第28話 見えなくても帰れる
「帰れます」
そう伝えると、七人の表情が少しだけ緩んだ。
とはいえ、ここはまだ濃霧の真ん中だ。数メートル先さえまともに見えず、近くでは排水路の水音が響いている。
俺たちが合流したことで人数は十一人になった。救助されていた探索者が二人、先に救助へ入った救難班が五人。そして、迎えに来た俺たち四人だ。
人数が増えれば、それだけ霧の中で誰かが離れる危険も増える。
救難班の責任者が俺の足元へ視線を向けた。当然、彼には《帰り道》の光は見えていない。
「久世さん、どっちだ?」
「こっちです。少し先で右に曲がります」
俺が指した先には白い霧しか見えない。
男性は一度頷くと、すぐに仲間へ声をかけた。
「全員、帰還隊列を組む。ロープを出せ」
動きは早かった。
俺が一人ずつ指示しなくても、救難員たちは自分たちで装備を取り出していく。一本の長いロープに全員を一直線でつなぐのではなく、数人ずつ短く区切り、それぞれをさらに別のロープで接続する形だった。
「久世さんは先頭ですか?」
神代さんが聞く。
俺が答える前に、救難班の責任者が首を横に振った。
「いや、先頭はうちの人間を出す。久世さんは二番目で方向を指示してくれ」
「そのほうが助かります」
足元に道が見えていても、霧の向こうに何があるのかまでは分からない。魔物も障害物も、《帰り道》は教えてくれない。
それなら、現場経験のある救難員に前を任せるほうがいい。
神代さんは俺のすぐ後ろへ入った。
「私はここで」
「前じゃなくていいんですか?」
「今日は久世さんを見失わないほうが大事なので」
「ロープにつながってますよ」
「念のためです」
信用されているのか、されていないのか分からない。
最後にそれぞれの接続を確認し、救難班の責任者が声を張る。
「七名、こっちは準備完了!」
迎えに来た側の救難員も返す。
「こちら四名、問題なし!」
十一人。
全員いる。
俺はもう一度《帰り道》を見る。白い霧に床が覆われていても、淡い光だけは途切れずに伸びていた。
「行きましょう」
帰り始めてすぐに、普段とは違う難しさが分かった。
俺には道が見える。でも、それ以外の十人には見えない。
「少し右です」
先頭の救難員が俺の指示に合わせて右へ寄る。
「そのまま真っ直ぐ。五メートルくらいで左です」
「了解」
短いやり取りを繰り返しながら進んでいく。
後ろからも確認の声が続いた。
「三番、問題なし」
「後方もついてる」
「間隔そのまま」
救助対象が不慣れな探索者だけだった時とは、やはり動きが違う。誰かが少し遅れれば周囲がすぐ気づき、前後の速度が自然に落ちる。怖がって勝手に走り出す人もいない。
救難員が救難されている。言葉だけ聞けば少し変だけど、一緒に歩いてみれば彼らはやっぱり救難のプロだった。
「久世さん」
後ろから神代さんの声がする。
「はい?」
「霧があっても光は変わらないんですね」
「今のところは」
「見えにくくなったりもしない?」
俺は足元を確認する。
「大丈夫です。むしろ周りが白い分、普段より目立つくらいです」
「こういう時には便利ですね」
「人を見つける時にも見えれば、もっと便利なんですけどね」
「それは欲張りじゃないですか?」
「俺のスキルなのに?」
神代さんが小さく笑った。
こんな状況でも普通に話せるくらいには、今のところ順調だった。
しばらく進むと、先頭の救難員が手を上げた。
「止まります」
隊列全体がゆっくり停止する。
「どうしました?」
「分岐です。壁表示が見えません」
霧が濃すぎて、数歩先にあるはずの表示板さえ読み取れない。
俺は光を追った。
「左です」
「了解」
救難員は念のため壁際まで近づき、ライトを当てる。
「表示ありました。W-15です」
後ろにいた救難班の責任者が反応した。
「W-15?」
「はい」
男性はしばらく壁の番号を見たあと、苦笑した。
「俺たち、ここを通ったはずだ」
「覚えてないんですか?」
「救助した二人を連れて戻る途中、俺たちは左へ曲がったつもりだった。でも、たぶん別の分岐で一つずれたんだ」
霧の中では、目印そのものが見えない。
地図を持っていても、今いる場所を間違えれば、その後の判断もずれていく。一度なら修正できても、何度も曲がればどこで間違えたのかさえ分からなくなる。
責任者が俺を見る。
「これ、助かるな」
「《帰り道》ですか?」
「ああ」
「こういう時は俺もそう思います」
普段なら地図や標識だけで十分な場所だ。でも、それらが使えなくなった時、この光は強い。
もっとも、だからといって俺一人で全員を帰せるわけではない。
「進みます」
俺たちは左の通路へ入った。
十分ほど進んだところで、神代さんが急に足を止めた。
ロープが軽く引かれ、俺もその場で止まる。
「久世さん」
声が低い。
「何かいます?」
「います」
前方の救難員も警戒してライトを上げるが、白い霧が光を散らしてしまい、遠くまでは届かない。
「どの辺りです?」
「右前です。たぶん一体」
神代さんが剣の柄へ手をかける。
少しして、霧の中から低い唸り声が聞こえてきた。後方の救難員たちもすぐに反応し、救助された探索者二人を隊列の中央へ寄せる。
俺は足元を確認した。
《帰り道》は真っ直ぐ伸びている。
魔物がいるらしい方向へ。
これまでの救難でも、光が示す道に魔物がいたことはある。《帰り道》が教えてくれるのは、危険が一切ない道ではなく、全員で帰るための道だ。
「神代さん」
「はい」
「戦わずに通れそうですか?」
しばらく返事はなかった。
神代さんは霧の向こうから聞こえる音に集中している。
やがて、少しだけ身体の向きを変えた。
「こちらには気づいていると思います。でも、近づいてきてはいません」
「なら待ちましょう」
「私もそのほうがいいと思います」
神代さんは剣を抜かなかった。
全員で壁際へ寄り、声を落として待つ。
霧の向こうから聞こえていた唸り声は、ゆっくり右へ移動していった。足音も少しずつ遠ざかり、やがて聞こえなくなる。
神代さんは念のためさらに数秒待ってから、剣の柄から手を離した。
「大丈夫です。離れました」
責任者が確認する。
「追わなくていいな?」
「はい。目的は帰ることなので」
迷いのない答えだった。
俺は思わず神代さんを見る。
初めて救難に参加した頃は、目の前に魔物が現れれば、倒して危険をなくすことを真っ先に考えていた。それが今では、必要のない戦闘なら避ける判断を自然に選んでいる。
「久世さん?」
視線に気づかれた。
「何か?」
「いえ。救難に慣れたなと思って」
神代さんが少し嬉しそうにする。
「褒めてます?」
「褒めてます」
「ありがとうございます」
素直に受け取られると、こっちが少し恥ずかしい。
「進みましょう」
誤魔化すように言うと、神代さんが笑った。
さらに進んだところで、後方から「止めて!」と声が上がった。
隊列全体がその場で止まる。
「どうした?」
責任者が聞く。
「後ろのロープが絡んでます。壁から出ている金具に引っかかりました」
最後尾に近い場所で、接続用のロープが金属片へ引っかかったらしい。視界が悪いせいで、通過する時には気づけなかったようだ。
「外します。そのまま待機してください」
救難員が対応を始める。
その時、救助された探索者の一人が不安そうに周囲を見た。
「これ、大丈夫なんですか?」
近くにいた救難員がすぐに答える。
「大丈夫です。ロープが引っかかっただけなので、すぐ外れます」
「でも、また道が分からなくなったら……」
無理もない。
この二人は救難班と合流する前から濃霧の中に取り残されていた。ようやく助かったと思ったら、今度は迎えに来た救難班まで現在地を見失った。
帰れると言われても、すぐには信じ切れないだろう。
俺は少し後ろへ声をかけた。
「《帰り道》はまだ出てますよ」
探索者がこちらを見る。霧のせいで表情まではよく見えない。
「本当に?」
「はい。さっきから方向も変わってません」
「地上まで続いてるんですか?」
「帰るための道なので」
俺の目で地上まで全部を見通せるわけではない。
でも、この光が地上へ帰るための道だということは分かっている。
「だから、今はロープが外れるまで待っていれば大丈夫です」
少し間を置いて返事があった。
「……分かりました」
数十秒後、引っかかっていたロープが外れた。
出発前にもう一度人数を確認する。
十一人。
誰も欠けていない。
「再開します」
今度は少しだけ速度を落とした。
霧が薄くなり始めたのは、それから二十分ほど経った頃だった。
最初に気づいたのは前方の照明だ。
今まではぼんやりとした光の塊にしか見えなかったものが、少しずつ照明器具の形まで分かるようになっていく。
「視界、戻ってきましたね」
神代さんが言う。
俺も前を見る。
五メートル、十メートル。まだ完全ではないけれど、少なくとも反対側の壁まで普通に見える。
先頭の救難員が案内表示を確認した。
「東西連絡通路です」
救難班の責任者が安堵したように息を吐く。
「ここまで来れば、もう分かる」
地図上でも第六層の中央寄りまで戻っている。霧の影響が弱い区域らしく、通信端末の表示も安定し始めた。
責任者が救難所へ連絡する。
「救難班です。捜索班と合流し、現在十一名で帰還中。全員無事です」
返事はすぐに来た。
『了解。現在位置はこっちでも確認できてる』
相馬さんの声だった。
『そこから先は通常ルートで戻れる。焦らず帰ってこい』
「了解」
通信が切れる。
俺は足元を見る。
《帰り道》はまだ続いている。ただ、周囲の景色が見えるようになっただけで、さっきまでよりずっと気楽に感じた。
救難班の責任者が俺の近くへ来る。
「久世さん」
「はい?」
「助かった」
「まだ地上じゃないですよ」
「そう言うと思った」
笑われた。
男性は少し後ろを振り返る。仲間の救難員たちも、救助した探索者二人も無事に歩いている。
「今日はちょっと身に染みたよ」
「何がです?」
「救難される側の気持ちだ」
男性は苦笑した。
「普段は俺たちが『大丈夫です』って言う側だからな。迎えに来てもらって、帰れるって言われるのがこんなに安心するとは思わなかった」
俺は少し考えてから答えた。
「じゃあ、次から救助する時に役立ちますね」
男性が一瞬黙ったあと、笑った。
「そういう返しするんだな」
「何て言えばよかったです?」
「いや。それでいい」
神代さんも隣で笑っている。
何がおかしいのか分からない。
前方には、第六層から第五層へ上がる通常階段が見えていた。
今度は霧の向こうにぼんやり浮かんでいるのではなく、手すりも段差も自分の目ではっきり確認できる。
「もうすぐ階段です」
俺が伝えると、後ろのほうから何人かが息を吐く音が聞こえた。
救難班の責任者も階段を見て、少しだけ肩の力を抜く。
「ここまで来れば、だいぶ楽になるな」
「ですね」
《帰り道》の光は、その階段を上へ伸びている。
まだ地上ではない。
それでも、白い霧しか見えなかった場所から、ようやく次に進む場所を自分たちの目で確認できた。
俺たちは隊列を崩さないまま、第五層へ続く階段を上り始めた。




