第34話 救難要請
端末には、まだ『送信待機中』と表示されていた。
俺たちが保守室へ入ってから、二十分ほど経っている。
扉の向こうから甲殻ムカデが追ってくる気配はない。壁際に置かれた古い設備も動いておらず、部屋の中は携帯ライトを消せば完全な暗闇になる。
今のところ、ここを離れる理由はなかった。
「通信は?」
航が聞く。
「駄目」
俺は端末を持ち上げて見せる。
通信圏外。
帰還石も十五分おきに確認しているが、状況は変わらない。魔力を流せば一瞬だけ光るものの、転送は始まらなかった。
佳奈は壁際に座り、杖を膝の上へ置いている。美月は扉の近くで時々外の音を確認していた。
航だけは落ち着かないのか、狭い部屋の中を何度も見回している。
「座ったら?」
佳奈が言う。
「座ってると余計なこと考える」
「歩いてても考えるでしょ」
「気分が違うんだよ」
そう言いながらも、航は結局俺の向かいに腰を下ろした。
俺は時計を見る。
十五時四十三分。
帰還予定までは、まだ一時間以上ある。
救難要請が送れていない以上、地上では俺たちがこんな場所にいることを誰も知らない。
予定時刻を過ぎれば異常に気づいてもらえる。
でも、できればそれより前に連絡を取りたかった。
「藤堂さん」
美月がこちらへ戻ってくる。
「外は?」
「今のところ何も聞こえません。ただ、さっき来た通路以外に出口がないので、何か来たら逃げ場はありません」
「だよな」
安全な場所を選んだつもりだった。
一方で、袋小路でもある。
甲殻ムカデのような相手が扉を破って入ってくれば、四人で迎え撃つしかない。
航は大盾を失った。
俺の右腕も万全ではない。
佳奈の魔力も減っている。
戦えないわけじゃない。
ただ、次の戦闘も無傷で終われると思わないほうがいい。
「一時間ごとに場所変えるとかは?」
佳奈が聞く。
「いや、通信が戻らない限りここにいる」
俺は答えた。
「今動いたら、救難要請が送れたとしても位置の説明がもっと難しくなる」
「でも現在地分からないよ?」
「だからこそだよ。少なくとも、この部屋まで来た経路は記録してある」
紙のメモを見る。
扉から八分。
右。
直進。
左。
階段を下る。
完璧な地図ではないが、何もないよりはいい。
美月も途中の壁に印を残している。
「通信が一瞬でも戻れば、入力した情報は送れる。今は体力を残そう」
三人が頷いた。
今度は、誰も「もう少し進んでみよう」とは言わなかった。
十六時を過ぎた。
状況は何も変わらない。
変わらないことが、ありがたいのか怖いのか分からなくなってくる。
魔物は来ない。
怪我も悪化していない。
水も食料もある。
それでも、地上へ近づいているわけではない。
俺たちは同じ部屋にいるだけだ。
佳奈が携行食の袋を開ける。
「食べとく?」
「今?」
航が聞く。
「今だから。帰れる時間が分からないんだから、食べられる時に食べといたほうがいいでしょ」
「正論」
四人で少しずつ口にする。
味はほとんど感じなかった。
航が包装を畳みながら言う。
「俺、こういう時ってもっと焦ると思ってた」
「焦ってないの?」
俺が聞く。
「焦ってる。でも、思ってたのと違う」
「どう違う?」
「もっと、走り回って出口探したくなると思ってた」
佳奈が水を飲みながら答える。
「さっきまでやってたじゃん」
「だから今反省してんの」
「珍しい」
「俺だって反省くらいする」
美月が少し笑った。
俺も笑いかけて、やめた。
航の言っていることは分かる。
何もしない時間が怖い。
歩けば、何かしている気になれる。
分岐を選べば、帰るために前へ進んでいるような気がする。
でも、それが正しいとは限らない。
俺たちはそれを今日、自分たちで証明してしまった。
「今は待つのが正解だと思う」
俺が言う。
「思う、か」
航がそこだけ拾う。
「絶対とは言えないだろ」
「まあな」
今の判断が正しいかどうかも、本当のところは分からない。
もしこの部屋が危険な場所なら、待つこと自体が間違いになる。
それでも、今ある情報で決めるしかない。
探索中は何度もそうしてきた。
今日は、その一つ一つがいつもより重いだけだ。
その時、机の上に置いていた端末が短く震えた。
全員が同時に見る。
画面上部。
圏外だった通信表示に、一本だけ線が立っていた。
「来た!」
俺は端末をつかむ。
『送信中』
表示が切り替わった。
「動かすな!」
航が言う。
「分かってる!」
別に振ったから電波が逃げるわけじゃない。それでも、端末を置いたままにしたくなる気持ちは分かった。
送信ゲージが進む。
二十パーセント。
四十。
途中で通信表示が消える。
「切れた!」
佳奈が声を上げる。
ゲージが止まった。
全員で画面を見つめる。
数秒後、再び一本。
送信が再開する。
六十。
八十。
九十。
そして。
『救難要請を送信しました』
誰もすぐには声を出さなかった。
俺は画面を二度見した。
送信済み。
「……行った」
航が言う。
「ああ」
身体から力が抜けそうになった。
救助されたわけじゃない。
場所すら分かっていない。
それでも今、地上に俺たちの状況が伝わった。
それだけで、さっきまでとは全然違った。
佳奈が長く息を吐く。
「よかった……」
美月も目を閉じている。
その直後、端末が再び震えた。
『受信中』
「返事?」
俺は画面を見る。
通信はまた不安定になっている。
途切れながら、一通の短いメッセージが表示された。
『救難受付――四名――確認――現在地――待機――』
途中が抜けている。
それでも十分だった。
「受付された」
佳奈が俺の肩越しに画面を見る。
「救難、来てくれるってことだよね?」
「たぶん」
「そこは言い切ってよ」
「来てくれる」
今度はそう答えた。
救難要請を受けた以上、誰かが動いてくれる。
ただし、俺たちの現在地は不明のままだ。
どうやって探すのか。
どれくらいかかるのか。
そこまでは分からない。
俺は追加情報を入力する。
壁表示。
E10-M41以降。
甲殻ムカデ。
保守扉。
そこから八分ほど移動した保守室。
壁に残した印。
何でもいい。
誰かがこちらを探す時に使えそうな情報をできるだけ送る。
送信。
また待機中。
「届くかな」
美月が言う。
「一回つながった。たぶんまた送れる」
しばらくすると、追加情報も送信済みに変わった。
今度は地上から返信が届くまで少し時間がかかった。
『追加情報確認。移動せず待機してください』
はっきり読めた。
俺は三人に画面を見せる。
航が頷いた。
「待て、だってさ」
「今度は迷わなくて済むね」
佳奈が言う。
「そうだな」
ここにいる。
それが俺たちの次の仕事になった。
安心したからなのか、急に疲れを感じるようになった。
佳奈は壁に頭を預け、美月も弓を手元へ置いたまま座っている。航は小型盾を外して脇へ置き、肩を回していた。
俺は包帯を確認する。
出血は止まっている。
「藤堂さん」
美月が言う。
「何?」
「救難班、どのくらいで来ると思います?」
答えられなかった。
現在地が分かっていれば、ある程度は予想できる。
でも俺たちは地図にない場所にいる。
「早くても一時間以上じゃないかな」
「やっぱり」
「見つけるところからだから」
美月は頷いた。
「分かりました」
その顔を見て、少し不安になった。
「何かある?」
「いえ。ただ、ライトの予備を確認しておこうと思って」
「残りは?」
「私が二本。皆さんは?」
確認する。
俺は一本。
佳奈が二本。
航が一本。
保守室の魔導灯は完全に消えているので、携帯ライトがなくなれば真っ暗になる。
「節約しよう」
俺は室内を照らしているライトを一つだけ残し、ほかを消した。
暗くなる。
佳奈が少し嫌そうな顔をする。
「慣れるまで怖いね」
「必要になったらすぐ点ける」
「うん」
静かになった。
救難要請は届いた。
あとは待つ。
そう決めたはずなのに、何度も時計を見てしまう。
十六時十八分。
まだ二分しか経っていない。
航がそれに気づいた。
「時計見すぎ」
「見てない」
「今三回見た」
「数えてたの?」
「暇だから」
こんな時でも、航は航だった。
少しだけ気が楽になる。
その直後、扉の外で何かが鳴った。
全員の表情が変わった。
カツン。
硬い音。
航がすぐに小型盾を持つ。
美月も立ち上がり、弓へ矢をつがえた。
俺は声を出さず、扉を見る。
もう一度。
カツン。
さっきの甲殻ムカデが戻ってきた音とは違う。
もっと軽い。
足音にも聞こえる。
「魔物?」
佳奈が囁く。
美月は答えず、扉の近くまで移動した。
耳を澄ませる。
しばらく何も聞こえなかった。
「いなくなった?」
航が小声で聞く。
美月が首を横に振る。
「分かりません」
俺も剣へ手を伸ばす。
戦うなら、ここでは逃げ場がない。
さっき救難要請が届いたばかりなのに、じっと待っているだけでは済ませてくれないらしい。
カツン。
今度ははっきり聞こえた。
そして、そのあと。
扉の向こうで何かが床を擦った。
俺たちは誰も話さなかった。
相手が通り過ぎるなら、それが一番いい。
戦う必要はない。
救難班が来るまで、俺たちがやるべきことは勝つことじゃない。
生きて、ここにいることだ。
航が盾を構えたまま、俺を見る。
俺は声を出さずに頷いた。
扉の外の音が、ゆっくり遠ざかっていく。
それでもすぐには動かなかった。
一分ほど待ち、美月がようやく弓を少し下げる。
「離れたと思います」
部屋の中に、ほっとした空気が戻った。
佳奈が小さく息を吐く。
「よかった……」
俺も剣から手を離した。
戦わずに済んだ。
今は、それが一番ありがたい。
机の上では、救難要請を送った端末が暗い画面のまま置かれている。
向こうでは今頃、誰かが俺たちの情報を見ている。
そして、ここへ向かう準備をしているはずだ。
あとは見つけてもらうまで生き残る。
今度こそ、それ以上のことをしようとは思わなかった。




