第37話 F級の案内役
保守室を出ると、久しぶりに通路の空気が動いているのを感じた。
数時間しか籠もっていなかったはずなのに、狭い部屋の中で救難を待っていた時間が長すぎたせいか、外へ出ただけで少し緊張する。
俺たちは救難員から渡されたロープでつながり、隊列を組んでいた。
先頭には救難員。そのすぐ後ろに久世さんが入り、俺たち四人は中央にまとめられている。神代さんは何かあった時にすぐ動ける位置につき、ほかの救難員が後方を固めていた。
「ここを左です」
久世さんが言う。
先頭の救難員が足を止め、左側の通路を照らした。
俺たちが保守室へ来る時には使っていない道だ。
「かなり下っていますね」
「はい。光はこの先です」
久世さんには、あの《帰り道》と呼ばれるものが見えているらしい。
でも、俺には何も見えない。
古い保守通路が一本伸びているだけだ。
救難員はすぐには進まなかった。床を確認し、壁の状態を見て、端末にも何か記録している。
それを見て少し安心した。
久世さんが「こっち」と言ったからといって、全員が何も考えずについていくわけではないらしい。
「床は問題なし。先に確認します」
救難員が数メートル進み、戻ってくる。
「通行できます。ただ、途中から照明が切れています」
「分かりました」
久世さんが答える。
それだけで隊列が動き始めた。
航が俺のすぐ後ろから小声で言う。
「本当に行くんだな」
「聞こえるぞ」
「別に悪口じゃないって」
気持ちは分かる。
俺だって少し不安だった。
ここへ来るまで、地図にない道へ入ったせいで散々な目に遭った。その俺たちが、今度はまた地図に載っているかどうかも分からない通路へ進もうとしている。
違うのは、自分たちで決めていないことだけだ。
「藤堂さん」
前から久世さんの声がした。
「はい?」
「下りが続きます。腕、大丈夫ですか?」
「大丈夫です」
答えると、久世さんがこちらを見た。
「本当に?」
妙に普通の聞き方だった。
「……今のところは」
「痛くなったら言ってください」
「分かりました」
久世さんはそれ以上何も言わず、前へ戻った。
俺は包帯を巻かれた右腕を見る。
さっき保守室を出る時にも同じことを言われた。
怪我の具合で道が変わるかもしれない。
正直、まだ意味はよく分かっていない。
でも、久世さん自身が俺の傷を軽く見ていないことだけは分かった。
十分ほど進むと、魔導灯がなくなった。
救難員たちが携帯ライトを点ける。
俺たちも自分のライトを使おうとしたが、前を歩く救難員に止められた。
「予備は温存してください。こちらで照らします」
素直に従う。
暗闇の中を歩きながら、俺は前にいる久世さんを見ていた。
普通だった。
足が速いわけでもない。
身体つきも、航ほどがっしりしていない。
神代さんみたいに、歩いているだけで強いと分かるような雰囲気もない。
何度か足元の段差に気をつけながら進んでいる姿を見ると、本当にF級探索者なんだと思う。
「久世さん」
先頭の救難員が止まった。
「分岐です」
左右に通路が分かれている。
右は少し広く、左は人一人が通れる程度の狭い通路だった。
地図を確認していた救難員が言う。
「右なら既知区画へつながる可能性があります。左は記録にありません」
俺なら右を選ぶ。
少なくとも、今までの俺ならそうした。
久世さんは足元を見た。
「左です」
即答だった。
救難員が左側へライトを向ける。
「狭いですね」
「はい」
「全員通れますか?」
「道は出ています」
救難員は少し考えたあと、俺たちを見る。
「武田さんの体格なら通れそうです。装備だけ一部外したほうがいいですね」
航が自分の肩幅と通路を見比べる。
「俺基準なんですか?」
「今ここで一番幅取ってますから」
「大盾なくなっててよかったのか悪かったのか……」
「よくはないでしょ」
佳奈が言う。
少し笑いが起きる。
それから救難員が先に狭い通路へ入り、安全を確認した。
「通れます。一人ずつ行きます」
俺たちは順番に進んだ。
壁との間隔はかなり狭い。
装備が何度か擦れる。
俺の前を歩く佳奈が、途中で立ち止まった。
「待って。引っかかった」
背中の荷物が壁から出た金具に引っかかっている。
救難員がすぐに戻り、外してくれた。
「大丈夫です。焦らなくていいですよ」
「すみません」
「こういう道ですから」
隊列がまた動く。
俺たちだけだったら、この左側を選んだだろうか。
たぶん選ばない。
地図に載っている可能性が高い右へ行ったと思う。
その判断自体はおかしくない。
でも、今は誰も右へ行こうとは言わなかった。
久世さんが左だと言ったからだ。
狭い通路を抜けると、少し広い空間へ出た。
古い資材置き場らしく、壊れた木箱や金属製の棚が残っている。
その瞬間、神代さんが止まった。
「います」
全員の空気が変わる。
俺も反射的に剣へ手を伸ばした。
右腕に痛みが走る。
救難員がすぐこちらを制した。
「藤堂さんたちは中央へ。戦闘には参加しないでください」
「でも」
「今は救助対象です」
言葉が強かった。
俺は剣から手を離す。
自分でも、少し悔しかった。
ここまで俺たちは自分たちで戦ってきた。目の前に魔物がいるのに何もしないというのは、探索者として落ち着かない。
「神代さん」
久世さんが小声で呼ぶ。
「はい」
「どこです?」
「あの棚の向こう。一体です」
何がいるのか、俺の位置からは見えない。
神代さんが少し前へ出る。
救難員も武器を構えた。
久世さんは戦闘態勢を取らない。
むしろ俺たちの近くまで下がった。
それを見て一瞬だけ驚いた。
戦えないとは聞いていた。
でも、本当に前へ出ない。
「久世さんは?」
航も気づいたらしい。
本人に聞こえないよう小声で聞いてくる。
「戦わないんじゃなくて、戦えないって本当なんだな」
「みたいだな」
その時、棚の向こうから魔物が飛び出した。
大きなトカゲ型だった。
岩のような鱗。
体長は二メートル以上。
「ロックリザード!」
美月が言う。
神代さんが剣を抜いた。
次の瞬間には、もう魔物との距離がなくなっていた。
ロックリザードが口を開く。
神代さんは真正面から受けない。
身体を半歩ずらし、噛みつきを避ける。そのまま剣を横へ振った。
金属同士がぶつかったような音がした。
硬い鱗に刃が当たる。
それでもロックリザードの身体が大きく揺れた。
「すご……」
佳奈が思わず声を漏らす。
俺も同じだった。
一撃で倒したわけではない。
でも、俺たちが四人で相手をする時とは動きが違う。
ロックリザードが尻尾を振る。
神代さんはそれを避け、無理に追わなかった。
魔物がこちらから離れようとする。
「逃がすんですか?」
俺が思わず聞いた。
久世さんが答えた。
「逃げるなら、そのほうがいいです」
「でも後ろから来るかもしれませんよ」
「その時は対応します」
神代さんも追わない。
救難員たちも同じだ。
ロックリザードは一度こちらを振り返ったあと、資材置き場の奥へ逃げていった。
誰も追いかけなかった。
「進めます」
神代さんが剣を収める。
久世さんが足元を確認する。
「このままです」
それだけで再び歩き始める。
俺は少し納得できなくて、久世さんへ聞いた。
「あの、倒さなくていいんですか?」
久世さんが振り返る。
「倒す必要あります?」
逆に聞かれた。
「危険じゃないですか」
「今は離れてますよね」
「そうですけど……」
「俺たちの仕事は、皆さんを地上まで連れて帰ることなので」
言われて、何も返せなかった。
俺たちなら倒したと思う。
倒せる相手なら、あとから襲われないように処理する。
素材だって取れる。
経験にもなる。
探索者としては、それがおかしいとは思わない。
でも救難班にとっては、魔物を倒すことそのものに価値はないらしい。
先へ進めるなら、それでいい。
「藤堂さん」
久世さんが俺の腕を見る。
「さっき剣を持とうとしてましたよね」
見られていた。
「反射で」
「今日はもう任せてください」
特に格好つけた言い方でもなかった。
「戦わなくていいので」
自分よりずっと弱そうなF級探索者に言われているのに、不思議と腹は立たなかった。
実際に戦うのは神代さんたちだからかもしれない。
でも、それだけでもない気がした。
資材置き場を抜け、さらに十五分ほど進んだ。
《帰り道》は地図にない通路ばかりを選んでいるらしい。
何度も救難員が確認し、そのたびに久世さんが方向を伝える。
右。
階段を上る。
次は左。
狭い通路。
その先を直進。
迷いがない。
でも久世さん自身は、何度か地面の凹凸につまずきそうになっていた。
三回目にそれを見た時、航が小声で言った。
「本当にこの人が案内役なんだよな?」
「たぶん」
「方向だけ特化してんのかな」
「本人に聞くなよ」
「聞かねえよ」
少し前を歩いていた久世さんが振り返った。
「聞こえてますよ」
航が固まった。
「すみません」
久世さんは怒らなかった。
「俺もそう思います」
「自分で言うんですか?」
「戦闘も苦手ですし、足元もそんなに強くないので」
あっさり認める。
「それでも救難やってるんですか?」
俺が聞いた。
「やってますね」
「怖くないんですか?」
久世さんは少し考える。
「怖いですよ」
即答だった。
「普通に怖いです」
佳奈が驚いたように言う。
「言っちゃうんですね」
「怖くないって言っても強くならないので」
神代さんが前から口を挟んだ。
「久世さん、本当に戦えませんから」
「神代さんまで言うんですか」
「事実ですよね?」
「事実ですけど」
救難員の一人が笑っている。
俺たちもつられて笑った。
妙な人だと思う。
強くない。
怖いとも言う。
さっきのロックリザードだって、たぶん一人なら戦えない。
なのに、帰る方向だけは誰より迷わない。
「藤堂さん」
「はい?」
「俺、皆さんより弱いですよ」
急に何を言い出すんだ。
「たぶん四人の誰と戦っても負けます」
「いや、そこまで言わなくても」
「でも、今は俺についてきてもらったほうがいいです」
久世さんは前を向く。
「帰る時だけは」
その言葉だけ、少し違って聞こえた。
自慢しているわけではない。
自信満々という感じでもない。
ただ、自分ができることを知っている人の言い方だった。
さらに先へ進むと、前方が突然明るくなった。
人工の照明。
今まで見ていた古い魔導灯とは違う。
救難員が先へ出る。
「待ってください」
端末を確認する。
数秒後、声が少し明るくなった。
「既知区画です」
俺たちは顔を上げた。
「本当ですか?」
佳奈が聞く。
「はい。第十層東側、旧搬送路。地図にあります」
救難員が画面をこちらへ向ける。
現在地表示も復活していた。
青い点が、ちゃんと通路の上にある。
通信表示も一本。
二本。
戻ってくる。
航が笑った。
「地図に戻った」
その言い方が妙におかしくて、佳奈も笑った。
俺は端末を見る。
本当に、自分たちがどこにいるのか分かる。
それだけでこんなに安心するとは思わなかった。
「通信入れます」
救難員が救難所へ連絡する。
「救難班より。対象四名と合流済み。現在、第十層東側旧搬送路へ復帰。全員歩行可能です」
ノイズはあるが、返事が聞こえた。
『了解。帰還ルートは?』
救難員が久世さんを見る。
久世さんは足元を確認していた。
「通常ルートとは少し違います。ここから北側へ」
救難員が地図を見る。
「北側だと遠回りですが、通行できます」
「そっちです」
「了解」
通信へ戻る。
「久世さんのルートで北側を回ります」
『了解。現場判断を優先。そのまま帰還を』
通信が切れる。
俺は少し不思議だった。
地図に戻った。
通常ルートも分かる。
それでも救難員たちは、久世さんの示す道を選ぶ。
「通常ルートじゃないんですか?」
俺が聞く。
救難員が答えた。
「今の皆さんの状態まで含めて、久世さんの道がそちらを示しているなら、そのほうがいいでしょう」
「俺たちの状態?」
「藤堂さんの腕や武田さんの肩、水瀬さんの魔力消耗もあります」
俺は久世さんを見る。
「そこまで分かるんですか?」
「分かりません」
また即答だった。
「え?」
「誰の怪我がどう影響してるのかまでは分からないです。ただ、皆さんを連れて帰ろうとすると道が出ます」
「それだけ?」
「はい」
思ったより曖昧な能力だった。
もっと便利なものを想像していた。
危険な場所が分かるとか、魔物の位置が見えるとか、最短ルートが表示されるとか。
そういうものではないらしい。
それでも俺たちは、その曖昧な光のおかげで地図に戻ってきた。
航が俺の肩を軽く叩く。
「亮介」
「何?」
「信じてよかったな」
俺は少しだけ笑った。
「まだ地上じゃない」
すると前を歩いていた久世さんが振り返る。
「それ、俺がよく言うやつです」
思わず全員が笑った。
俺も今度はちゃんと笑えた。
まだ地上じゃない。
でも、数時間ぶりに自分たちがどこにいるのか分かる。
通信もつながる。
そして何より、今は帰る方向を知っている人がいる。
それだけで、さっきまでのダンジョンとは別の場所にいるように感じた。




