第38話 見えない道を信じる
既知区画へ戻れたことで、俺たちの空気は明らかに変わっていた。
壁の表示が地図と一致する。現在地も端末に出ている。通信も不安定ながらつながっている。
たったそれだけのことが、今はありがたかった。
「ここから地上まで、どのくらいですか?」
佳奈が救難員に聞く。
「通常ルートなら一時間半ほどです。ただ、今回は北側を回るので、もう少しかかるでしょう」
「二時間くらい?」
「その程度は見ておいてください」
佳奈は一瞬だけ嫌そうな顔をしたが、すぐに頷いた。
「分かりました」
俺も端末の地図を見る。
俺たちがいる旧搬送路からなら、本来は西へ向かって中央通路に出るのが一番早い。そこから上層へ戻ればいい。
でも久世さんの《帰り道》は北を示している。
地図だけを見れば、明らかに遠回りだった。
少し前までの俺なら、理由を知りたくなったと思う。
どうしてこっちなのか。
何を避けているのか。
どこが危険なのか。
ただ、久世さん自身にもそこまでは分からないらしい。
「久世さん」
航が前から声をかける。
「はい?」
「この道って、何か危険を避けてるんですか?」
やっぱり気になったらしい。
久世さんは足元を見たあと、首を横に振った。
「分かりません」
「魔物がいないとかでも?」
「それも分からないです」
「じゃあ、なんでこっちなんです?」
「皆さんを連れて帰る道が、こっちに出てるからです」
航が少し困った顔をした。
「それだけ?」
「それだけです」
後ろを歩く佳奈が小声で言う。
「すごいんだか雑なんだか分からない能力ね」
久世さんに聞こえたらしい。
「俺もそう思います」
佳奈が慌てる。
「すみません」
「大丈夫です。俺も最初から全部分かってるわけじゃないので」
神代さんが横から言う。
「でも、久世さんが『こっち』と言った時は、まずその方向を確認します」
「神代さんも理由は聞かないんですか?」
俺が聞いた。
「聞く時はあります。でも、答えが『分からない』のことも多いです」
神代さんは特に困っている様子もない。
「それでも今まで帰ってこられましたから」
今まで。
その一言の重みが、俺たちとは違う。
俺たちは今日初めて久世さんについて歩いている。
神代さんたちは、何度もこの見えない道を通ってきたのだろう。
「進みます」
先頭の救難員の声で、隊列がまた動き始めた。
北側の旧搬送路は、通常通路より静かだった。
人の往来もほとんどない。
ところどころ壁に古い傷があり、床には使われなくなった運搬用の溝が残っている。
それでも、地図に載っているだけで安心感が違った。
「さっきまでのところと比べたら、普通の道に見えるな」
航が言う。
「実際、普通の道でしょ」
佳奈が返す。
「じゃあもう帰れそうじゃん」
「それ何回目?」
「今回は本当に地図あるし」
俺も気持ちは分かった。
このまま何事もなく上層まで戻れるんじゃないか。
そんな考えが出てくる。
その時、美月が前方を見た。
「何かいます」
さっきまで少し緩んでいた空気が、一瞬で変わる。
救難員が手を上げ、全員を止めた。
「距離は?」
神代さんが聞く。
「三十メートルくらい。複数です」
俺も目を凝らす。
通路の先。
暗がりの中に、灰色の影がいくつか動いている。
胸の奥が嫌な感じに冷えた。
「グレイウルフ……」
航も気づいた。
俺たちを地図にない道へ追い込んだ群れと同じ魔物だ。
数はあの時ほど多くない。
見える範囲では五体。
それでも、俺の右腕と航の肩、佳奈の魔力を考えれば、できれば戦いたくない。
「こっちには気づいてますか?」
救難員が神代さんに聞く。
「まだです。風向きもこちらからではありません」
全員が声を落とす。
俺は反射的に剣へ手を伸ばしかけて、止めた。
救難員から戦闘には参加しないよう言われている。
それに、今の俺たちは助けてもらっている側だ。
「久世さん」
神代さんが聞く。
「道は?」
久世さんは足元を見る。
「このまま真っ直ぐです」
つまり、グレイウルフがいる方向。
航が小さく息を吐いた。
「やっぱり、安全な道ってわけじゃないんだな」
「はい」
久世さんも普通に答えた。
救難員が周囲を確認する。
左には使われていない資材庫。
右は壁。
逃げ道として使えそうな分岐は少し先までない。
「迂回しますか?」
俺が聞いた。
救難員はすぐには答えず、久世さんを見る。
「別方向に道は出ます?」
「今は出てません」
「なら、ここを抜ける必要がありますね」
神代さんが剣へ手をかける。
航が少し身構えた。
「やるんですか?」
「できれば戦いません」
神代さんが答える。
救難員の一人が荷物から小さな筒状の道具を取り出した。
「音を向こうへ飛ばします」
「そんなものあるんですか?」
佳奈が聞く。
「簡単な誘導用です。必ず効くわけではありませんけど」
救難員は通路脇の資材庫を確認し、その奥に別の開口部があることを確かめた。
そこから小さな発音器を投げ込む。
数秒後、俺たちから離れた場所で金属を叩くような音が鳴り始めた。
グレイウルフの群れが反応した。
一体が顔を上げる。
続いて二体。
しばらく周囲を警戒したあと、群れ全体が音の方向へ動き始めた。
「まだです」
救難員が俺たちを止める。
完全に見えなくなるまで待つ。
一分ほどして、神代さんが頷いた。
「離れました」
「通ります。声を出さず、止まらないでください」
隊列が動く。
俺たちはグレイウルフがいた場所を通過した。
床には新しい爪痕が残っている。
嫌でも、数時間前の光景を思い出した。
あの時の俺たちは、三体なら倒せると判断した。
実際に倒した。
その直後、大きな群れが来た。
逃げて、地図にない通路へ入った。
そこから全部が狂った。
「藤堂さん」
前を歩く久世さんが小声で呼んだ。
「はい?」
「大丈夫ですか?」
「何が?」
「顔がちょっと固かったので」
そんなところまで見ていたらしい。
「大丈夫です。こいつらに追われたの思い出しただけなので」
「ああ」
久世さんも爪痕を見る。
「嫌ですよね」
「怖くないんですか?」
「怖いですよ」
また即答だった。
「五体もいたら、俺一人なら逃げます」
「でも救難なら来るんですよね」
「来ますね」
変な話だと思う。
一人なら逃げる相手がいる場所に、他人を助けるためなら入ってくる。
「それ、矛盾してません?」
俺が聞くと、久世さんは少し考えた。
「そうですか?」
「怖いなら来なければいいのに」
言ってから、失礼だったかと思った。
でも久世さんは怒らなかった。
「来ないと帰れない人がいるので」
それだけだった。
俺はそれ以上何も言えなかった。
グレイウルフの群れを避けてから二十分ほど進んだ。
旧搬送路の先で、道は大きく二つに分かれていた。
右は緩やかな坂。
左は階段。
久世さんが足を止める。
「左です」
救難員が階段を確認する。
「上層へ近づく方向ですね」
俺たちも少し安心する。
ようやく上へ向かう。
ところが、数段上ったところで俺の右腕に痛みが走った。
壁際の手すりへ手をついた時だった。
傷そのものより、肩から腕にかけて鈍い痛みが広がる。
「っ……」
声を抑えたつもりだった。
久世さんが振り返る。
「藤堂さん?」
「大丈夫です」
言った直後、神代さんまでこちらを見る。
しまったと思った。
「本当に?」
久世さんが聞く。
さっきも同じやり取りをした。
「……ちょっと痛いです。でも歩けます」
「右腕?」
「はい」
救難員がすぐ近くへ来た。
「見せてください」
階段の途中で一度隊列を止める。
包帯を外すほどではないが、腕の動きを確認された。
「傷は開いてなさそうです。ただ、さっきまで何度も負荷をかけています。手すりは左手を使ってください」
「分かりました」
「痛みが増えたらすぐ言ってください」
「はい」
また全員を止めてしまった。
申し訳なさが先に立つ。
「すみません」
俺が言うと、航が後ろから口を挟んだ。
「今のはちゃんと言ったほうがいいだろ」
「お前に言われると腹立つな」
「なんでだよ」
少し笑いが起きる。
俺も気持ちを切り替えようとした。
その時、久世さんが足元を見たまま動かなくなった。
「どうしました?」
救難員が聞く。
久世さんは数秒待ってから、階段ではなく右側の坂を見た。
「道、変わりました」
俺は思わず聞き返した。
「今ので?」
「たぶん」
「俺の腕が痛くなったから?」
「それだけが理由かは分かりません。でも、今はこっちです」
さっきまで上へ続いていたはずの《帰り道》が、今は右の坂へ変わったらしい。
救難員が地図を確認する。
「こちらだと少し遠回りになりますが、階段はほとんどありません。緩い坂で第九層の連絡区画まで上がれます」
神代さんが俺を見る。
「藤堂さんには、こっちのほうが楽ですね」
確かにそうだった。
階段なら、何度も手すりを使う。
転びそうになれば反射的に右手を出すかもしれない。
坂ならその危険は減る。
「そこまで変わるんですか」
俺は久世さんを見る。
「みたいです」
本人が一番曖昧だった。
「自分の能力なのに?」
「俺も全部は分かってないので」
久世さんは右の坂を見る。
「でも今は、こっちなら全員で帰れます」
俺は足元を見る。
もちろん、俺には何も見えない。
それでもさっきまでより疑う気持ちは少なかった。
自分の腕が少し痛んだだけで、本当に道が変わったのかは分からない。
でも救難員が地図を確認した結果、実際に右側のほうが身体への負担は少ない。
偶然かもしれない。
それでもいいと思った。
「行きましょう」
俺が言うと、久世さんが少しだけ笑った。
「はい」
坂道は確かに歩きやすかった。
距離は長い。
その代わり傾斜は緩く、足元も整備されている。
俺は左手だけで時々壁へ触れながら進んだ。
右腕への負担はほとんどない。
「亮介」
後ろから航が呼ぶ。
「何?」
「さっき信じるしかないって言ってたけどさ」
「うん」
「今は?」
少し考える。
保守室を出た時は、本当に「信じるしかない」だった。
俺たちにはほかの手段がなかったから、久世さんについていった。
でも今は少し違う。
地図にない通路を抜けた。
既知区画へ戻った。
魔物がいる道でも、必要のない戦闘は避けた。
俺の腕の状態が悪くなれば、より負担の少ない道へ変わった。
少なくとも今まで、久世さんが「こっち」と言った先で帰れなくなってはいない。
「普通についていく」
俺は答えた。
「信じるとか考えなくても?」
「うん」
航が笑った。
「俺も」
俺たちの前では、久世さんが救難員と次の分岐を確認している。
その隣には神代さんがいる。
S級探索者が、F級探索者の示す方向を当たり前のように待っている。
最初に見た時は不思議だった。
今は、少しだけ分かる気がした。
俺たちはもう、そのことを疑わなくなり始めていた。




