第45話 十五年前の救難
翌朝、救難所へ来た神代さんは、昨日と同じように受付の奥で小日向と話していた。
久世は机に向かい、前日に直された報告書をもう一度確認している。
俺は事務室からその様子を眺めていた。
「相馬さん」
小日向に呼ばれ、顔を上げる。
「昨日の搬送訓練の記録、ここでいいですか?」
差し出された書類に目を通す。
担架搬送。
狭所通過。
段差対応。
前後の連携。
神代さんと久世の名前が並んでいた。
「神代さん、かなり上手くなってましたよ」
「最初は力任せだったけどな」
「それ本人の前で言わないほうがいいですよ」
「聞こえてます」
神代さんの声が飛んでくる。
俺は気にせず書類へ印を押した。
「次はもっと狭い場所でやる」
「まだやるんですか?」
久世が嫌そうな顔をする。
「当たり前だ。昨日できたから、次もできるとは限らん」
「相馬さん、訓練になると急に厳しくなりますよね」
「救難で失敗するよりいい」
久世は何も言い返さなかった。
俺は書類を閉じる。
救難所では、強い奴だけが役に立つわけじゃない。
運べる奴。
怪我を見られる奴。
地図を読める奴。
判断できる奴。
人を落ち着かせられる奴。
それぞれが必要なことをやる。
今では当たり前になっている。
だが、昔からそうだったわけじゃない。
まだダンジョンが今ほど身近ではなく、探索者という仕事自体が手探りだった頃。
救難もまた、攻略の延長でしかなかった。
俺がそれを嫌というほど思い知らされたのは、十五年前のことだ。
当時の俺は三十三歳だった。
探索者としてはB級。
今より身体も動いたし、魔物と戦うことにもそれなりの自信があった。
その日、俺が呼ばれたのは、郊外にある中規模ダンジョンだった。
第五層で探索者三人が動けなくなっている。
三人のうち、一人は脚を負傷し、もう一人は肩を痛めていた。残る一人には大きな怪我はないが、二人を連れて帰ることができない。
通信は生きている。
位置も分かっている。
話だけ聞けば、難しい救助ではなかった。
「相馬」
入口で名前を呼ばれた。
振り返ると、A級探索者の柿沼がいた。
四十歳手前。
当時、この地域ではかなり名前の知られた探索者だった。
大剣を使い、深い階層での討伐経験も多い。
「柿沼さんも呼ばれたんですか」
「ああ。第五層ならすぐ終わるだろ」
柿沼は笑った。
「負傷者三人だって?」
「三人のうち、怪我してるのは二人です」
「なら楽だ。魔物さえ片づければ歩ける奴に肩貸して、無理な奴は担げばいい」
俺もその時は、同じように考えていた。
救助に必要なのは、強い探索者だと思っていた。
危険な魔物を倒し、負傷者を連れて戻る。
単純な話だ。
現場には俺と柿沼のほか、C級探索者が二人、治療魔法を使える探索者が一人集められていた。
そしてもう一人。
「全員いるな」
年配の男がこちらを見回した。
名前は宮下。
五十代半ばだった。
探索者としてのランクはC級。
戦闘力だけを見れば、俺や柿沼より下だった。
ただし、ダンジョンが現れて間もない頃から事故対応に参加していた人物で、負傷者の搬送経験が多いと聞いていた。
当時は、今のように「救難員」という立場がはっきり分かれていたわけではない。
怪我人が出れば、その時に動ける探索者が呼ばれる。
経験者がいれば、その人間がまとめる。
その程度だった。
「現場までは通常ルートで四十分弱。第五層南側の岩場だ」
宮下さんが地図を広げる。
「現地からの通信では、周辺にストーンハウンドが数体いるらしい。一度追い払ったが、また戻ってきている」
柿沼が腕を組む。
「先にそいつらを片づける」
宮下さんが顔を上げた。
「必要ならな」
「必要だろ。負傷者の近くに魔物がいるんだぞ」
「現場を見てから決める」
「見てからって、そこで襲われたら遅い」
「だから見て決めるんだ」
二人の間に少しだけ空気が張った。
俺は柿沼の考えに近かった。
危険があるなら先に排除する。
そのほうが安全だ。
それが普通だと思っていた。
「行くぞ」
宮下さんが地図を閉じた。
俺たちは第五層へ向かった。
現場近くまで来ると、魔物の鳴き声が聞こえた。
ストーンハウンド。
灰色の硬い皮膚を持つ犬型の魔物で、一体ならそれほど強くない。ただし群れで行動することが多い。
「三……いや、四体だな」
柿沼が前方を見る。
負傷者たちがいるのは、そのさらに奥だった。
岩壁の近くに三人。
一人が座り込み、もう一人は横になっている。
無傷らしい男性がこちらに気づき、大きく手を振った。
「こっちです!」
声に反応して、ストーンハウンドの一体が振り返る。
「動くな!」
宮下さんが負傷者へ叫んだ。
柿沼はすでに大剣を抜いていた。
「四体なら俺と相馬で十分だ」
「待て」
「待ってる間に向こうへ行かれたらどうする」
柿沼が走り出す。
俺も反射的に後を追った。
ストーンハウンドが二体、こちらへ向きを変えた。
一体目が飛びかかってくる。
俺は剣を横へ振り、前脚を弾いた。
そこへ柿沼の大剣が入る。
一撃で魔物が倒れた。
「次!」
残りが散る。
二体がこちら。
一体は負傷者たちの近くに残っている。
「相馬、右!」
「分かってる!」
俺は右から来た一体を受ける。
噛みつきをかわし、肩へ剣を入れた。
深くは入らない。
皮膚が硬い。
もう一撃。
魔物が離れる。
柿沼が別の一体を追っていた。
「逃がすな!」
ストーンハウンドが岩場の奥へ走る。
柿沼も追う。
俺も加勢しようとした。
その時だった。
「相馬!」
宮下さんの声が飛んできた。
「戻れ!」
「でも、まだ――」
「いいから戻れ!」
強い声だった。
俺は一瞬迷った。
ストーンハウンドはまだ二体残っている。
そのうち一体は柿沼が追っている。
危険を残したまま負傷者のところへ行っていいのか。
迷っている間に、宮下さんはすでに三人のところへ向かっていた。
治療役の探索者も続く。
仕方なく、俺も戻った。
「大丈夫か」
宮下さんが座っている男性へ声をかける。
「はい。俺は大丈夫です。でもこいつが……」
横になっている男性を見る。
左脚が不自然な角度になっていた。
もう一人の女性は肩を押さえている。
顔色も悪い。
「いつから?」
「一時間くらい前です」
「動かしたか?」
「少しだけ。でも痛がったんで」
「それ以上動かすな」
宮下さんが治療役へ指示を出す。
俺は周囲を見る。
ストーンハウンドがいた方向。
柿沼はまだ戻ってこない。
「宮下さん」
「何だ」
「魔物が残ってます」
「見えてる」
「先に倒したほうがいいんじゃないですか」
宮下さんは負傷者の脚を確認したまま答えた。
「今、こいつらを襲ってるか?」
「今は」
「なら先に状態を見る」
「でも戻ってきたら」
「その時は止めろ」
簡単に言われた。
「俺たちは何しに来た」
「助けに」
「だったら、まず助ける相手を見ろ」
俺は言葉に詰まった。
その直後、遠くで魔物の鳴き声が響いた。
柿沼の声も聞こえる。
戦闘は続いている。
「宮下さん、男性の脚は骨折の可能性があります」
治療役が言った。
「女性は?」
「肩は脱臼かもしれません。あと、少し呼吸が速いです」
宮下さんが女性へ声をかける。
「息苦しいか?」
「少し……」
「胸は痛い?」
「はい」
表情が変わった。
宮下さんがすぐに指示を出す。
「担架を出せ。こっちを先に運ぶ」
俺は驚いた。
「脚の人じゃないんですか?」
「こっちのほうが急ぐ」
「でも歩けないのは――」
「歩けるかどうかだけで決めるな」
言われて、黙る。
女性は肩を痛めているだけだと思っていた。
俺には立てるようにも見えた。
だが宮下さんと治療役は、呼吸と胸の痛みを気にしている。
俺には分からない判断だった。
「相馬、担架」
「はい」
ようやく動く。
担架を広げる。
女性を移す。
その間に、柿沼が戻ってきた。
「二体片づけた。あと一体は奥へ逃げた」
大剣には血がついていた。
「これで安全だ」
柿沼が周囲を見る。
宮下さんは女性の状態を確認しながら答える。
「安全じゃない」
「は?」
「まだ三人とも地上に帰ってない」
柿沼が眉を寄せる。
「魔物はほとんど片づけたぞ」
「だから何だ」
「だから、もう落ち着いて運べるだろ」
「お前が追いかけてる間に、この人の呼吸が悪くなった」
柿沼が女性を見る。
初めて気づいたようだった。
「そんなに悪いのか?」
「分からん。だから急いで地上へ戻す」
空気が変わった。
柿沼もそれ以上言わなかった。
宮下さんが全員を見る。
「ここからは、誰も魔物を追うな。近づいてきた奴だけ止める。目的は三人を地上へ帰すことだ」
俺はその言葉を聞きながら、自分の剣を見た。
さっきまで、何体倒したかばかり考えていた。
まだ残っている。
また戻ってくるかもしれない。
全部倒せば安全になる。
それしか頭になかった。
目の前にいる人間が、今どういう状態なのかも分からないまま。
「相馬」
宮下さんに呼ばれる。
「はい」
「担架の後ろを持て」
「分かりました」
「揺らすなよ」
女性を乗せた担架を持ち上げる。
柿沼も前へ来た。
「俺が持つ」
宮下さんが止める。
「お前は前を見ろ。魔物が出た時だけ動け」
柿沼のほうが俺より力はある。
担架を持たせたほうが早い。
そう思ったが、今度は口にしなかった。
必要な人間が、必要な場所にいる。
宮下さんは最初からそれを考えていたのだと思う。
「戻るぞ」
隊列が動き始める。
その日は、誰も死ななかった。
三人とも地上へ戻った。
女性も搬送後に適切な治療を受け、大事には至らなかった。
結果だけを見れば、成功した救助だった。
それでも俺は、帰還後に宮下さんから言われた言葉を長く忘れられなかった。
地上へ戻ったあと、俺は入口脇のベンチに座っていた。
手には剣がある。
ストーンハウンドを二体相手にした。
怪我もない。
いつもの探索なら、悪くない動きだったと思う。
宮下さんが隣へ座った。
「不満そうだな」
「別に」
「顔に出てる」
俺は少し迷ってから聞いた。
「魔物を先に全部倒すのって、そんなに間違ってますか」
宮下さんはすぐには答えなかった。
「攻略なら間違ってない」
「じゃあ」
「今日は攻略じゃない」
俺を見る。
「救助だ」
「でも危険を残したら、運んでる途中で襲われるかもしれない」
「だから近づいてきたら止める」
「全部倒しておけば、その心配もなくなる」
「全部倒すまで、怪我人は待ってくれるのか?」
何も答えられなかった。
宮下さんは前を向く。
「戦える奴ほど、魔物を見る。強い奴ほど、倒せば解決すると思う。それが悪いとは言わん。探索者なら普通だ」
少し間を置く。
「でも救助で見るのは、魔物じゃない」
救急車へ運ばれていく探索者たちを指した。
「帰す人間だ」
俺は黙って聞いていた。
「魔物を全部倒して、怪我人が悪化したら失敗だ。宝を捨てても、装備を壊しても、魔物を一匹も倒さなくても、全員帰れたなら仕事は終わる」
「それが救助ですか」
「少なくとも俺はそう思ってる」
宮下さんが立ち上がる。
「攻略できる奴と、人を帰せる奴は同じじゃない」
その言葉だけ残して、歩いていった。
俺はしばらく動けなかった。
当時の俺には、まだ完全には理解できていなかったと思う。
強ければ守れる。
危険を倒せば助けられる。
その考えを捨てたわけではない。
ただ、この日から一つだけ意識するようになった。
ダンジョンへ入る前に、自分へ聞く。
今日は何をしに行くのか。
攻略なのか。
討伐なのか。
それとも、人を帰すためなのか。
同じダンジョンへ入る仕事でも、答えが違えば、やることも変わる。
十五年前の俺は、その違いをようやく知り始めたところだった。




