第40話 四人で帰る
第八層へ上がってからは、進む速度が少し上がった。
支援班が加わったことで前後の人数に余裕ができ、俺たち四人の状態も細かく見てもらえる。右腕を固定された俺は、もう剣すら持っていなかった。
探索者としては落ち着かない。
でも、不思議と焦りはなかった。
「藤堂さん、痛みは?」
隣を歩く救難員に聞かれる。
「変わってません」
「痺れは?」
「ないです」
「分かりました。何か変わったらすぐ言ってください」
何度目かの確認だった。
以前の俺なら、こんなに何度も聞かれたら「大丈夫ですって」と笑っていたかもしれない。
今は素直に答える。
俺の状態が変われば、帰る道まで変わるかもしれない。
少なくとも、そういうことが実際に一度起きた。
前を歩く久世さんは、分岐へ差しかかるたびに足元を確認していた。
地図を見ることもある。
救難員と話すこともある。
でも最後に見るのは、やっぱり俺たちには見えない《帰り道》だった。
「次は右です」
久世さんが言う。
救難員が地図を確認する。
「右なら第七層の中央通路へ出ます。問題ありません」
「お願いします」
隊列が右へ曲がる。
もう、そのやり取りを不思議だとは思わなくなっていた。
第七層へ入った頃には、俺たちにも地上が近づいている感覚があった。
人の気配が増えている。
遠くで別の探索者たちの声も聞こえた。
通路の照明も明るい。
通信は完全に戻り、端末には未読の通知がいくつも溜まっていた。
家族や知人からだろう。
確認したい気持ちはあったが、今は開かなかった。
まず地上へ出る。
連絡するのはそのあとだ。
「亮介」
航が隣へ並ぶ。
「何?」
「ラーメン屋、まだ開いてるかな」
佳奈が後ろからすぐに反応した。
「まだそれ言うの?」
「もう地上近いだろ」
「だからって、帰ってすぐラーメン食べに行く気?」
「腹減ってる」
「病院か救護室が先でしょ」
「俺、肩ちょっとぶつけただけだぞ」
「盾なくすくらいの戦闘してるの」
二人のやり取りを聞いて、美月が笑った。
その声を聞いた瞬間、胸の奥が少し熱くなった。
何でもない会話だった。
いつもなら聞き流すようなものだ。
でも数時間前まで、俺たちは地図にない保守室で救難を待っていた。
あの時は、四人で地上へ戻れるのか本当に分からなかった。
今は航がラーメンの話をして、佳奈が呆れて、美月が笑っている。
それだけで十分だった。
「藤堂さん」
前から久世さんが呼んだ。
「はい?」
「どうしました?」
「え?」
「笑ってたので」
自分でも気づいていなかった。
「いや、何でもないです」
久世さんは少し首を傾げたものの、それ以上は聞かなかった。
そのまま前へ戻る。
俺はその背中を見ながら、最初に会った時のことを思い出した。
本当に普通の人だと思った。
S級探索者の神代美波が隣にいるから、余計にそう見えた。
戦えない。
怖いとも言う。
自分の能力についても、分からないことは分からないと普通に言う。
俺たちより強いわけでもない。
それなのに、あの保守室で「帰れます」と言われた時、俺は信じたくなった。
そして今、本当に地上へ近づいている。
第六層を抜ける頃には、途中から加わった支援班の一人が俺たちの帰還予定を地上へ伝えていた。
「あと一時間以内には出られる見込みです」
通信越しに返事が来る。
『了解。医療班は入口で待機させる。緊急連絡先にも生存確認済みと伝えてある』
美月が反応した。
「家族にも?」
救難員が頷く。
「皆さんの救難要請を受理したあと、登録されていた緊急連絡先へ連絡しています。四名とも生存確認済みで、現在帰還中ということも伝わっています」
美月が目を閉じ、長く息を吐いた。
「よかった……」
佳奈も自分の端末を見る。
「私もめちゃくちゃ通知来てる」
「俺も」
航が画面を見て顔をしかめた。
「母親から十二件」
「終わったね」
佳奈が言う。
「何が?」
「帰ってから」
「助かったのに?」
「助かったから怒られるんでしょ」
俺も端末を見る。
通知は来ている。
たぶん、俺も似たようなものだ。
不思議だった。
怒られることさえ、今は嫌じゃない。
帰らなければ、怒られることもできない。
「全員、連絡は地上へ出てからにしてください」
救難員が言う。
「歩きながら画面見ないように」
「はい」
四人そろって返事をした。
完全に子供みたいだった。
第五層。
第四層。
一つ上がるたびに、時間の進み方が元に戻っていくような感覚があった。
もう魔物との戦闘はなかった。
久世さんの《帰り道》が危険を避けたのか、それとも偶然なのかは分からない。
本人に聞いても、たぶん「分かりません」と答えるだろう。
それでもいい。
俺たちにはもう、理由を全部知る必要はなかった。
第三層へ入ったところで、一度だけ久世さんが止まった。
「どうしました?」
神代さんが聞く。
久世さんは足元を確認している。
「少し変わりました」
俺たちも止まる。
救難員がすぐに地図を開いた。
「方向は?」
「この先を左です」
「左なら一般通路ではなく救難用の搬送路ですね」
「そっちです」
救難員が俺たちを見る。
「藤堂さんと武田さんの負傷を考えると、搬送路のほうが人も少なくて歩きやすいです。そのまま行きましょう」
佳奈が俺の横で小さく笑った。
「また変わった」
「みたいだな」
「もう驚かないね」
「うん」
最初なら、どうして変わったのかを何度も聞いていたと思う。
今は違う。
久世さんが左と言えば、救難員が通れるかを確認する。
問題なければ進む。
それでいい。
第二層へ上がったところで、航が突然足を止めた。
「待って」
全員が振り返る。
航は少し青い顔をしていた。
「どうした?」
俺が聞く。
「なんか、ちょっと気持ち悪い」
救難員がすぐに近づく。
「めまいは?」
「少し」
「吐き気?」
「あります」
佳奈が心配そうに航を見る。
「さっきまで普通だったじゃん」
「俺もそう思ってた」
救難員は脈と顔色を確認する。
「疲労と軽い脱水でしょう。歩けますか?」
「歩けます」
航が答えた直後、久世さんがこちらを見る。
「無理しないでください」
「いや、本当に歩けます」
「歩けるかどうかじゃなくて」
救難員が続きを引き取った。
「安全に歩かせる必要がある。少し休みましょう」
俺たちは通路脇へ移動した。
航に水分を取らせる。
数分休んでも気分が完全には戻らず、支援班が持っていた簡易搬送椅子を使うことになった。
「いや、さすがに恥ずかしいって」
航が抵抗する。
佳奈が冷たい目で見る。
「大盾捨てて走った人が今さら何言ってるの」
「それは格好いいだろ」
「今は格好つけるところじゃない」
美月まで頷いている。
航は諦めた。
搬送椅子へ座らされる。
「俺、ラーメンくらい自分で歩いて食べに行けるからな」
「地上に出てから言って」
まだ言っている。
俺たちが休憩を終える頃、久世さんが足元を確認した。
「道は大丈夫です」
「航が座ってても?」
佳奈が聞く。
「はい。このまま全員で帰れます」
航が搬送椅子から言った。
「その『全員』に俺も入ってる?」
「もちろん」
「ならいいや」
救難員に押されながら、航が少し笑った。
その姿を見て、俺も安心した。
遭難する前なら、こんな状態の航をからかっていたと思う。
今は、とにかく一緒に地上へ出られればいい。
第一層へ上がった。
地上へ続く案内表示を見た瞬間、美月が立ち止まりそうになった。
「見えた……」
その声は小さかった。
でも、全員に聞こえた。
佳奈も前を見る。
「ほんとに出口だ」
俺も見ていた。
何度も通ったことのある通路。
何度も見たゲート。
探索を終えれば、いつも普通に通っていた場所だ。
今日は、その景色が全く違って見えた。
「もう帰ったって言っていい?」
航が搬送椅子から聞く。
俺は答えようとして、少し考えた。
「まだじゃない?」
「亮介まで久世さんみたいになってきたな」
前を歩いていた久世さんが振り返る。
「俺もまだだと思います」
「ほら」
俺が言う。
航が肩を落とす。
「面倒くさい二人になったな」
神代さんが笑った。
「あと少しです」
隊列が進む。
入口のゲートが近づいてくる。
地上側には何人もの人が見えた。
医療スタッフ。
救難所の職員。
俺たちを待っている人たち。
足が少し速くなりそうになる。
「藤堂さん、ゆっくりで大丈夫です」
救難員に言われる。
「すみません」
焦る必要はない。
もう逃げる魔物もいない。
迷う分岐もない。
俺たちは一人ずつゲートを抜けた。
佳奈。
美月。
航は搬送椅子のまま運ばれる。
俺も続く。
振り返ると、救難員たちと神代さん、久世さんも地上へ出てきた。
四人いる。
ちゃんと全員いる。
そのことを確認した瞬間、身体から一気に力が抜けた。
「帰った……」
自分の声だった。
俺たちはそのまま医療スタッフに囲まれた。
俺の右腕は改めて処置され、航も肩と脱水症状を診てもらう。
佳奈と美月も問題がないか一通り確認された。
結果として、大きな怪我をした人間はいなかった。
それを聞いた時、ようやく本当に終わった気がした。
「藤堂さん」
呼ばれて顔を上げる。
久世さんが少し離れたところにいた。
もう救難員へ何か報告をしている。
俺は立ち上がった。
「久世さん」
「はい?」
「ありがとうございました」
久世さんが少し困ったような顔をする。
「どういたしまして」
意外だった。
もっと「仕事ですから」とか言うと思っていた。
「それだけですか?」
思わず聞いてしまう。
「何がです?」
「いや……」
自分でも何を期待していたのか分からない。
久世さんは少し考えてから、俺たち四人を見る。
「全員帰れてよかったです」
結局、それだけだった。
でも、その言葉が一番この人らしい気がした。
佳奈と美月もこちらへ来る。
航は医療スタッフに座っていろと言われたらしく、少し離れたところから手だけ上げた。
「久世さん!」
「はい?」
「今度、普通にダンジョンで会ったら声かけてもいいですか?」
久世さんが笑った。
「もちろん」
「ラーメンも?」
「何で俺が?」
航が不満そうな顔をする。
俺たちは笑った。
神代さんも少し離れたところで笑っている。
「じゃあ」
俺は久世さんを見る。
「また会ったら、今度は救難じゃないといいですね」
「それが一番です」
すぐに返ってきた。
その通りだと思う。
帰宅するための連絡を入れる前に、俺はもう一度救難所のほうを見た。
久世さんたちは、すでに次の報告に入っている。
俺たちを助けたからといって、大げさに喜んでいるわけでもない。
写真を撮るでもない。
俺たちに感謝を求めることもない。
たぶん、この人たちにとっては仕事なのだ。
帰れなくなった人を見つけて、地上まで連れて帰る。
それを繰り返している。
俺は今日、何度も戦った。
グレイウルフを倒した。
甲殻ムカデから逃げた。
大盾を失った航と、魔力を使った佳奈と、印を残してくれた美月と一緒に生き延びた。
それでも最後に俺たちを地上へ連れてきたのは、剣が強い人ではなかった。
自分より弱いF級探索者だった。
戦えない。
怖いとも言う。
道以外のことは分からないことだらけ。
それでも、地図にも載っていない保守室まで、あの人は俺たちを迎えに来た。
そして「帰れます」と言った。
俺は端末を取り出した。通知が大量に溜まっている。これから連絡して、謝って、たぶんかなり怒られる。
その前に、航たちを見る。
佳奈が誰かと電話している。
美月は泣きながら笑っていた。
航は医療スタッフに何か文句を言いながら、それでも大人しく座っている。
四人ともいる。
それでよかった。
俺たちは今日、強い魔物を倒したから助かったんじゃない。
最後まで四人で帰れたから、助かったんだ。
その違いを、俺はたぶん忘れない。




