第35話 迎えを待つ
救難要請を送ってから、時間の進み方がおかしくなった。
時計を見れば、まだ十数分しか経っていない。それなのに、保守室へ入ってから何時間も閉じ込められているような気がする。
さっき扉の前を通り過ぎた何かは、その後戻ってきていない。
部屋の中央には携帯ライトを一つだけ置き、残りは予備として消してある。薄暗い室内で、俺たちはそれぞれ壁や古い机に背中を預けていた。
誰も寝てはいない。
眠れるはずもなかった。
「藤堂さん」
美月が静かに呼ぶ。
「通信、どうですか?」
俺は机の上の端末を確認した。
「圏外のまま」
救難要請と追加情報は届いた。それ以降は、一度も通信が戻っていない。
地上から最後に受信したのは、
『追加情報確認。移動せず待機してください』
という短いメッセージだ。
だから俺たちは動いていない。
救難班が来るまで、この保守室で待つ。
やることは決まっているのに、何もしないでいる時間は思っていた以上につらかった。
「救難班、もう出てるかな」
航が言った。
「たぶん」
「また『たぶん』だな」
「見てないんだから仕方ないだろ」
「まあ、それはそうだけど」
航は苦笑すると、小型盾を膝の上に置いた。
普段使っている大盾と比べると、ひどく頼りなく見える。
佳奈が時計を見る。
「救難要請が届いたのが十六時過ぎだから、準備して入るまでにも時間かかるよね」
「かかると思う」
「それで、私たちを探すところからか」
「うん」
分かっていたことなのに、口に出すと現実味が増した。
俺たちは現在地を説明できていない。
分かっているのは、第十層東側から地図にない通路へ入ったこと。E10-M41以降の表示があったこと。甲殻ムカデから逃げるために保守扉を抜け、そこから八分ほど移動して古い保守室へ入ったこと。
壁には美月が印を残している。
でも、最初の地図にない通路そのものがどこにあるのか、地上側が把握できるとは限らない。
「見つけられるかな」
佳奈が呟いた。
誰もすぐには答えなかった。
俺が「大丈夫」と言えばいいのかもしれない。
パーティのまとめ役としては、そのほうが正しいのかもしれない。
でも今の俺には、根拠のない大丈夫を言う気になれなかった。
「見つけてもらうために、できることはやった」
佳奈が俺を見る。
「追加情報も送ったし、途中に印も残した。予定時刻を過ぎても戻らなければ、救難要請とは別に帰還確認もされる。だから今は、見つけてもらった時に四人とも動ける状態でいることを考えよう」
少し考えてから、佳奈が頷いた。
「そっちのほうが亮介らしい」
「何が?」
「変に『絶対大丈夫』って言わないところ」
「言ってほしかった?」
「今はいい」
航が横から口を挟む。
「俺は言ってほしいぞ。『絶対ラーメン食える』って」
「その話まだ続いてるの?」
佳奈が呆れた。
「帰ったら絶対食うからな」
「焼肉じゃなかった?」
「両方」
「元気だね」
「元気なくしたら腹減らなくなるだろ」
理屈はよく分からない。
でも、航がいつもの調子で話してくれるのはありがたかった。
笑えるうちは、まだ大丈夫だと思える。
十六時四十八分。
俺たちは一度、全員の状態を確認した。
俺の右腕は出血も止まり、痛みも強くなっていない。剣を全力で振るのは避けたいが、普通に動く分には問題ない。
航は壁へぶつけた肩に軽い打撲があるものの、腕は上がる。大盾を失ったことのほうが大きな問題だった。
佳奈は魔力をかなり使っている。残量を本人の感覚で聞くと、普段の半分より少し上くらいらしい。
美月は無傷で、矢も十分残っていた。
「水は?」
俺が聞く。
「私は半分くらい」
佳奈がボトルを持ち上げる。
航、美月もほぼ同じだった。
俺の分を合わせれば、一晩程度なら十分持つ。
「食料も問題なし。ライトはさっき確認した通り」
美月がメモを取る。
こうやって一つずつ確認していると、少し気持ちが落ち着いた。
分からないことばかりでも、分かることはある。
水がある。
食べ物がある。
四人とも動ける。
救難要請は届いた。
それだけでも、状況は最悪ではない。
「信号弾は?」
航が聞く。
俺は荷物から取り出した。
「四本」
「室内じゃ使えないよな」
「さすがに無理」
この狭い部屋で撃ったら、助けを呼ぶ前に自分たちが危ない。
ただ、救難班らしき音や声が近くまで来た場合には、通路へ出て使えるかもしれない。
「音で知らせる方法も考えましょう」
美月が言った。
「扉とか壁を叩く?」
「はい。ただ、魔物も寄ってくる可能性があります」
「じゃあ、むやみにはやらないほうがいいな」
救難班が近くにいると判断できた時だけ使う。
それも決めておく。
何か起きてから相談するより、今のうちに決められることは決めたほうがいい。
「交代で休もうか」
俺が言うと、佳奈が眉を上げた。
「寝るの?」
「寝られるなら。少なくとも目を閉じて休むくらいはしたほうがいい」
「見張りは?」
「二人ずつ。一時間交代」
美月が首を横に振った。
「一人で十分だと思います」
「でも」
「この部屋は入口が一つだけです。見張り一人、残り三人が休んだほうが体力を残せます」
確かにそのほうが効率はいい。
「じゃあ最初は俺がやる」
「右腕怪我してる人が最初に休んでください」
即座に言われた。
「浅いって」
「何度開いたと思ってるんですか」
言い返せない。
航が手を上げる。
「じゃあ俺からやる。どうせ寝れないし」
「一時間したら起こして」
「了解」
簡易毛布を出す。
床にそのまま横になると身体が冷えるので、荷物を敷いて少しでも石床から離れる。
佳奈が横になりながら天井を見る。
「ダンジョンで寝るの初めて」
「俺も」
「キャンプだと思えば?」
航が言う。
「こんなキャンプ絶対嫌」
「同感」
俺も壁際に横になる。
携帯ライトの弱い光が天井を照らしていた。
目を閉じる。
すぐ近くに航がいる。
扉も閉まっている。
救難要請も届いている。
それでも、頭の中ではさっきから同じことばかり考えてしまう。
どこで間違えた。
グレイウルフを避けて保守通路へ入ったところか。
地図にない分岐を見つけた時か。
通信が弱くなった時点で連絡しなかったことか。
「亮介」
航の声がした。
俺は目を開ける。
「何?」
「考えてるだろ」
「何を」
「俺たちがどこで間違えたか」
こいつ、こういうところだけ妙に鋭い。
「ちょっとな」
「俺も考えた」
航は扉を見たまま言う。
「でも、帰ってからでよくない?」
「反省するなって?」
「今じゃなくていいって話。今考えても出口出てこないだろ」
正論だった。
「珍しくまともなこと言うな」
「失礼だな」
「褒めてる」
「絶対違うだろ」
小さく笑う。
それだけで少し頭が軽くなった。
今は帰ることだけ考えればいい。
反省会は地上でできる。
そう思って、もう一度目を閉じた。
どれくらい眠ったのか分からない。
肩を軽く叩かれて目を開けると、美月が隣にしゃがんでいた。
「藤堂さん」
「……何時?」
「十七時十二分です」
俺は身体を起こした。
思ったより眠っていたらしい。
「航は?」
「交代しました。今、佳奈さんと休んでます」
部屋を見る。
航は壁際で横になっている。佳奈も目を閉じていた。
「何かあった?」
「一度だけ外で音がしました。でも遠かったです」
「魔物?」
「分かりません。近づいては来ませんでした」
俺は端末を見る。
通信圏外。
新しいメッセージもない。
十七時十二分。
本来なら、もう地上へ戻っている時間だ。
受付では俺たちの帰還予定が十七時に設定されている。
すでに十二分過ぎている。
今頃、登録上でも未帰還になっているはずだ。
「藤堂さん」
美月が小声で言う。
「はい」
「私たち、本当に遭難したんですね」
その言葉に、少し驚いた。
「今さら?」
「分かってはいました。でも、十七時を過ぎたら急に実感して」
気持ちは分かる。
十七時という時間は、俺たちの中でずっと「地上にいるはずの時間」だった。
それを過ぎても、俺たちは地下の地図にない保守室にいる。
「家には?」
美月が自分の端末を見る。
「母に、今日は夕方には帰るって言ってあります」
「十六時半の電車って言ってたな」
「はい」
笑おうとしたようだが、うまく笑えていなかった。
「連絡つかないから、心配しますよね」
俺は少し迷った。
「受付から緊急連絡先に連絡が行く可能性はある」
「そうですよね」
「でも、救難要請は届いてる。行方不明で何も分からない状態じゃない。それも伝えてくれると思う」
美月が頷く。
「そうだといいです」
しばらく二人とも黙った。
今まで、救難要請というものをもっと単純に考えていた気がする。
困ったら呼ぶ。
救難班が来る。
助けてもらう。
それだけだと思っていた。
実際には、その間にも時間がある。
待っている本人たちがいる。
地上で連絡を待つ家族もいる。
救難班が準備をして、情報を集め、どこにいるかも分からない人間を探しに来る。
その全部がつながって、やっと「助かった」になる。
「美月」
「はい?」
「帰ったら、お母さんにちゃんと謝ったほうがいいな」
「藤堂さんもですよ」
「俺?」
「心配する人いないんですか?」
「いるよ」
「じゃあ同じです」
返す言葉がない。
「お互い怒られよう」
俺が言うと、美月が今度はちゃんと笑った。
「はい」
十八時を過ぎた頃、通信が一度だけ戻った。
端末が震えた瞬間、休んでいた航と佳奈まで飛び起きた。
「来た?」
俺は画面を見る。
受信中。
文字が少しずつ表示される。
『救難班――第十層――捜索開始』
そこで一度途切れる。
「もう入ってる!」
佳奈が身を乗り出した。
再び通信。
『可能な限り――待機継続――定時確認――』
また途切れる。
ただ、必要なことは分かった。
「救難班、もう第十層にいる」
航が大きく息を吐いた。
「近くまで来てるってことだよな」
「第十層までは」
俺は答える。
この階層は広い。
しかも俺たちの現在地は分からない。
それでも、さっきまでとは違う。
同じ第十層のどこかに、俺たちを探している人たちがいる。
佳奈が端末を見る。
「返信できる?」
「やってみる」
俺は状況を短く入力する。
四名全員生存。
大きな変化なし。
保守室で待機継続。
外に時々魔物らしき音。
そのまま送信する。
今度はすぐに送信待機へ入った。
「届けばいいけど」
「また電波が戻れば送れる」
航が扉を見る。
「救難班って、何人で来てるんだろ」
「分からない」
「あのムカデいたら大丈夫かな」
佳奈が嫌そうな顔をした。
「思い出させないでよ」
「いや、だって通るかもしれないだろ」
美月が少し考える。
「私たちが送った情報に甲殻ムカデのことも入っています。対策はしてくると思います」
「そうだな」
救難班は俺たちより状況を知らない。
でも、俺たちが送った情報は持っている。
グレイウルフの群れ。
甲殻ムカデ。
地図にない通路。
通信障害。
帰還石の不調。
それを分かったうえで、こちらへ来ている。
そう考えると、少しだけ安心できた。
「待とう」
俺が言う。
今度は、その言葉に迷いはなかった。
十九時を過ぎた。
四人で少しずつ携行食を食べ、水を飲む。
朝から考えれば、もうずいぶん長くダンジョンにいる。
体力は休憩のおかげである程度戻った。
俺の腕も悪化していない。
佳奈の魔力も、休んだからといって大きく戻るわけではないが、少なくとも疲労は軽くなったらしい。
問題は、何も見つからないまま時間だけが過ぎていることだった。
救難班が第十層で捜索を始めたという連絡から、一時間近く新しい情報がない。
「広いもんな」
航が呟く。
誰も何のことか聞かなかった。
第十層のことだ。
探す側からしたら、地図にない場所にいる四人を見つけるのは簡単じゃない。
「藤堂さん」
美月が立ち上がった。
「少し外の音を確認してきます」
「扉は開けるなよ」
「分かってます」
美月が扉へ近づき、耳を当てる。
俺たちは話すのをやめた。
しばらくして、美月が眉を寄せた。
「何か聞こえる?」
俺が聞く。
「……待ってください」
美月が手を上げる。
全員が黙ったまま待つ。
十秒。
二十秒。
何も聞こえない。
「気のせい?」
佳奈が囁く。
美月は答えない。
さらに耳を澄ませる。
その時だった。
遠くで、何かが三回鳴った。
カン。
カン。
カン。
俺たちは顔を見合わせた。
さっき通り過ぎた魔物の足音とは違う。
間隔が一定だった。
少し待つ。
また三回。
カン。
カン。
カン。
航が立ち上がる。
「これ……」
「まだ分からない」
俺は止めた。
魔物が偶然何かに触れている可能性もある。
期待して違った時が一番きつい。
美月は扉に耳を当てたまま動かない。
三度目。
今度は少し近く感じた。
カン。
カン。
カン。
「合図だと思います」
美月が振り返った。
「同じ間隔で三回ずつです」
俺の心臓が速くなる。
「返す?」
航が聞く。
迷った。
こちらから音を出せば、魔物にも気づかれるかもしれない。
でも、本当に救難班なら、俺たちの居場所を知らせられる。
そのために待っていた。
「一回だけ返そう」
扉は開けない。
航が古い机から金属製の脚を外し、俺たちは扉から少し離れた壁際へ移動した。
「三回?」
「同じで」
航が壁を叩く。
カン。
カン。
カン。
音が通路の向こうへ響いた。
全員で待つ。
返事はない。
佳奈が不安そうに俺を見る。
「もう一回?」
「待とう」
数秒。
十秒。
そして。
遠くから四回、金属音が返ってきた。
カン。
カン。
カン。
カン。
さっきとは違う。
偶然ではない。
誰かが、俺たちの音を聞いて返している。
航の顔が変わった。
「人だ」
俺もそう思った。
まだ救難班だとは断定できない。
それでも、この地図にもない暗い通路のどこかに、俺たち以外の誰かがいる。
俺は端末をつかんだ。
通信は圏外のままだった。
美月が再び扉へ耳を当てる。
「近づいてきています」
「音が?」
「はい」
俺たちは装備を身につけ直した。
航は小型盾を持ち、佳奈は杖、美月は弓を手にする。俺も右腕の包帯を確認してから剣を腰へ戻した。
助けが来たとしても、ここはまだダンジョンの中だ。
扉を開けるのは、相手を確認してから。
それだけは変えない。
しばらくすると、金属音とは別の音が聞こえ始めた。
人の足音のようにも聞こえる。
複数。
ゆっくり、こちらへ近づいてくる。
佳奈が小さな声で言った。
「本当に来たのかな」
今度は俺も、否定しなかった。
「たぶん」
「また、たぶん?」
「確認するまではな」
佳奈が少し笑った。
俺たちは扉の向こうから聞こえる音を待った。
救難要請を出してから、ずっと誰かが来るのを待っていた。
今、その誰かがようやく近づいてきていた。




