第25話 全員、地上へ
細い保守通路へ入ると、水の勢いは目に見えて弱くなった。
背後ではまだ水が増えているが、こちらは床そのものが少しずつ高くなっている。最初は太腿まであった水も、数分進むうちに膝より下まで下がった。
「だいぶ楽になりましたね」
神代さんが振り返る。
「ですね」
俺もようやく普通に足を上げられるようになった。
さっきまで水を押しながら歩いていたせいで、脚が重い。出張から帰ったら、明日は筋肉痛かもしれない。
吉岡さんは現地救難員二人に前後から支えられながら進んでいる。右足は固定してあるものの、段差を越えるたびに顔をしかめていた。
「吉岡さん、痛みは?」
前を歩きながら聞く。
「さっきと同じくらいです」
「増えてはいない?」
「はい」
それなら今のところは大丈夫そうだ。
隣を歩く佐野さんが心配そうに吉岡さんを見る。
「無理なら言えよ」
「言ってるだろ」
「お前、大丈夫って言うから信用できないんだよ」
「お前にだけは言われたくない」
「何でだよ」
「去年、熱出したまま潜ったの誰だっけ」
「三十七度ちょっとだっただろ」
「三十八度二分」
「細かいな」
二人とも、さっきまで水に取り残されていたとは思えない。
でも、このくらい話せる余裕が戻ったなら悪いことではない。
俺は足元へ視線を戻す。
《帰り道》の光は、細い通路の中央をまっすぐ上へ伸びていた。
「次の分岐、左です」
「了解です」
先頭の神代さんが左へ曲がる。
現地救難員も端末で現在位置を確認した。
「このまま行けば、十分ほどで中央区画側の保守階段に出ます」
「そこまで行けば水は?」
「ほぼありません」
その言葉に、佐野さんが露骨に安心した顔をした。
「水、しばらく見たくないな」
「俺もです」
思わず同意すると、神代さんが笑った。
「久世さん、一番嫌そうでしたもんね」
「実際嫌でしたから」
「泳げるんですよね?」
「泳げるのと、ダンジョンで流されるのは別です」
現地救難員まで笑っている。
少し前なら、こんな会話をしている余裕はなかった。
ただ、安心しすぎるのも早い。
俺は前方を見る。保守通路は狭いが、崩れている様子はなく、水位も下がり続けている。《帰り道》の光も変わらず先へ伸びていた。
「このまま進みます」
「了解です」
現地救難員が答え、俺たちはそのまま奥へ進んだ。
それから数分ほど進んだところで、先頭の神代さんが足を止めた。
「止まってください」
神代さんの声に、俺たちもその場で止まる。
前を見ると、崩れた配管が通路を塞いでいた。。
大きな金属管が壁から外れ、通路を斜めに塞いでいる。完全に通れないわけではないが、下をくぐるにはかなり姿勢を低くしなければならない。
普通なら問題ない。
でも今は吉岡さんがいる。
右足を怪我した状態で身体を大きく屈め、そのまま狭い隙間を抜けるのは難しい。
「これですね」
俺が言う。
現地救難員も頷く。
「おそらく」
佐野さんが配管の隙間を覗く。
「俺なら通れますけど、吉岡はきついな」
「無理ですね」
救難員が即答した。
吉岡さん本人も苦笑する。
「ですよね」
俺は光を見る。
線は配管の向こうへ続いている。
道はこっちで間違いない。
「どかせます?」
俺が聞くと、救難員が配管を確認した。
「人力では厳しいですね。固定部がまだ一部つながっています」
神代さんが近づく。
「私なら動かせるかもしれません」
「神代さん」
「持ち上げるだけです。壊しません」
先回りして言われた。
俺は何も言っていない。
「一度見てもらっていいですか」
現地救難員が配管の状態を確認しながら、神代さんへ持つ位置を指示する。
「ここを少し持ち上げられれば、下に支えを入れられます。ただ、無理に上げると残っている固定部が外れる可能性があります」
「どのくらい?」
「十センチあれば十分です」
「分かりました」
神代さんが配管へ手を掛ける。
佐野さんが目を丸くした。
「まさか持ち上げるんですか?」
「少しだけです」
「これ、何キロあるんだ……」
俺も知らない。
知りたくもない。
「上げます」
神代さんが力を入れる。
ゆっくり。
本当に配管が浮いた。
数センチ。
さらに少し。
「そこで!」
現地救難員が素早く支えを差し込む。
もう一人も反対側へ補助具を入れた。
「固定しました!」
神代さんが慎重に手を離す。
配管はさっきより少し高い位置で止まった。
「これなら?」
「通せます」
吉岡さんの身体を支えながら、一人ずつ隙間を抜ける。
佐野さん。
俺。
続いて吉岡さん。
痛めている右足をできるだけ曲げず、救難員二人が身体を支える。
「ゆっくりで大丈夫です」
「はい」
途中で一度止まったものの、無理に急がせない。
数十秒かけて、ようやく反対側へ抜けた。
「大丈夫?」
佐野さんがすぐに近づく。
「大丈夫。今のはそんなに痛くなかった」
「本当に?」
「今度は本当」
佐野さんはまだ疑っている顔だった。
俺も念のため確認する。
「痛み、増えてません?」
「大丈夫です」
表情にも余裕がある。
今度は信用してよさそうだ。
俺は配管の向こうへ続く光を見る。
《帰り道》が示していた方向は変わっていない。ただ、道が分かったからといって、そのまま歩いて通れるとは限らない。
今回だって、神代さんが配管を持ち上げ、現地の救難員が安全を確認してくれたから全員で抜けることができた。
《帰り道》が教えてくれるのは、帰るための方向だ。実際にそこを通るために必要なことは、自分たちでやらなければならない。
だから、俺一人で誰かを帰しているわけじゃない。
「久世さん」
神代さんが呼ぶ。
「はい?」
「道は?」
「このままです」
「なら行きましょう」
「はい」
俺たちは再び歩き始めた。
現地救難員が言った通り、十分ほどで保守階段へ着いた。
階段の途中からは水がなくなっている。
濡れたブーツで普通の床を踏んだ瞬間、それだけで妙に安心した。
「水がないって素晴らしいですね」
俺が言う。
佐野さんが笑う。
「分かります」
神代さんだけが不思議そうだった。
「そこまでですか?」
「神代さん、流されてないからですよ」
「久世さんも完全には流されてませんけど」
まだ言う。
階段を上る。
吉岡さんは右足を使えないため、救難員が補助しながら一段ずつ進んだ。
少し時間はかかったが、急ぐ必要はない。
水はもう追ってきていない。
階段を抜けたところで、照明の明るい通路へ出た。
「中央区画です」
現地救難員の声にも安堵が混じっている。
通信も安定していた。
すぐに三枝さんへ連絡を入れる。
「救助班より指揮所。佐野さん、吉岡さん両名を中央区画まで搬送しました。二名とも状態安定」
『了解。迎えの班を向かわせています』
「真鍋さんは?」
佐野さんがすぐに聞いた。
三枝さんの返事が通信から聞こえる。
『真鍋さんはすでに地上へ搬送済みです。軽い擦り傷と冷えだけで、大きな問題はありません』
佐野さんと吉岡さんが顔を見合わせた。
「地上まで戻ったんだ」
「よかったな」
吉岡さんが小さく笑う。
これで、残っていた二人も安全区画まで来た。
あとは地上へ帰るだけだ。
足元の光も、よく知っている普通の通路を示している。
しばらくすると迎えの救難班が到着し、吉岡さんは搬送用の椅子へ移された。
「歩かなくていいんですか?」
本人は少し嬉しそうだ。
「ここからは乗ってください」
「助かります」
佐野さんもようやく完全に肩の力を抜いたようだった。
「久世さん」
「はい」
「ここからはもう大丈夫なんですよね」
光を見る。
中央区画から上層へ。
その先まで真っ直ぐ続いている。
「はい。帰れます」
佐野さんが笑った。
「その言葉、すごい安心しますね」
「そうですか?」
「ここに来るまで、何回ももう駄目だと思ったので」
吉岡さんも搬送椅子から頷く。
「俺もです。水に流された時、本気で終わったと思いました」
二人の声に、さっきまでの冗談っぽさはなかった。
俺は何と返せばいいか少し迷った。
こういう時、気の利いたことはあまり言えない。
「じゃあ」
俺は上へ続く通路を見る。
「最後まで帰りましょう」
それで十分だと思う。
地上へ出たのは、それから一時間ほど後だった。
ダンジョン施設の出口には、三枝さんをはじめ現地の救難スタッフが待っていた。
その少し後ろに、真鍋さんもいる。
こちらを見つけた瞬間、真鍋さんが走り出しかけて止められた。
「真鍋!」
佐野さんが手を上げる。
「二人とも!」
真鍋さんの顔が崩れた。
笑っているのか泣いているのか分からない。
「遅い!」
「ごめん」
「何してたの!」
「流されてた」
「知ってる!」
佐野さんが苦笑する。
吉岡さんも搬送椅子に乗ったまま手を上げた。
「俺、足やった」
「見れば分かる!」
真鍋さんが吉岡さんの前へしゃがむ。
「大丈夫なの?」
「たぶん捻挫」
「たぶんじゃ分かんないでしょ」
「今から診てもらう」
三人の会話を聞きながら、俺は少し離れた。
あとは医療班の仕事だ。
三枝さんがこちらへ歩いてくる。
「久世さん、神代さん。ありがとうございました」
「現地の皆さんのおかげです」
本当にそうだった。
俺だけでは、水の中をどう進めばいいかすら分からなかった。
「《帰り道》がなければ、あの状況で帰還ルートを決めるのにもっと時間がかかっていました」
三枝さんはそう言ってから、少し笑った。
「知らないダンジョンでも使えるんですね」
「俺も今日知りました」
三枝さんが一瞬きょとんとする。
神代さんが横で笑った。
「久世さん、本当に自分のスキルをあまり調べてないんです」
「必要になった時に分かればいいかなと」
「普通は逆ですよ」
三枝さんまで笑う。
ただ、そのあと少し真面目な表情になった。
「一つ聞いても?」
「はい」
「途中でルートが変わった時、怖くありませんでしたか」
水位が上がり、最初に目指していた階段から保守通路へ切り替わった時のことだろう。
「怖かったですよ」
「それでも迷わなかった」
「道が変わること自体は何度かあったので」
怪我人の状態。
崩落。
今回の水。
状況が変われば、《帰り道》も変わる。
「それに、俺が見えてるのは方向だけです」
三枝さんを見る。
「そこを本当に通れるか判断してくれたのは、ここの救難班なので」
三枝さんは少し黙ってから頷いた。
「なるほど」
俺にできること。
現地の人にできること。
神代さんにできること。
今回は、それがうまく合った。
三枝さんが三人の探索者を見る。
真鍋さんがまだ佐野さんに何か言っている。
佐野さんは謝っている。
吉岡さんは横から笑っている。
「三人とも帰せましたね」
「はい」
それが一番大事だ。
「久世さん」
三枝さんがもう一度こちらを見る。
「またこちらで救難があった場合、応援をお願いすることはできますか?」
俺は少し考えた。
「相馬さんに聞いてください」
「久世さん本人ではなく?」
「俺の上司なので」
神代さんが横で笑う。
「久世さんらしいです」
「勝手に出張増やしたら怒られますよ」
「それはそうですね」
三枝さんも納得した。
帰りの車へ乗る前、現地のスタッフから小さな紙袋を渡された。
「これ、よければ皆さんで」
中を見る。
地元の菓子だった。
「もらっていいんですか?」
「もちろんです」
神代さんが受け取る。
「ありがとうございます」
俺も頭を下げた。
車に乗り込む。
今日は朝からずっと濡れていた気がする。
ようやく乾いた服で座れる。
「疲れましたね」
神代さんが言う。
「かなり」
「でも三人とも帰れました」
「そうですね」
真鍋さん。
佐野さん。
吉岡さん。
三人とも地上へ戻った。
それなら出張した意味はあった。
神代さんが紙袋を見る。
「これ、小日向さん喜びそうですね」
「全部食べるんじゃないですか」
「久世さんの分も取っておきます」
「お願いします」
車が動き出す。
窓の外で、山間部のダンジョン施設が少しずつ遠ざかっていった。
知らない場所だった。
水の中で《帰り道》が見えることも、今日初めて知った。
でも結局、やったことはいつもと同じだ。
帰れなくなった人を見つけて、帰れる道を確認して、みんなで地上へ戻る。
場所が変わっても、それだけは変わらなかった。




