第32話 地図にない道
「もう少し進もう。通常通路が見つからなかったら、そこで戻る」
俺がそう決めた時、三人とも反対はしなかった。
目の前にあるのは、地図には載っていない分岐だ。
ただ、ダンジョンでは珍しいことではない。
階層の一部が変化して、古い通路が開いたり、逆に使えなくなったりすることはある。大きな変化なら探索者協会から警告が出るが、地図の更新が追いついていない程度の小さな変化なら、自分たちで遭遇することもあった。
問題は、現在地を示す端末の表示が安定していないことだった。
「またずれた」
佳奈が俺の端末を覗き込む。
現在地を示す青い点が、地図上を数メートル単位で行ったり来たりしている。
「魔力干渉かな」
「さっきの群れと関係ある?」
「分からない」
グレイウルフが異常に集まっていたことと、現在地情報の乱れ。
二つが関係している可能性はある。でも、今の時点で勝手に結びつけるのは危険だ。
「通信は?」
航が聞く。
美月が端末を確認する。
「弱いですけど、一応つながってます」
「救難所に連絡する?」
佳奈の問いに、少し考えた。
現状では怪我人はいない。俺の腕も浅い傷だ。食料も水もあるし、帰還石も四人とも使っていない。
位置情報が不安定なだけで、帰れなくなったと決まったわけでもない。
「まだいい。通常通路に出られなかったら連絡しよう」
「了解」
俺たちは再び歩き始めた。
地図上では、このまま南へ進めば五分ほどで通常通路に合流する。
だからまず五分。
それで何も見つからなければ戻る。
判断基準を決めておいたほうがいい。こういう時に「もうちょっとだけ」を繰り返すのが一番よくない。
通路はさっきまでとほとんど変わらなかった。
灰色の壁。
一定間隔で埋め込まれた魔導灯。
床には保守用の黄色い線が一本伸びている。
ただ、壁に振られている番号だけが、見覚えのないものに変わっていた。
「E10-M41」
航が読み上げる。
少し進む。
「E10-M42」
「番号は増えてるね」
佳奈が言う。
「少なくとも同じところを回ってはいない」
それは安心材料だった。
俺は歩きながら地図を確認する。
五分経過。
通常通路は見えない。
「止まろう」
全員が足を止めた。
「戻る?」
航が聞く。
「ああ。約束どおり戻る」
誰も異論はなかった。
ここで欲を出す必要はない。
来た道をそのまま引き返せばいい。
俺たちは隊列を反転させた。今度は美月を先頭にして、俺、佳奈、航の順で戻る。
「帰ったらラーメンじゃなくて焼肉にしようぜ」
航が言った。
「なんでグレード上がってんの?」
「生還祝い」
佳奈が呆れる。
「まだダンジョンの中だから」
「予約だけでも」
「帰ってからにして」
いつものやり取りだった。
俺も笑った。
その時点では、まだ余裕があった。
十分後。
「止まってください」
美月が足を止めた。
俺は時計を見る。
「どうした?」
美月は壁を照らしていた。
そこにある番号を見て、俺も足を止める。
E10-M47。
「……おかしくない?」
佳奈が最初に言った。
俺たちは戻っている。
さっき確認した番号はM41、M42と増えていた。
なら、引き返せば数字は小さくなるはずだ。
「曲がるところ間違えた?」
航が後ろを見る。
「分岐あったか?」
「一か所ありました」
美月が答える。
「でも、来た時に通ったほうを選びました。壁の傷も確認しています」
彼女はこういうところで記憶違いをするタイプではない。
念のため端末の移動記録を見る。
ほとんど役に立たなかった。
位置情報が乱れているせいで、軌跡は何度も壁の中を通っている。
「一回、M46まで戻ってみよう」
俺が言う。
「方向を確認する」
数分歩く。
M48。
その次がM49。
数字が増えている。
「反対に進んでる?」
佳奈が言う。
「いや、そんなはずない」
俺は後ろを振り返る。
俺たちは確実に引き返した。
少なくとも、自分ではそう思っている。
航が壁に手を当てた。
「この通路、真っ直ぐに見えるけど、少し曲がってるとか?」
「それなら番号まで変にはならないだろ」
「じゃあ番号の振り方が途中で変わった?」
「それはあり得る」
美月がライトを前へ向ける。
「一度、さっきの分岐まで戻りませんか。そこで方向を確認したほうがいいと思います」
「そうしよう」
俺たちはさらに進んだ。
ただ、いつまで歩いても分岐が出てこない。
来る時には五分もかからず通過したはずだった。
十分。
十五分。
同じような通路だけが続く。
さすがに誰も冗談を言わなくなった。
「藤堂さん」
美月が俺を呼ぶ。
「一回止まりましょう」
俺も同じことを考えていた。
全員で壁際に寄る。
佳奈が時計を見る。
「私たち、戻り始めてから二十五分歩いてる」
「来る時より長いな」
航が言う。
長いどころじゃない。
往路は十五分ほどしか歩いていない。
しかも途中から戻ったのだから、二十五分もかかるはずがない。
「道、変わった?」
佳奈の声が少し低くなる。
誰もすぐには答えなかった。
あり得る。
ダンジョンでは、通路そのものが変化することがある。
でも通常は、もっと分かりやすい前兆が出る。大きな振動や魔力濃度の変化、壁の変形などだ。
今のところ、そういうものは何も感じていない。
「一回、協会に連絡する」
俺は端末を取り出した。
まだ救難要請ではない。
まず現在地情報の確認を頼めばいい。
通信を開く。
呼び出し音。
一回。
二回。
つながらない。
「さっきは使えてたよね?」
佳奈が聞く。
「ああ」
もう一度試す。
今度は接続中の表示すら出なかった。
美月も自分の端末を確認する。
「私のも駄目です」
航と佳奈も同じだった。
通信圏外。
さっきまでは弱いながらもつながっていた。
「帰還石、確認しよう」
俺が言う。
全員が腰のポーチから帰還石を取り出した。
小さな透明の石。
緊急時に魔力を流せば、ダンジョン入口付近の帰還地点まで転送される。
高価なので普通は気軽に使わないが、今は値段を気にしている場合じゃない。
「使う?」
航が聞く。
「まず反応だけ確認する」
魔力を流すと石の中に薄い光が灯った。
だが、すぐに消えた。
転送は起きない。
もう一度。
しかし、反応は同じだった。
「嘘だろ」
航も試す。
結果は変わらなかった。
佳奈、美月も同じだ。
帰還石そのものは反応するのに、転送が始まらない。
「魔力干渉が強い?」
佳奈が石を見る。
「たぶん」
俺はできるだけ普通の声で答えた。
内心では、少しずつ嫌なものが膨らんでいる。
通信が使えない。
帰還石も使えない。
現在地が分からない。
来た道に戻れない。
一つだけなら、そこまで珍しくない。
でも四つ重なると話が変わる。
「亮介」
航が俺を見る。
「これ、もう救難案件じゃないか?」
今度はすぐに否定できなかった。
「……そうだな」
認めるしかない。
「通信が戻ったら、すぐ救難要請を出す」
佳奈が俺を見る。
「戻らなかったら?」
「まず安全な場所を探す。無理に歩き回らない」
自分に言い聞かせるように答えた。
さっきまで、もう少し進めば戻れると思っていた。
今は違う。
ここから先は探索じゃない。
帰るための行動に切り替えなければならない。
「食料と水、確認しよう」
全員が荷物を下ろす。
携行食。
水。
回復薬。
予備ライト。
簡易毛布。
信号弾。
装備は十分ある。
予定外の一泊くらいなら問題ない。
「大丈夫」
佳奈が言った。
誰に向けた言葉なのか分からない。
「装備あるし、四人とも怪我してないし」
「俺はちょっとしてる」
包帯を巻いた腕を見せる。
佳奈が睨んだ。
「今そういうのいらない」
「すみません」
航が笑った。
美月も少しだけ笑う。
まだ大丈夫だ。
少なくとも、そう思いたかった。
「まず休憩しよう。十分」
俺は壁際に座る。
走った疲れがまだ残っている。
あのまま焦って歩き続けていたら、体力だけを無駄にしていたかもしれない。
水を一口飲む。
航も壁へ背中を預けた。
「なあ」
「何?」
「グレイウルフのところまで戻れたとして、あいつらまだいるかな」
「いるかもしれない」
「じゃあ、どっちにしてもあっちは使いにくいな」
「そうだな」
佳奈が地図を広げる。
「この通路が地図に載ってないなら、どこか別の区画につながってる可能性は?」
「ある」
「だったら、休んだあとに――」
そこで美月が手を上げた。
「静かにしてください」
全員が口を閉じる。
美月は通路の奥を見ていた。
「また何かいる?」
航が小声で聞く。
「違います」
美月は少し考えてから立ち上がった。
「音がしません」
一瞬、意味が分からなかった。
「音?」
「さっきまで、魔導灯の作動音がしてました」
言われて初めて気づく。
ダンジョン内の魔導灯は、古い区画だと小さな振動音を出す。
今は聞こえない。
俺は天井を見た。
照明は点いている。
「壊れた?」
佳奈が聞く。
美月は首を横に振る。
「全部です」
その直後だった。
前方の魔導灯が一つ消えた。
誰も動かない。
さらに奥。
二つ目が消える。
三つ目。
こちらへ向かって順番に。
通路の暗闇が、少しずつ近づいてきた。
「ライト!」
俺が声を上げる。
全員がほぼ同時に携帯ライトを点けた。
魔導灯がまた一つ消える。
原因は分からない。
ただ、暗くなっているのは確かだった。
「移動する?」
航が盾を構える。
俺は答えようとして、止まった。
暗闇の奥から音が聞こえた。
何かを引きずるような、重い音だった。
グレイウルフとは違う。
一度聞こえたあと、しばらく間が空く。
また聞こえる。
少し近い。
佳奈が杖を握る。
「何……?」
美月が弓を構えた。
俺も剣を抜く。
さっきグレイウルフに噛まれたせいで、柄には歯形が残っていた。
「全員、固まれ」
俺たちは壁際から離れ、いつもの隊列を作る。
航が前。
俺がその後ろ。
佳奈と美月が後方。
暗闇の中にライトを向ける。
まだ何も見えない。
でも、音は確実に近づいている。
自分たちがどこにいるのか分からない。
何がいるのかも分からない。
帰還石は使えず、通信もつながらない。
それでも、戦わなければならないなら戦うしかない。
俺は剣を握り直した。
この時になってようやく、さっきまで口にできなかった言葉が頭に浮かんだ。
俺たちは、帰る道を見失っていた。




