第31話 帰れると思っていた
※第31話は、C級探索者視点の物語です。
その日の午後、救難所で一本の電話が鳴る少し前に遡る―
「十五時には上がるぞ。欲張ってもう一周とか言うなよ」
腕時計を確認しながら言うと、少し前を歩いていた武田航が振り返った。
「それ、俺じゃなくて佳奈に言えよ」
「なんで私?」
水瀬佳奈が露骨に嫌そうな顔をする。
「前回、『あと一か所だけ』って言って三十分延長したの誰だっけ?」
「結果的に青晶石が二個採れたでしょ」
「そのせいで地上の定食屋が閉まってた」
「知らないわよ」
二人のやり取りを聞きながら、最後尾を歩いていた黒川美月が笑った。
「今日は私、十六時半の電車に乗りたいので」
「ほら。美月が一番まともだ」
「俺もまともだろ」
「航は帰りにラーメン食べられれば何でもいいじゃん」
「大事だぞ、それ」
いつもどおりだった。
俺――藤堂亮介を含めた四人は、組んで三年になるC級探索者パーティだ。
特別有名なわけじゃない。
配信もしていないし、大きな攻略記録を持っているわけでもない。
その代わり、無茶はしない。
自分たちが行ける場所を選び、必要な装備をそろえ、時間を決めて潜る。
それで十分だった。
少なくとも俺は、そう思っている。
今日入っているのも、何度か来たことのある第十層東側の採取区画だ。目的は青晶石と薬品の材料になる地衣類。どちらも珍しいものではないが、四人で一日動けばそれなりの金額になる。
床も乾いている。
通信もつながっている。
地図も最新。
帰還石も全員分ある。
入口の掲示板では、東側区域に特別な警戒情報も出ていなかった。
普段と変わらない探索だった。
「亮介」
先頭を歩く航が足を止める。
俺も止まり、前を見る。
通路の先に三つの影があった。
四足。
灰色の体毛。
「グレイウルフ…」
美月が小声で告げる。
「気づいてる?」
「まだ。風向きもこっちじゃないです」
俺たちは自然に配置を変えた。
航が大盾を前へ出し、その少し後ろへ俺が入る。佳奈は杖を構え、美月は後方を確認した。
グレイウルフは第十層では珍しくない。
一体ならC級探索者にとって大した相手ではないし、三体でも俺たちなら問題なく処理できる。
わざわざ戦う必要がなければ避けるが、今回は通路の向こうに採取地点がある。
「やる?」
佳奈が聞く。
俺は周囲を見る。
退路は確保できている。
ほかの気配もない。
「三体ならやろう。航、いつもどおり」
「了解」
航が盾を鳴らした。
金属音が通路へ響く。
三体のグレイウルフが一斉にこちらを向いた。
次の瞬間には走り出していた。
速い。
分かっていても、あの速度で突っ込んでくる獣を見ると身体が硬くなる。
先頭の一体が跳んだ。
航が半歩踏み込み、盾で正面から受ける。
鈍い衝撃音。
グレイウルフの身体が横へ流れた。
「亮介!」
「分かってる!」
俺は横から剣を振り下ろす。
刃が肩口へ入り、体毛の下から血が散った。
浅い。
グレイウルフが振り返り、牙を剥く。
その頭上を火球が飛んだ。
「避けて!」
佳奈の声。
俺が身体を引くと同時に火球が命中した。
爆発音と熱。
焼けた毛の臭いが鼻につく。
一体目が床へ転がった。
その横から二体目が航へ突っ込む。
盾で受けた瞬間、三体目が大きく回り込んだ。
「右!」
美月の声で気づいた。
俺の横を抜けようとしている。
こいつらは正面だけを見ていればいい相手じゃない。
一歩踏み出して剣を横へ払う。
グレイウルフが身を沈め、刃が空を切った。
まずい。
獣の口が開いた。
狙っているのは俺の腕だ。
避けきれない。
そう思った瞬間、横から矢が飛んできた。
グレイウルフの前脚に刺さる。
体勢が崩れた。
「助かった!」
「前見て!」
美月に怒られた。
言われなくても分かってる。
崩れたグレイウルフへ踏み込み、今度は首元へ剣を入れる。
手応えがあった。
二体目も佳奈の魔法を受けて後退し、航が盾で押し込む。そこへ俺が追撃を入れた。
数十秒後には、三体とも動かなくなっていた。
「終了」
航が息を吐く。
俺も剣についた血を払い、鞘へ戻した。
「怪我は?」
「なし」
「私も」
「大丈夫です」
全員無傷。
予定どおり。
「毛皮取る?」
航が聞く。
「いらない。時間かかる」
「了解」
必要以上のことはしない。
それが俺たちのやり方だ。
グレイウルフの死体を避け、先へ進もうとした。
その時だった。
美月が後ろを向いた。
「待って」
声が変わっていた。
俺たちも止まる。
「どうした?」
「音がします」
全員で黙る。
最初は分からなかった。
でも、すぐに聞こえた。
爪が石の床を叩く音。
一つじゃない。
何度も重なっている。
しかも、こっちへ近づいてくる。
航が嫌そうに顔をしかめた。
「追加?」
美月が耳を澄ませる。
「多いです」
「何体?」
「分からない。でも五とか六じゃない」
佳奈が杖を握り直す。
「グレイウルフの群れ?」
「たぶん」
俺は地図を開いた。
ここは一本道ではない。
十メートルほど先に右へ入る保守通路がある。
戦う必要はない。
「右へ逃げる。航が最後」
「了解」
判断した直後、通路の奥から一体目が現れた。
さらに二体。
その後ろにも灰色の影が続いている。
予想より早い。
「走れ!」
四人で一斉に動いた。
足音が響く。
装備が揺れる。
後ろから獣の唸り声が追いかけてくる。
右の通路まであと少し。
俺と佳奈、美月が先に曲がる。
航が最後に飛び込んだ。
その直後、グレイウルフが一体、角を曲がって追いついてきた。
「来るぞ!」
航が盾を構える。
激突。
身体ごと押された。
「航!」
「平気だ!行け!」
グレイウルフは一体ではなかった。
二体目。
三体目。
狭い通路へ次々に入ってくる。
ここなら数の利点を減らせる。
でも、ずっと戦い続ける場所でもない。
「佳奈、前塞げるか?」
「十秒!」
佳奈が振り返り、杖を床へ向ける。
航が盾で一体目を押さえている間に、俺が横から剣を突き込んだ。
二体目が低く飛び込んでくる。
航の脇を抜けた。
「美月!」
「下がって!」
矢が飛ぶ。
外した。
グレイウルフはそのまま佳奈へ向かった。
俺が間に入る。
牙が剣へ噛みついた。
腕に重い衝撃が伝わる。
「くそっ!」
振りほどけない。
獣が首を振るたびに剣ごと身体を持っていかれる。
佳奈の詠唱はまだ終わっていない。
横から三体目。
航は一体を押さえたまま動けない。
「亮介!」
美月の声が聞こえる。
分かってる。
でも動けない。
噛みつかれた剣を手放した。
グレイウルフの身体が勢い余って前へ出る。
空いた右手で腰の短剣を抜き、そのまま脇腹へ突き立てた。
獣が暴れる。
腕に爪が当たった。
布が裂ける。
熱い。
「亮介!」
「大丈夫!」
嘘ではない。
たぶん浅い。
その時、佳奈が叫んだ。
「伏せて!」
俺は考えずに床へ身体を投げた。
直後、頭上を熱風が抜ける。
火が通路いっぱいに広がった。
グレイウルフたちが悲鳴を上げる。
炎は数秒で消えたが、先頭にいた二体が倒れ、その後ろの群れも足を止めた。
「今!」
航に肩をつかまれ、立たされる。
剣を拾う暇はない。
四人で走った。
後ろで再び唸り声が上がる。
「まだ来ます!」
美月が叫ぶ。
「分かってる!」
俺は地図を確認しながら走る。
この保守通路を進めば、少し先で通常通路へ戻れる。
そこで防火扉を閉めれば一度切れるはずだ。
「あと百メートル!」
「遠い!」
航が叫ぶ。
「走れ!」
息が切れる。
腕が痛い。
後ろから爪音が近づいてくる。
普段なら、こんなに長く全力で走らない。
探索者は体力を残す。
帰る分まで考えて動く。
でも今はそんなことを言っていられなかった。
曲がり角。
右。
さらに直進。
地図どおりなら、この先。
「扉!」
美月が見つけた。
金属製の防火扉。
俺と美月が先に抜ける。
佳奈。
航。
最後の航が通過した瞬間、俺たち二人で扉を引いた。
重い。
「閉めろ!」
航も加わる。
三人で押す。
隙間からグレイウルフが見えた。
突っ込んでくる。
間に合え。
金属同士がぶつかる音。
扉が閉じた。
すぐにロックをかける。
直後、反対側から激しい衝撃が来た。
一度。
二度。
三度。
扉が震える。
俺たちはしばらくその場から動けなかった。
「……何体いた?」
航が息を切らしながら聞く。
美月が首を横に振る。
「分かりません。少なくとも十以上」
「そんな群れ、この辺にいるか?」
佳奈が壁へ背中を預ける。
「聞いたことない」
俺も知らない。
グレイウルフ自体は珍しくない。
でも第十層東側で、あれだけの数がまとまっている話は聞いたことがなかった。
「亮介、腕」
佳奈に言われて見る。
右腕の服が裂け、血がにじんでいる。
「浅い」
「見せて」
「大丈夫だって」
「いいから」
結局、美月に消毒されて簡単に包帯を巻かれた。
傷は本当に浅かった。
探索続行できる程度だ。
でも、もう続ける気はなかった。
「今日は帰る」
俺が言うと、誰も反対しなかった。
青晶石も予定量に届いていない。
採取地点にもまだ着いていない。
それでも十分だ。
「異常報告も出したほうがいいですね」
美月が言う。
「ああ。地上に戻ったら報告しよう」
航が扉を見る。
まだ向こうにグレイウルフがいるのか、時々何かが擦れる音がする。
「来た道は使えないな」
「別ルートで戻る」
地図を確認する。
今いるのは保守通路の途中。
ここから南へ進めば、別の通常通路へ出られる。
少し遠回りになるが、二十分ほど余計にかかるだけだ。
「こっちから戻ろう」
俺が地図を見せる。
佳奈が覗き込む。
「一回も通ったことないけど大丈夫?」
「整備済みになってる。昨日更新された地図だ」
「ならいいか」
航も頷いた。
「ラーメンには間に合う?」
「お前まだそれ言う?」
佳奈が呆れる。
「大事だろ」
さっきまで命懸けで走っていたのに、もうこんな話をしている。
でも、そのくらいでちょうどいい。
俺たちは戦えた。
逃げられた。
誰も大きな怪我をしていない。
予定より少し早いが、今日は帰る。
ただそれだけだ。
俺は本気でそう思っていた。
南側の保守通路へ進み始めて十五分ほど経った頃、美月が足を止めた。
「藤堂さん」
「どうした?」
美月は壁を見ていた。
案内表示がある。
俺もライトを向ける。
そこには、地図にない番号が書かれていた。
「……これ、何番?」
航が聞く。
誰も答えられなかった。
俺は端末の地図を拡大する。
現在地の表示が点滅していた。
通信状態も弱くなっている。
「位置情報がずれてるだけじゃない?」
佳奈が言う。
「たぶん」
答えながら、俺はもう一度地図を見る。
南へ進んできたはずだ。
そのままなら、あと五分ほどで通常通路へ出る。
でも目の前にある分岐は、地図にはなかった。
「戻る?」
航が聞く。
俺は後ろを見る。
グレイウルフの群れから逃げてきた方向だ。
戻るより、このまま通常通路へ出たほうが近い。
それに、ダンジョンでは地図と実際の形が少しずれることくらいはある。
大規模な階層変化ではない。
たぶん、小さな誤差だ。
「もう少し進もう」
俺はそう判断した。
「通常通路が見つからなかったら、そこで戻る」
三人が頷く。
それは、その時点では間違った判断には思えなかった。
俺たちはまだ、自分たちが遭難したなんて考えてもいなかった。




