第33話 戦えるからこそ
暗闇の奥から、何かを引きずるような音が近づいてくる。
俺たちは通路の中央で隊列を組み、携帯ライトを前方へ向けた。
航が大盾を構えて一番前に立ち、その後ろに俺。佳奈と美月は少し距離を取っている。
いつもの形だ。
それだけで少し落ち着く。
相手が何であれ、姿さえ見えれば対応できる。少なくとも、何も分からないまま立っているよりはましだった。
「美月、見える?」
俺が聞く。
「まだです。ただ、音は一つだと思います」
「一体ってこと?」
佳奈が小声で確認する。
「たぶん。でも……大きいです」
引きずる音がまた響いた。
今度は近い。
ズズッ、と硬いものが石の床を擦っている。
航が盾の位置を少し下げる。
「突進系だったら受ける。亮介は横に回れ」
「分かった」
「佳奈は最初から撃つなよ。正体見てから」
「分かってる」
グレイウルフの群れから逃げた直後だ。
魔力も体力も無限じゃない。
特に佳奈は、さっき通路いっぱいに炎を広げる魔法を使っている。本人は平気そうにしているけれど、いつもより呼吸が少し深い。
ここで必要以上に消耗するわけにはいかない。
魔導灯がさらに一つ消えた。
暗闇が近づく。
そして、ライトの端に何かが映った。
最初に見えたのは脚だった。
太い。
人間の腕ほどある脚が、壁際からゆっくり前へ出てくる。
その数は二本でも四本でもなかった。
「うわ……」
佳奈が思わず声を漏らす。
巨大なムカデに似ていた。
体長は四メートル近い。黒褐色の外殻に全身を覆われ、左右から何本もの脚が伸びている。
見覚えはあった。
「甲殻ムカデ」
俺が名前を口にする。
航もすぐに分かったらしい。
「第十層にいたか?」
「いる。ただ、普通はもっと西側だ」
「今日そんなのばっかりじゃない?」
佳奈の言う通りだった。
グレイウルフの大群。
今度は、本来この辺りであまり見かけない甲殻ムカデ。
何かがおかしい。
ただ、それを考えるのはあとだ。
甲殻ムカデの頭部がこちらを向いた。
顎が開く。
硬い歯が擦れ合い、不快な音が通路へ響く。
次の瞬間、巨体が一気に縮んだ。
「来る!」
航が叫んだ。
甲殻ムカデが床を這う。
さっきまでの鈍い動きが嘘みたいに速い。
何十本もの脚が一斉に石床を叩き、一直線に航へ迫る。
「航!」
「受ける!」
大盾を床へ固定する。
激突した。
金属を殴りつけたような音が響き、航の身体が後ろへ滑った。
「っ……重っ!」
靴底が床を擦る。
止まりきらない。
俺は航の背中へ肩を入れた。
二人で押す。
それでも甲殻ムカデは前へ出ようとしてくる。
「佳奈!」
「今やってる!」
佳奈が杖を向ける。
火球が飛んだ。
甲殻ムカデの頭部へ直撃する。
爆ぜた炎が外殻を包む。
だが、巨体は止まらなかった。
「効いてない!」
「甲殻に火は通りにくい!」
分かっていた。
でも、少しくらい怯んでくれると思った。
その期待は外れた。
甲殻ムカデが頭を振る。
盾ごと航が弾かれた。
「航!」
身体が壁へ叩きつけられる。
俺はすぐに前へ出た。
甲殻の継ぎ目。
狙うならそこだ。
剣を両手で握り、頭と胴の境目へ突き込む。
硬い感触。
刃先が滑った。
「くそっ!」
甲殻ムカデがこちらへ向く。
近い。
顎が開く。
身体を引いた直後、さっきまで俺の腹があった場所で歯が噛み合った。
ガチン、と音が鳴る。
まともに食らえば、鎧ごと持っていかれる。
「藤堂さん、右!」
美月の声に反応して横へ跳ぶ。
矢が俺の脇を抜け、甲殻ムカデの頭部へ飛んだ。
一本目は弾かれた。
二本目。
今度は外殻の隙間に刺さる。
甲殻ムカデの動きが止まった。
「入った!」
「浅いです!」
美月が次の矢をつがえる。
甲殻ムカデが身体を大きくくねらせた。
何本もの脚が床を掻く。
そのうちの一本が俺の足元を払った。
避けるのが遅れた。
身体が浮く。
背中から床へ落ちた。
息が抜ける。
「亮介!」
航が戻ってくる。
盾を甲殻ムカデの側面へ叩きつけ、俺から引き離した。
「立てるか!」
「大丈夫!」
差し出された手を取って立ち上がる。
右腕が痛む。
さっき巻いた包帯に赤い染みが広がっていた。
転んだ拍子に傷が開いたらしい。
でも動く。
「これ、倒す必要ある?」
佳奈が叫ぶ。
その言葉で我に返った。
そうだ。
倒す必要なんてない。
俺たちは今、素材を取りに来ているんじゃない。
帰る方法を探している。
「ない! 逃げる!」
俺はすぐに答えた。
「どっち!」
航が聞く。
それが問題だった。
前方には甲殻ムカデ。
後ろへ戻っても、どこへつながっているのか分からない。
俺は左右を見る。
左側の壁に、さっきまでは気づかなかった金属扉があった。
保守用。
横に手動開閉レバーが付いている。
「左の扉!」
航が甲殻ムカデを盾で押さえる。
俺は扉へ走った。
レバーを下げる。
動かない。
「固い!」
「代わって!」
佳奈が杖を持ったまま隣へ来る。
二人で押す。
少し動いた。
「美月!」
「分かってます!」
矢が続けて飛ぶ。
甲殻ムカデの動きを止めるため、外殻ではなく脚の付け根を狙っている。
一本刺さる。
巨体が傾いた。
航がその隙に距離を取る。
「開いた!」
レバーが最後まで下がる。
重い扉が数センチ開いた。
俺と佳奈で引く。
人一人通れる。
「美月、先!」
「はい!」
美月が入る。
佳奈も続く。
俺は航を見る。
「来い!」
航が後退する。
甲殻ムカデが追う。
「航!」
間に合わない。
航が盾を前へ突き出した。
甲殻ムカデが噛みつく。
硬い顎が盾の縁を挟んだ。
「今!」
航が盾から腕を抜いた。
そのまま盾を捨てて走る。
「盾!」
俺が叫ぶ。
「いいから閉めろ!」
航が扉へ飛び込んだ。
俺たちは三人で扉を押す。
反対側から甲殻ムカデの身体がぶつかった。
扉が押し返される。
「押せ!」
航も加わる。
四人。
少しずつ閉まる。
隙間から甲殻ムカデの脚が一本入ってきた。
佳奈が悲鳴を上げる。
「ちょっと、これどうするの!」
「そのまま押せ!」
扉と壁の間で脚が挟まる。
甲殻ムカデが暴れた。
衝撃が腕へ響く。
もう少し。
あと数センチ。
航が肩を当てる。
「せーの!」
全員で押し込んだ。
脚が引っ込んだ。
扉が閉まる。
俺はすぐにレバーを戻した。
ロックがかかる。
直後、反対側から激しい衝撃が来た。
扉全体が揺れた。
もう一度。
金属が軋む。
「これ、持つよね?」
佳奈が扉を見つめる。
誰もすぐには答えなかった。
三度目の衝撃。
それでも扉は開かない。
少し間が空き、また一度ぶつかってきたあと、向こう側が静かになった。
「……諦めた?」
航が息を整えながら聞く。
美月が扉へ耳を寄せる。
「分かりません。離れた可能性はあります」
「とりあえず、ここから離れよう」
俺はライトを奥へ向けた。
今いる場所は細い保守通路だった。
幅は二人並べる程度。こちら側にも魔導灯はあるが、半分以上が消えている。
ただ、少なくとも甲殻ムカデは入ってこられない。
「航」
俺は床を見る。
「盾……」
「置いてきた」
「だよな」
扉の向こうだ。
取りに戻れる状況ではない。
航は盾役だ。
その航が大盾を失った。
予備の小型盾は荷物に入っているが、いつもの装備とは比べものにならない。
「悪い」
俺が言うと、航が眉を寄せた。
「何で亮介が謝るんだよ」
「俺が扉を選んだから」
「あそこで残ってたら四人まとめてムカデの餌だろ。正解だよ」
言い方は最悪だけど、たぶんその通りだ。
佳奈が俺の腕を見た。
「それより、包帯」
さっきより血が出ている。
「また開いたみたい」
「座って」
今度は反論しなかった。
壁際へ座り、美月に包帯を外してもらう。
傷そのものは深くない。
でも何度も動かしたせいで、最初より広がっていた。
「縫うほどじゃありません。ただ、これ以上は剣を振りすぎないほうがいいです」
「了解」
「本当に?」
「本当に」
美月が新しい包帯を巻く。
航は自分の肩を動かしていた。
「そっちは?」
俺が聞く。
「さっき壁にぶつけた。動くから平気」
「佳奈?」
「私は無傷。ただ魔力は結構使った」
全員が少しずつ削られている。
致命傷はない。
動ける。
戦える。
でも、ダンジョンから出るにはまだ先がある。
どれだけ先なのかさえ分からない。
俺は端末を見る。
通信圏外のまま。
現在地も取得できない。
帰還石を試しても反応は変わらなかった。
佳奈が壁へ背中を預ける。
「さっきのやつ、何で魔導灯が消えたんだろう」
「甲殻ムカデが配線を壊してたとか?」
航が言う。
美月が少し考える。
「可能性はあります。あの音、身体を引きずっていたというより、壁際の設備に触れていたのかもしれません」
原因が分かったところで、今の状況は変わらない。
ただ、正体不明の何かが明かりを消していたわけではないと思えるだけでも少し楽だった。
「問題はこっちだな」
俺は保守通路の奥を照らした。
扉から入ってきた以上、また地図にはない場所へ進むことになる。
航が俺の隣へ来る。
「戻れないよな」
扉を見る。
向こうには甲殻ムカデがいるかもしれない。
さらにその先へ戻れたとしても、地図にない通路をどれだけ歩けば元の場所へ着くのか分からない。
「今は無理だ」
俺は答えた。
「こっちで安全な場所を探そう」
「また進むの?」
佳奈が聞く。
責めているわけではない。
確認しているだけだ。
それでも、少し答えに詰まった。
さっきも俺は「もう少し進もう」と言った。
結果、戻れなくなった。
判断すること自体が怖くなり始めている。
でも、何も決めないわけにはいかない。
「ずっとここにはいられない。扉が壊される可能性もあるし、休むならもう少し安全な場所がいい」
美月が頷く。
「賛成です。ただし、今度は距離を決めましょう」
「どれくらい?」
「十分。安全な部屋か広い場所がなければ、そこで止まってもう一度考える」
俺はすぐに頷いた。
「それでいこう」
さっきと同じ失敗はしたくない。
四人で荷物を背負い直す。
航は予備の小型盾を左腕につけた。
見るからに頼りない。
「軽いな、これ」
「動きやすくなってよかったじゃん」
佳奈が言う。
「全然よくない」
少しだけ笑いが戻った。
俺たちは保守通路の奥へ進んだ。
今度は急がない。
曲がり角を通るたび、美月が壁に小さな印を付ける。俺も端末ではなく紙のメモへ進行方向を書き込んだ。
右。
直進。
左。
階段を少し下る。
同じ場所へ戻った時に分かるよう、目で確認できる記録を残す。
八分ほど進んだところで、前方に扉が見えた。
今度は金属製ではない。
古い保守室の扉だった。
航が小型盾を構える。
「開けるぞ」
「待って」
美月が耳を当てる。
しばらく確認してから頷いた。
「中から音はしません」
俺と航で扉を開ける。
ライトを向けた。
狭い部屋だった。
古い机。
壊れた棚。
壁には使われていない端末。
魔物はいない。
出入口は今開けた一か所だけ。
「ここなら休める」
俺が言う。
全員が中へ入り、扉を閉める。
椅子を移動させて簡単なつっかえ棒代わりにした。
ようやく少しだけ息をつけた。
航が床へ座る。
「今日、ラーメン無理そうだな」
佳奈が隣に座った。
「今さら?」
「焼肉も」
「当たり前でしょ」
美月が時間を確認する。
「十五時十九分です」
予定では十五時には帰り始めているはずだった。
まだ十九分しか過ぎていない。
なのに、何時間も経ったように感じる。
「帰還予定は?」
佳奈が聞く。
「十七時」
俺は答える。
地上の受付には探索予定を登録してある。
十七時を過ぎても戻らなければ、まず確認が入る。連絡が取れなければ、状況次第では救難対象として扱われる。
それは知っている。
でも、まだ二時間近くある。
航が天井を見た。
「俺たちが出られなくても、そのうち誰か気づくってことだよな」
「ああ」
「だったら、下手に歩き回らないほうがいい?」
その質問に、今度はすぐ答えられた。
「そうしよう」
通信が使えない以上、こちらから現在地を送ることはできない。
だからこそ、これ以上むやみに移動しないほうがいい。
まず休む。
装備を確認する。
通信が戻るか定期的に試す。
帰還石も試す。
それでも駄目なら、救難を待つ。
そこまで決めると、少し頭が整理された。
俺は端末を取り出した。
通信表示は相変わらず圏外だった。
それでも救難要請の画面を開き、必要な情報を入力しておく。
藤堂亮介。
武田航。
水瀬佳奈。
黒川美月。
四名。
第十層東側から地図未登録区画へ迷入。
現在地不明。
通信不能。
帰還石使用不能。
右腕軽傷一名。
大盾一枚喪失。
魔力消耗あり。
送信ボタンを押す。
画面に表示されたのは、
『送信待機中』
の文字だった。
「送れた?」
佳奈が聞く。
「まだ。でも通信が一瞬でも戻れば、自動で送られる」
「じゃあ、これで待てるね」
「ああ」
俺は端末を机の上へ置いた。
救難要請を出すことに、少し抵抗があった。
自分たちはC級で、三年も一緒に潜っている。
戦える。
判断もできる。
今日だってグレイウルフから逃げ切ったし、甲殻ムカデからも四人で生き延びた。
だから、どこかでまだ自力で帰れると思っていた。
でも、それと救難を頼むことは別だった。
航が失った大盾を見ることはできない。
俺の腕には新しい包帯が巻かれている。
佳奈の魔力も減っている。
ここからさらに戦闘が続けば、次も同じように切り抜けられる保証はない。
戦えるから進める。
そう思っていた。
でも、戦えることと帰れることは同じじゃない。
「今日はもう、勝たなくていいな」
俺が言うと、航がこちらを見る。
「何に?」
「魔物とか、ダンジョンとか」
航は少し考えてから笑った。
「そもそも勝ちに来てないだろ、俺たち」
「そうだった」
青晶石を採って、十六時半の電車に間に合って、帰りに何か食べる。
今日の予定はその程度だった。
佳奈が水を飲みながら言う。
「じゃあ目標変更ね」
「何に?」
「四人で帰る」
誰も笑わなかった。
俺は頷く。
「それでいこう」
地上へ戻る。
今は、それだけできれば十分だった。
机の上に置いた端末は、まだ『送信待機中』のままだった。




