第41話 S級探索者・神代美波
藤堂さんたち四人を地上へ送り届けた翌日、私は救難所ではなく、都内にある大型ダンジョンの第十九層にいた。
「神代、右から来る!」
森岡さんの声に反応して身体をひねる。
岩壁の陰から飛び出してきたのは、黒い体毛に覆われた熊型の魔物だった。立ち上がれば三メートル近くある巨体で、振り下ろされた前脚が床を削ると、砕けた石片が周囲へ飛び散った。
私はその一撃を半歩下がって避け、着地した前脚へ剣を滑らせる。硬い体毛の奥で刃が肉を捉えると、魔物が低い咆哮を上げた。
「橘さん!」
「分かってる!」
後方から青白い光が飛び、魔物の顔の横で弾ける。視界を奪われた魔物が頭を振った隙に、森岡さんが大盾を構えて前へ出た。
「来い!」
魔物が森岡さんへ向きを変え、巨体を沈める。
次の瞬間、床を揺らしながら突進してきた。
森岡さんは盾を正面に据えて受け止める。鈍い衝撃音とともに靴底が床を滑ったが、それでも押し切られなかった。
「神代!」
「はい!」
私は魔物の側面へ回り込み、最初に傷を入れた前脚の付け根へ再び剣を振るった。今度は角度を変えて深く刃を通す。
魔物の身体が大きく傾き、森岡さんが盾で押し返した。そこへもう一撃を加えると、巨体が床へ倒れ込み、振動が足元まで伝わってくる。
それでもまだ終わらない。
魔物は頭を持ち上げ、口を大きく開いた。
私は剣を逆手に持ち替え、そのまま首の脇へ突き立てる。
数秒後、ようやく身体から力が抜けた。
「終わり」
森岡さんが盾を下ろす。
私は剣を引き抜き、刃についた血を払って鞘へ戻した。
「周囲は?」
「今のところ反応なしです」
橘さんが探知用の端末を確認する。少し離れた場所では、榊原さんが後方の通路を警戒していた。
「神代さん、相変わらず早いですね」
「森岡さんが止めてくれたからです」
「俺、最後ほとんど盾だったけどな」
「いつもそうじゃない」
橘さんが笑う。
森岡さんが不満そうな顔をした。
「盾役なんだから正しいだろ」
「正しいけど、本人が言うと格好つかないのよ」
いつものやり取りだった。
昨日までとは、まるで違う。
水の中をロープにつかまって進む必要もない。地図にない保守通路で遭難者を探すこともないし、誰かの歩く速度に合わせて一歩ずつ進む必要もない。
目の前に魔物がいれば倒して、その先へ進む。
私にとっては、こちらのほうがずっと慣れている。
「次、行けますか?」
榊原さんが聞く。
「はい」
今日は第十九層北側に出現した大型魔物の調査と討伐が目的だった。
救難ではない。
通常の探索者としての仕事だ。
それも、私にとっては珍しいことではなかった。
「神代さん、本当に昨日も潜ってたんですか?」
移動中、橘さんに聞かれた。
「はい」
「救難?」
「そうです」
「それで今日これ?」
橘さんは私の顔をじっと見る。
「疲れてないの?」
「寝ましたから」
「そういう問題?」
前を歩いていた森岡さんが笑った。
「神代は昔からこうだろ」
「昔からって言っても、昨日は普通の探索じゃないでしょ」
「遭難者四人を迎えに行っていました」
私が答えると、榊原さんが振り返った。
「例のF級の人と?」
「久世さんです」
「ああ、その人」
榊原さんはすぐに思い出したようだった。
最初に私たちが助けられた時、一緒にいたのだから当然だ。あの時、足を怪我していたのも榊原さんだった。
「まだ一緒に救難やってるんですね」
「最近はよく参加しています」
「よく、どころじゃないんじゃない?」
橘さんが言う。
「この前も別の県に行ってたでしょ」
「はい」
「神代さん、最近攻略より救難の話をしてる時間のほうが長くない?」
言われて、少し考えた。
「そうですか?」
「そうよ」
即答だった。
森岡さんも頷いている。
「前は休憩中でも、次の攻略ルートとか装備の話ばっかりだったからな」
「今もします」
「するけど、増えたよ。『救難だとこうする』とか、『追わないほうがいい』とか」
私は少し黙った。
自分ではそこまで意識していなかった。ただ、言われてみれば以前より考えることは増えている。
以前の私は、倒せるか、進めるか、攻略できるかを判断の中心に置いていた。
今は、誰かが怪我をしていたらどうするか、誰かを連れて帰るなら今ここで戦う必要があるのか、そんなことも自然に考えるようになっている。
「嫌になった?」
橘さんが聞く。
「何がです?」
「攻略」
「いえ」
それは違う。
魔物と戦うことも、ダンジョンの奥へ進むことも嫌いではない。自分が強くなることに意味がないとも思っていない。
むしろ最近は、強いからこそ助けられる場面があることも知った。
「使い方が増えた気はします」
「強さの?」
「はい」
水の中でロープを張り、重い配管を持ち上げ、濃霧の中では必要のない魔物を追わなかった。藤堂さんたちを連れて帰る途中には、アーマーボアを倒さず通路から離したこともある。以前なら、自分の力をそんなふうに使うとは考えていなかった。
森岡さんが少し笑った。
「いいんじゃないか」
「何がです?」
「神代にできることが増えたなら」
それだけ言って、また前を向いた。
私は少しだけ考えてから、その後を追った。
二体目の大型魔物を見つけたのは、それから四十分ほど後だった。
今度は広い採掘跡だった。天井が高く、中央には崩れた石柱がいくつも残っている。
その奥に、大型の四足獣がいた。
先ほどより一回り大きい。赤黒い体毛に覆われ、背中には硬い突起が並んでいる。
「ブラッドベア」
橘さんが声を落とす。
森岡さんが盾を構えた。
「一体だけか?」
「反応は一体です」
「なら予定どおりやる」
私も剣を抜いた。
ブラッドベアはこちらに気づいており、低く唸りながら身体を向けてくる。
普通なら、このまま戦闘に入る。
そう思った時だった。
「待って」
橘さんが言った。
全員が止まる。
「何?」
「向こう」
橘さんが指したのは、ブラッドベアではなかった。
さらに奥、崩れた石柱の陰に二人の探索者がいる。
男性は壁にもたれて座り込み、女性がこちらへ大きく手を振っていた。
「負傷者?」
榊原さんが目を凝らす。
「男のほう、立ててない」
予定にない探索者だった。
救難要請は出ていない。少なくとも、私たちには共有されていなかった。
ブラッドベアが近くにいるせいで動けなくなったのかもしれない。
森岡さんがすぐに端末を取る。
「通信入れる」
『こちら森岡パーティ。第十九層北側採掘跡で探索者二名を確認。一名負傷の可能性あり。大型魔物一体が間にいる』
返事を待っている間にも、状況は動いた。
ブラッドベアがこちらではなく、石柱の陰にいる二人へ顔を向けたのだ。
女性探索者が何か叫んでいる。
距離があって言葉までは聞き取れない。
「まずい」
榊原さんが言う。
森岡さんもすぐに判断した。
「神代、行けるか」
以前の私なら、たぶん迷わず「倒します」と答えたと思う。
でも今は、先に二人の位置と逃げ道を確認した。
負傷している男性は自力で動けそうにない。女性一人で支えて逃げるのも難しい。ブラッドベアをここで倒そうとすれば、その間も二人はすぐ近くに取り残されたままになる。
「倒すより、二人から引き離します」
森岡さんが一瞬こちらを見る。
「できる?」
「はい。森岡さんが一度だけ注意を引いてください。その間に私が反対側へ誘導します。榊原さんと橘さんは二人のところへ」
榊原さんが頷く。
「いける」
「橘さんは負傷者をお願いします」
「分かった」
森岡さんが少し笑った。
「本当に変わったな」
「今それ言います?」
「あとで言う」
盾を構える。
私も位置を変えた。
ブラッドベアが負傷者へ近づく前に、森岡さんが盾を強く叩いた。大きな金属音が採掘跡に響き、魔物がこちらを向く。
「来るぞ!」
巨体が一気に加速する。
森岡さんは正面から受け止めず、突進が届く直前で横へずれた。魔物の進路が外れたところへ、私は側面から踏み込み、肩口へ浅く剣を入れる。
致命傷を狙った一撃ではない。
こちらへ注意を向けさせるには十分だった。
ブラッドベアが唸り声を上げ、私へ向き直る。
大きな前脚が振るわれる。
剣で軌道をそらしながら一歩下がると、魔物も距離を詰めてきた。
そのまま、負傷者たちから離れる方向へ動く。
一度に距離を取りすぎれば、ブラッドベアが追うのをやめて戻るかもしれない。近づかれすぎれば、こちらが攻撃を受ける。
相手の動きを見ながら、少しずつ採掘跡の奥へ誘導する。
「神代!」
森岡さんの声が響いた。
横目で見ると、榊原さんがすでに二人のところへ到着していた。橘さんも男性探索者の状態を確認している。
「確保した!」
それを聞いて、私は進む方向を変えた。
採掘跡の奥には、横へ続く広い通路がある。
そこまでブラッドベアを引きつける。
魔物が勢いよく突っ込んできたところで身体をかわし、横から肩を押すように剣の腹を当てた。突進の勢いも重なり、ブラッドベアの身体がそのまま通路側へ流れる。
距離ができた。
私は追わない。
ブラッドベアは通路の途中で振り返り、こちらを睨んでいる。
それでも負傷者たちとの間には十分な距離があった。
「神代、戻れ!」
森岡さんの声を聞き、私はすぐにその場を離れた。
ブラッドベアを倒してはいないが、それでよかった。助けるべき二人から十分に引き離せた以上、それ以上戦う理由はない。
石柱の陰へ戻ると、橘さんが男性探索者の足首を固定していた。
「骨折かもしれない。歩かせないほうがいい」
女性探索者には目立った怪我はない。
「ありがとうございます。本当に、もう駄目かと……」
何度も頭を下げている。
私は剣を収めた。
森岡さんが通信で状況を説明し、救難班の手配を頼んでいる。
その声を聞きながら、私は二人を見た。
以前の私なら、ブラッドベアを倒してから助けても十分間に合うと考えたかもしれない。
実際、倒すこと自体はできたと思う。
でも、その間に負傷者の状態が悪くなる可能性はある。別の魔物が来るかもしれないし、不安になった二人が無理に動こうとするかもしれない。
それなら、先に二人を安全な状態へ移したほうがいい。
「攻略より先に、帰す人を見てください」
救難の訓練で久世さんに言われた言葉を思い出した。
あの時は、小日向さんが怪我人役だった。
もちろん本当に置いていったわけではない。
それでも今なら、あの訓練で久世さんが伝えたかったことが少し分かる。
「神代」
森岡さんに呼ばれた。
「はい?」
「救難班が来るまでここで待つ。今日の討伐は中止だ」
「はい」
私は迷わず頷いた。
森岡さんが少し驚いたような顔をする。
「何です?」
「いや。前なら一回くらい『あと一体だけ確認します』って言ったかなと思って」
「言いません」
「今はな」
橘さんが笑っている。
少し不満ではあったが、否定しきれなかった。
以前なら、救難班が来るまでの間に周囲の確認くらいはできると考えたかもしれない。
今はそう思わない。
負傷者がいるなら、救難班が来るまでここにいる。それでいい。
救難班へ二人を引き渡し、私たちも地上へ戻った頃には夕方になっていた。
予定していた大型魔物の討伐は、一体を残して終了した。依頼としては途中だが、残った魔物については後日、別の班が対応することになる。
地上施設で簡単な報告を終えると、自動販売機の前にいた森岡さんが飲み物を買いながら私を呼んだ。
「神代」
「はい?」
「やっぱり変わったな」
またそれだ。
「そんなにですか?」
「前より周りを見るようになった」
「前も見ていました」
「そういう意味じゃない」
森岡さんが買った缶を一本こちらへ投げる。
受け取ると、温かいお茶だった。
「魔物より先に、人を見るようになった」
私は少し黙った。
橘さんも隣で頷く。
「私もそう思う」
「悪い意味ですか?」
「まさか」
橘さんは笑った。
「ただ、救難所で何やってるのか、ちょっと気になってきた」
「普通に救難です」
「それは知ってる」
「じゃあ何が?」
「神代さんがそこまで変わるくらい、何があるのかなって」
私は答えようとして、少し考えた。
特別な設備があるわけではない。
有名な探索者が集まっているわけでもない。
相馬さんは厳しい。
小日向さんはよく話す。
久世さんは戦えない。
救難がなければ、かなり暇な日もある。
それでも最近、私はそこへ行くことが増えている。
「神代さん?」
橘さんに呼ばれる。
「すみません。考えてました」
「答え出た?」
「まだです」
正直に言うと、橘さんが笑った。
「じゃあ今度聞かせて」
「何をです?」
「どうしてそんなに救難所へ行くのか」
私は手の中の温かい缶を見る。
答えは、すぐには出なかった。
ただ、明日は救難所へ行くつもりだった。
救難の予定があるわけではない。
久世さんと約束しているわけでもない。
それでも行こうと思っている。
その理由を、私はまだ言葉にしたことがなかった。




