第3話 全員で帰る道
「急ぎましょう」
俺が脇道を指すと、今度は誰も反対しなかった。
神代さんを先頭に、五人がすぐ動き出す。
俺もその後を追った。
背後から響いてくる足音は、少しずつ大きくなっている。
一体や二体ではない。
何が来ているのかまでは分からないが、わざわざ確かめる必要もなかった。
逃げられるなら逃げる。
俺の場合、それが基本だ。
「久世さん、右で合ってますか?」
前を走る神代さんが振り返らずに聞いた。
「はい。そのままです」
「分かりました」
細い通路を進む。
すぐに二手へ分かれた。
光は左へ伸びている。
「左です」
迷わず伝える。
神代さんが方向を変え、他の四人も続く。
その直後。
俺たちが今までいた通路の奥から、獣のような咆哮が響いた。
空気が震える。
森岡さんが走りながら顔をしかめた。
「今の、何匹いた?」
「音だけなら五……いや、もっとかもしれない」
後ろを走っていた女性探索者が答える。
さっき俺に《帰り道》の効果を聞いてきた魔法職の人だ。
神代さんが短く言う。
「今は確認しなくていい。離れます」
全員の判断が早い。
さすが上位探索者だと思う。
俺が一人でこの階層へ来たら、こうはいかない。
そもそも魔物と鉢合わせした時点でかなり危ない。
《帰り道》は便利だ。
ただし、帰れる道を知っていることと、そこを無傷で通れることは別だった。
しばらく走ったところで、背後の足音が遠ざかっていく。
やがてほとんど聞こえなくなった。
神代さんが速度を落とした。
「一度、止まりましょう」
全員が足を止める。
森岡さんが後方を確認し、親指を立てた。
「追ってきてない」
空気が少し緩む。
俺も息を整えながら足元を見る。
光はまだ続いていた。
さっき急に曲がった道が、今度は少し先で右へ折れている。
「今のって」
森岡さんが俺を見た。
「《帰り道》が、あいつらを避けたってことか?」
「どうでしょう」
「どうでしょうって」
「俺にも分からないんですよ」
森岡さんの顔が微妙になる。
「自分のスキルなのに?」
「見えるのは道だけなので」
神代さんが小さく息を吐いた。
笑ったようにも聞こえた。
「本当に、説明しにくいスキルなんですね」
「すみません」
「謝るところじゃないです」
その時だった。
後ろから小さな声がする。
「……ちょっと待って」
全員が振り返った。
パーティの最後尾にいた男性が壁に手をついていた。
二十代後半くらいだろうか。
顔色があまり良くない。
神代さんがすぐに近づく。
「榊原さん?」
「大丈夫。ちょっと足が……」
男――榊原さんが右足を浮かせた。
よく見ると、膝から下の装備に血が滲んでいる。
神代さんの表情が変わった。
「さっきより悪くなってるじゃないですか」
「走ったからだと思う」
「見せてください」
金髪の女性がすぐにしゃがむ。
「私が見ます」
彼女はローブの裾を整え、榊原さんの脚へ手を伸ばした。
装備を少しずらすと、深い裂傷が見えた。
俺でも分かる。
歩けなくはない。
でも、このまま無理をすれば悪化する。
「止血はできてる。でも筋肉まで傷が入ってるわね」
女性が言った。
「治せる?」
神代さんが聞く。
「完全には無理。応急処置ならできるけど、しばらく走らせないほうがいい」
「分かった」
神代さんは即座に頷いた。
榊原さんが申し訳なさそうに口を開く。
「悪い。さっきのオーガ戦でやったんだと思う」
「なんで言わなかったんですか」
「歩けたから」
「今歩けなくなったら意味ないでしょう」
言葉は強いが、本気で怒っているわけではない。
心配しているのが分かる。
榊原さんもそれを分かっているらしく、苦笑していた。
俺は少し離れたところから、そのやり取りを見ていた。
そして、ふと足元に目を落とす。
光が揺れた。
「……ん?」
思わず声が出る。
神代さんが振り返った。
「どうしました?」
返事をする前に、光が動き始める。
それまで右へ曲がっていた道が、ゆっくりと薄くなっていく。
代わりに別の光が浮かんだ。
左。
さっきまで何も示されていなかった通路だ。
しかも、かなり遠回りする方向へ伸びている。
「また変わった」
俺が言うと、神代さんが立ち上がった。
「今度は何が?」
「分かりません」
俺は榊原さんを見る。
さっきまで普通に歩いていた。
今は足をかばっている。
それ以外に大きな変化はない。
「もしかして」
神代さんがこちらを見る。
俺も同じことを考えていた。
「榊原さん」
「はい?」
「ちょっとだけ、立てますか」
「大丈夫です」
榊原さんが立ち上がる。
ただ、右足に体重をかけると顔をしかめた。
俺は光を見る。
変わらない。
左の道だ。
「やっぱり」
「何がですか?」
榊原さんが尋ねる。
俺は少し考えてから答えた。
「たぶん、榊原さんがさっきの道を通れなくなったんだと思います」
一瞬、誰も意味を理解できなかったらしい。
森岡さんが聞き返す。
「通れなくなった?」
「さっきまでの道、この先にかなり足場の悪い場所があったんじゃないですかね」
「なんでそれが分かる?」
「分かりません。ただ」
俺は足元を指す。
「榊原さんが怪我を悪化させたら、道が変わったので」
神代さんの視線が榊原さんへ向く。
それから俺へ戻った。
「つまり、《帰り道》は久世さんが通れる道じゃない?」
「そうみたいです」
自分で言いながら、俺も改めて考える。
今まで一人で帰る時と、誰かを連れて帰る時で道が違うことはあった。
でも、その理由を深く考えたことはなかった。
救難対象が増えれば、道が変わることもある。
足を痛めた人がいれば、階段を避けることもあった。
当たり前すぎて気にしていなかった。
神代さんが口を開く。
「一緒にいる全員が帰れる道を選んでる?」
「たぶん」
森岡さんが呆れたような声を出す。
「それ、最初に言ってくれよ」
「俺も今、ちゃんと分かりました」
「今?」
「はい」
「怖いな、この人」
森岡さんが真顔で言った。
神代さんが思わず吹き出す。
俺も否定できない。
ただ、笑っていられるのも今のうちだった。
榊原さんの傷を考えれば、早めに地上へ出たほうがいい。
「とりあえず、道は出てます」
俺は左の通路を見る。
「こっちなら、榊原さんも帰れるはずです」
「遠回りになりますか?」
神代さんが聞く。
「たぶん」
「また、たぶんなんですね」
「すみません」
今度は本当に笑われた。
金髪の女性――橘さんが簡単な治療を終えた後、俺たちは再び歩き始めた。
榊原さんは森岡さんに肩を貸してもらっている。
速度はかなり落ちた。
その代わり、光は安定している。
通路も比較的平坦だった。
「本当に段差が少ない」
橘さんが感心したように言う。
「さっきまでの道、この先に急な下りがあったはずよ」
森岡さんが振り返る。
「ってことは、マジで怪我人に合わせてるのか」
「みたいですね」
俺が答えると、神代さんが横に並んだ。
「久世さん」
「はい」
「一つ聞いていいですか」
「どうぞ」
「もし一人だけ置いていったら?」
足が止まりそうになった。
神代さんの声に悪意はなかった。
純粋に能力を確認したいのだと思う。
後ろにいる榊原さんもこちらを見ている。
俺は少し考えた。
「たぶん、道は変わると思います」
「やっぱり?」
「さっきまでの近い道に戻るかもしれません」
榊原さんが気まずそうに笑う。
「じゃあ、俺がいないほうが早いんだな」
「そうかもしれません」
正直に答えた。
神代さんは黙っている。
何か続きを待っているようだった。
俺は足元の光を見る。
全員で帰るための道。
俺一人なら、きっと別の場所を通る。
神代さんたち五人でも違うだろう。
そこから誰か一人減れば、また変わる。
でも。
「まあ、試す必要はないですよ」
榊原さんが目を瞬いた。
「え?」
「置いていかないので」
俺はそのまま歩く。
後ろが少し静かになった。
「でも、俺のせいで時間かかってるんですよね?」
榊原さんが言う。
「そうですね」
「そこは否定してくれないんだ」
森岡さんが笑った。
俺も少し笑う。
「事実なので。でも、全員で帰れる道が出てるなら、それでいいでしょう」
「……全員で?」
「一人置いて帰ったら、それは帰り道じゃないですから」
言ってから、少し格好つけすぎたかと思った。
普段ならそんなことは口にしない。
でも榊原さんは、もう何も言わなかった。
代わりに神代さんが隣で小さく笑った。
「久世さんらしいですね」
「今日会ったばかりですよね?」
「今のところは、です」
よく分からない。
けれど神代さんの表情は、最初に会った時よりずっと柔らかくなっていた。
それから二十分ほど進んだ。
追ってくる魔物はいない。
大きな戦闘もなかった。
遠回りではあるが、今までよりずっと歩きやすい道だった。
「そろそろ第十七層に上がってもおかしくない距離だけど」
森岡さんが言う。
俺も同じことを考えていた。
光は変わらず前へ伸びている。
あと少し。
そう思って角を曲がる。
俺は立ち止まった。
「……これは」
後ろから来た神代さんも足を止める。
「どうしました?」
その問いには答えず、前を見る。
通路が途切れていた。
正確には、床そのものがない。
階層変動で大きく崩れたらしく、目の前には巨大な裂け目が広がっている。
向こう岸まで十メートル以上。
底は暗くて見えない。
森岡さんが俺の横へ来た。
「おいおい……」
橘さんも顔をしかめる。
「ここを越えるの?」
普通の探索者なら、装備やスキル次第で可能かもしれない。
神代さんなら飛び越えられる可能性すらある。
だが、負傷した榊原さんがいる。
全員で越えるのは簡単ではない。
俺は足元を見る。
光は消えていなかった。
むしろ、はっきりと伸びている。
裂け目の手前まで。
そして――。
「久世さん?」
神代さんに呼ばれる。
俺は黙ったまま目で光を追う。
崖の縁。
その先。
光は裂け目を一直線に渡っているわけではなかった。
壁際へ伸びている。
崩れた岩の陰。
普通なら通路があるとは思えない場所へ。
「……まだ道があります」
俺はそちらを指した。
神代さんたちも視線を向ける。
森岡さんが首を傾げる。
「どこに?」
「俺にも、まだ分かりません」
「またそれか」
「でも」
俺は光から目を離さなかった。
少なくとも、ここで終わりではない。
「帰れる道は、ちゃんと続いてます」




