」
誰もすぐには答えなかった。
久世は続ける。
「俺には線が見えるから、右か左かならすぐ言える。でも普通は、その前にいろんな情報を集めて決めるんですよね」
「そうだ」
俺は答えた。
「お前の能力が、その判断を一部省略できるだけだ」
「一部?」
「全部じゃないだろ」
「まあ、そうですね」
久世が納得したように頷く。
それでいい。
久世本人にも、自分の能力が救難そのものではないと分かっていてもらう必要がある。
三つ目は、藤堂たち四人の救難だった。
地図にない保守区画。
帰還石不使用。
通信不能。
探索者四名。
その記録を見ると、神代さんが少し表情を緩めた。
「この救難、かなり長かったですね」
「待ってた側はもっと長く感じただろうな」
久世が言う。
小日向が記録を開く。
「この件で久世さんが役に立ったのは、発見後ですよね」
「そう」
「見つけるところまでは、藤堂さんたちが残した印と壁番号」
「あと音」
神代さんが言う。
「保守室から返してくれた音で、最後に位置を絞りました」
「それも入れます」
小日向が記録に追加する。
久世が地図を見る。
「こうやって見ると、俺が見つけたわけじゃないんだな」
「最初からそう言ってるだろ」
俺が言う。
「分かってますけど、記録で見ると余計に」
小日向が笑う。
「久世さん、思ったより活躍してない?」
「言い方」
「冗談です」
だが、悪い見方ではない。
主人公みたいに一人で全部やる救難なんて、現場では必要ない。
誰かが手掛かりを見つける。
誰かが人を探す。
誰かが怪我を見る。
誰かが道を作る。
久世が帰る方向を示す。
全員で地上へ戻る。
その中に久世がいる。
それでいい。
昼を過ぎる頃には、机の上がさらに散らかっていた。
地図。
記録。
小日向が作った表。
神代さんが書き込んだ注意点。
久世の報告書。
俺は一枚ずつ見る。
「小日向」
「はい?」
「これ、合同訓練で使える形に直せ」
「全部ですか?」
「全部じゃない。共通するところだけでいい」
「共通するところ?」
俺は地図を指した。
「能力があるかどうかに関係なく必要なものだ」
小日向が考える。
「救難対象の人数確認」
「そうだ」
「負傷状態」
「それも」
神代さんが続ける。
「移動できるかどうか。担架が必要か。戦闘を避けられるか」
「通信状況もですね」
小日向が入力する。
久世も会話に入った。
「今いる場所が分かるかどうか」
「捜索中なら最後に確認できた位置も」
「持ってる装備」
「帰還石の状態」
項目が増えていく。
ただし、増やしすぎても現場では使えない。
「絞れ」
俺が言う。
「最初から全部聞いてたら出るのが遅くなる」
小日向が手を止めた。
「じゃあ、最初に必要な情報と、あとから確認する情報を分けます」
「それがいい」
神代さんが小日向の画面を覗く。
「訓練では、途中で負傷者の状態を変えるのもどうでしょう」
「変える?」
久世が聞く。
「最初は歩ける設定。でも途中で歩けなくなる」
「俺がいる場合は道が変わる可能性がある」
「はい。いない場合は、その場で救難班がルートを選び直します」
小日向が入力する。
「それ、比較しやすいですね」
俺も頷いた。
「入れろ」
「あと、途中で魔物が出る設定は?」
神代さんが聞く。
久世が嫌そうな顔をする。
「訓練なのに?」
「実物じゃなくて想定です」
「それなら」
「久世さん、何だと思ったんですか」
「神代さんなら捕まえてきそうだから」
神代さんが真顔になる。
「しません」
「本当に?」
「しません」
小日向が笑った。
こういうやり取りをしながらでも、話は少しずつ形になっていく。
十五年前。
救助用の装備を一つずつ決めた時と同じだ。
最初から正解なんてない。
最初から正解が分かるわけではない。実際に使い、うまくいかなかった部分を直しながら、少しずつ形にしていけばいい。
今やろうとしていることも、結局は同じだった。
夕方、小日向が合同訓練用のたたき台を完成させた。
画面に大きく二つの項目が並んでいる。
《帰り道》あり。
《帰り道》なし。
その下に、同じ想定事故が書かれていた。
想定は救難対象六名で、そのうち二名が負傷。一名は途中で歩行不能となり、通信も不安定。さらに通常帰還ルートの一部が使えず、移動中には魔物と遭遇する可能性も設定されていた。
「結構ちゃんとしてるな」
久世が言う。
「ちゃんと作ってますから」
「俺の報告書より?」
「比較になりません」
「そこまで?」
神代さんが資料を見る。
「これなら、同じ条件で違いが分かりますね」
「ああ」
俺は答える。
「久世がいる時に何が早くなるか。いない時にどこで判断が必要になるか。両方見ればいい」
久世が資料を見たまま聞く。
「俺の能力を広める訓練じゃないんですね」
「広めようがないだろ。お前しか見えないんだから」
「確かに」
「広めるのは、救難のやり方だ」
久世が顔を上げる。
俺は続けた。
「お前がいる時は使う。いなければ別の方法で帰す。どっちでも動ける人間を増やす」
神代さんが静かに頷いた。
小日向も資料を見ている。
「それが次の救難所ですか?」
大げさな言い方だった。
俺は少し考える。
「そんな立派なもんじゃない」
「じゃあ何です?」
「今より少しマシにするだけだ」
昔からそうだった。
いきなり完成したことなんて一度もない。
足りないものを見つける。
一つ直す。
また足りないものが見つかる。
それを続けてきた。
「相馬さん」
神代さんが言う。
「私も合同訓練、両方に参加していいですか?」
「久世なしのほうにも?」
「はい」
「構いません」
「ありがとうございます」
久世が神代さんを見る。
「俺いないほうが張り切ってません?」
「そういう意味ではありません」
「ならいいですけど」
小日向が笑う。
その時、受付の端末に通知が入った。
救難要請ではない。
合同訓練先からの正式な日程連絡だった。
小日向が確認する。
「来週です」
「場所は?」
「向こうの第七訓練区画。現地救難員が八名参加予定。こっちは久世さん、神代さん、それと……」
小日向が資料を見る。
「相馬さんも現地に来てほしいそうです」
「俺もか」
「全体を見る人が必要だからって」
久世が笑う。
「出張ですね」
「訓練だ」
「さっき俺にもそれ言いましたよね」
俺は無視した。
合同先には合同先のやり方がある。
長く救難をやってきた人間もいる。
こちらが正しいと決まっているわけじゃない。
むしろ、違うからこそやる意味がある。
久世の《帰り道》をどこまで信用するのか。
救難対象をどう動かすのか。
危険を排除してから進むのか、それとも避けるのか。
現場に入れば、考え方の違いはいくらでも出てくるだろう。
それでいい。
違うところが分からなければ、直しようもない。
俺は日程を確認して、書類を閉じた。
「準備しとけ」
久世がため息をつく。
「はい」
神代さんは迷わず頷いた。
「分かりました」
小日向も資料を保存する。
「僕も行きます?」
「お前は残れ」
「ですよね」
少し残念そうだった。
「その代わり、記録を全部まとめとけ」
「結局仕事増えるじゃないですか」
「仕事だからな」
救難所にいつもの空気が戻る。
俺は机の上の地図を一枚ずつ片づけた。
十五年前、俺たちは事故が起きるたびに、その場にいる人間だけで何とかしていた。
今は違う。
救難所がある。
訓練がある。
記録がある。
そして、久世の《帰り道》という新しい力もある。
使えるものは増えた。
だからこそ、それを一人のもののままにしておくつもりはない。
久世の能力そのものを誰かに渡すことはできない。
だが、久世と救難をしたことで分かったことなら残せる。
人に教えられる。
次の現場で使える。
それを積み重ねれば、久世一人では帰せなかった人間まで、いつか帰せるようになるかもしれない。
次に作るのは、久世のための救難ではない。
久世がいても、いなくても動ける救難だ。
その最初の一歩が、来週から始まる。




