第39話 帰る人を守る
右側の坂へ進路を変えてから、三十分ほどが経った。
俺の右腕は、さっきより楽になっている。歩く距離そのものは増えたが、階段を上るより負担は明らかに少なかった。
先頭を歩く救難員が地図を確認する。
「もうすぐ第九層の連絡区画です。そこまで出れば、上層へ戻るルートがかなり増えます」
その言葉に、佳奈が安心したように息を吐いた。
「やっと一層上がれる……」
「まだ一層だぞ」
航が言う。
「分かってるけど、ずっと第十層にいたから」
その気持ちは俺にも分かる。
数字が一つ減るだけでも、地上へ近づいている実感があった。
俺たちは一度、自分たちで帰ろうとして道を見失った。地図にない区画へ入り、通信も帰還石も使えなくなり、保守室で救難を待った。
今は違う。
現在地が分かる。
救難班がいる。
そして、帰る方向が分かる人がいる。
それだけで、同じダンジョンとは思えないほど気持ちが違った。
「久世さん」
佳奈が前へ声をかける。
「はい?」
「このまま地上まで、この道なんですか?」
久世さんが足元を見る。
「今のところは」
「また変わることもある?」
「あります」
「私たちの状態が変わったら?」
「それもありますし、周りの状況が変わっても変わることがあります」
佳奈は少し考えた。
「ずっと見てないと駄目なんですね」
「そうですね。途中で一回見たら終わり、ではないです」
俺はその会話を聞きながら、少し意外に思った。
最初は、便利なナビみたいな能力を想像していた。
出口まで一本の線が表示され、それを追えば終わり。
実際はもっと面倒らしい。
人の状態が変われば道も変わる。
周囲の状況でも変わる。
しかも、何が理由で変わったのか久世さん自身にも分からないことがある。
それでも、この人は何度も足元を確認していた。
分岐だけではない。
少し長い通路へ入った時も、俺たちの誰かが遅れた時も、ふと視線を落としている。
「ずっと確認してるんですね」
俺が言うと、久世さんが振り返った。
「途中で変わることがあるので」
「疲れません?」
「慣れました」
さらっと答えた。
航が小声で俺に言う。
「俺だったら十回くらい見たら飽きる」
「お前は地図もすぐ人に持たせるだろ」
「見るの面倒なんだよ」
「だから俺が持ってるんだよ」
佳奈が後ろから言った。
「二人とも聞こえてるから」
俺たちが話している間にも、隊列はゆっくり進んでいた。
前方に明るい照明が見えてくる。
救難員が端末を確認した。
「第九層連絡区画です」
今度こそ、全員の表情が明るくなった。
第九層へ上がる連絡区画は広かった。
通常の探索者も使う場所らしく、壁の案内表示も新しい。通信状態もほぼ正常に戻り、端末には救難所からの未受信メッセージがいくつか届き始めた。
救難員が状況を報告する。
「救難班より。対象四名とともに第九層連絡区画へ到達。全員歩行継続可能です」
すぐに返事があった。
『了解。第八層側から支援班を一班下ろす。合流後、負傷者の状態を再確認してくれ』
「了解」
通信が切れる。
航が俺を見る。
「迎え、さらに来るって」
「ありがたいな」
「大げさじゃない?」
佳奈が航を睨む。
「大盾なくして肩打ってる人が言わないで」
「歩けるぞ」
「歩けるかどうかだけで決める話じゃないでしょ」
美月も航を見る。
「藤堂さんも右腕負傷してますし、水瀬さんも魔力をかなり使っています。支援が増えるなら、そのほうが安全です」
三対一になった。
航は諦めたように両手を上げる。
「分かったよ」
俺たちだけで潜っていた時なら、多少の怪我はそのまま歩いて帰ったと思う。
それが普通だった。
探索者は、自分で帰るところまで含めて探索だ。
でも今は救難されている。
安全側に判断する基準そのものが少し違うらしい。
救難員がこちらへ声をかける。
「ここで五分休憩します。水分を取ってください」
俺たちは壁際の休憩スペースへ移動した。
久世さんも座る。
神代さんは立ったまま周囲を確認していた。
「神代さんも休めばいいのに」
佳奈が言う。
神代さんがこちらを見る。
「休んでますよ」
「立ったまま?」
「今のところ疲れていないので」
航が小声で言う。
「S級って体力どうなってんだよ」
今回は久世さんも一緒になって頷いた。
「俺も思います」
神代さんが少し不満そうにする。
「久世さんまで」
「だって本当に疲れてないじゃないですか」
「久世さんは?」
「疲れてます」
即答だった。
俺たちは笑った。
最初に二人を見た時の違和感を思い出す。
有名なS級探索者と、普通に見えるF級探索者。
どうして一緒にいるのか分からなかった。
今も能力の差だけなら、とんでもなく大きいと思う。
でも救難の中では、それぞれやることが違う。
神代さんが危険を見つける。
救難員が通れるか判断する。
久世さんが帰る方向を示す。
誰か一人だけで全部やっているわけじゃない。
俺たちが甲殻ムカデに遭遇した時は、四人全員が戦うことで何とか切り抜けた。
救難班は違う。
必要な人が、必要なことだけをする。
その違いが少しずつ分かってきた。
休憩を終え、第八層へ向かって歩き始めて間もなく、美月が足を止めた。
「前、何か聞こえませんか?」
全員が静かになる。
俺にも聞こえた。
低い音。
何かが何度も壁へぶつかっているような響きだった。
神代さんが前へ出る。
「確認します」
救難員と二人で角の先を覗く。
しばらくして神代さんが戻ってきた。
「魔物が二体います」
「種類は?」
「アーマーボアです」
俺は嫌な顔をした。
第十層ほどではないが、この辺りでも見かける大型の猪型魔物だ。
正面から突進を受ければ、大盾があっても簡単には止められない。
航も小型盾を見る。
「今これで相手したくないな」
「相手しなくていい」
救難員がすぐに言った。
地図を広げる。
「本来ならこの先の階段が最短です。ただ、二体が通路内に居座っています」
久世さんは足元を見た。
「道はその先です」
やっぱり魔物がいても光は普通に向かうらしい。
「別ルートは?」
神代さんが聞く。
救難員が地図を見る。
「一つあります。ただし、少し戻って細い連絡路へ入る必要があります。二十分以上余計にかかります」
佳奈が即答した。
「そっちでいいです」
俺も同意するつもりだった。
でも神代さんが角の向こうをもう一度確認する。
「二体とも、この通路から動く気配がありません。私が追い払ったほうが早いと思います」
救難員が状況を聞く。
「倒す必要は?」
「ありません。反対側へ誘導できます」
久世さんも道を見る。
「アーマーボアがいなくなれば、このまま通れます」
判断は早かった。
救難員が俺たちに指示する。
「ここで待機してください。角には近づかないで」
神代さんと救難員一人が前へ行く。
俺たちは残された。
航が小型盾を握り直す。
「見るくらいなら駄目?」
「駄目に決まってるでしょ」
佳奈が即座に止める。
俺も少し見たかった。
S級探索者が大型魔物二体をどう動かすのか。
でも、ここで余計なことをする理由はない。
しばらくして、通路の向こうから大きな音がした。
アーマーボアの唸り声。
床を蹴る音。
激しい衝突音が一度だけ響く。
続いて、何かが走り去っていく。
数秒後。
もう一頭の鳴き声も遠ざかった。
「早っ」
航が呟いた。
少しして神代さんが戻ってきた。
怪我はない。
息もほとんど乱れていない。
「二体とも奥の横道へ移動しました」
「倒してないんですか?」
美月が聞く。
「はい。こちらへ戻ってくるまでには時間がかかると思います」
「どうやったんです?」
航が聞く。
神代さんは少し考えた。
「一体目を横から押して、もう一体がそちらを追うようにしました」
「押した?」
航が聞き返した。
「はい」
アーマーボアを押したらしい。
どういうことなのか理解したくない。
久世さんも俺たちと似た顔をしていた。
「神代さん、それ普通に言ってますけど」
「何です?」
「いや、いいです」
久世さんが諦めた。
俺は思わず笑った。
救難員が前方を確認し、安全を確かめてから進行を再開する。
「今のうちに通ります」
俺たちは足早にアーマーボアがいた場所を抜けた。
壁には新しい傷が残っている。
床にも大きな蹄の跡があった。
俺たちだけなら、どうしていただろう。
今の状態で二体と戦う。
それとも二十分以上かけて迂回する。
たぶん迂回したと思う。
それは間違いではない。
でも神代さんがいる救難班には、別の選択肢があった。
倒さず、危険だけを一時的にどかす。
俺たちはその間に通過する。
目的が違えば、戦い方まで変わるらしい。
アーマーボアのいる区画を抜け、第八層への階段が見えたところで支援班と合流した。
三人の救難員がこちらへ来る。
「対象四名、確認します」
また人数を数えられた。
何度目だろう。
それでも、不思議と嫌ではない。
むしろ毎回確認されるたびに、自分たちが四人ともここにいることを実感する。
俺と航はもう一度怪我を見てもらい、佳奈も体調を確認された。
「藤堂さん、腕を固定しましょう」
「そこまでしなくても歩けますよ」
「歩けるかどうかではなく、これ以上悪化させないためです」
言われて、素直に従う。
右腕を簡単な固定具で支えられる。
剣は救難員が預かることになった。
腰が急に軽くなった。
「探索者になってから、人に剣持ってもらうの初めてかも」
俺が言うと、航が笑った。
「俺なんか盾ないぞ」
「お前は自分で捨てたんだろ」
「生きるためにな」
その言葉に、救難員が頷いた。
「正しい判断です。装備は買い直せますから」
航は少し驚いた顔をした。
「結構高かったんですけどね」
「命よりは安いです」
「それ言われると何も返せないな」
俺も同じだった。
青晶石。
大盾。
剣。
装備。
今日失ったものがあったとしても、地上へ戻ればどうにかなる。
保守室で佳奈が言った言葉を思い出す。
目標は、四人で帰る。
それ以外はあとでいい。
「久世さん」
俺は前へ声をかけた。
「はい?」
「あと、どのくらいですか?」
久世さんは地図ではなく、足元を見た。
「時間は分かりません」
「ですよね」
もう、その答えにも慣れた。
「でも」
久世さんが少し先を指す。
「道はずっと上へ続いてます」
俺は階段を見る。
第八層へ。
そこからさらに上へ。
まだ地上は遠い。
それでも、もう不安は最初ほど大きくなかった。
俺たちは自分たちで帰る道を見失った。
でも今は、誰かがその道を見ている。
俺たちに見えなくても、それで十分だった。
階段を上る前に、俺は後ろを振り返った。
航。
佳奈。
美月。
三人ともいる。
俺を含めて四人。
誰も欠けていない。
「行こう」
航が言う。
「ああ」
俺たちは救難班の後ろについて、第八層へ続く階段を上り始めた。




