第24話 水が上がる
「佐野さん! 吉岡さん! 今からそっちへ行きます!」
現地救難員が防水扉の向こうへ声を飛ばすと、すぐに返事があった。
「分かりました!」
二人とも声は出せている。少なくとも意識ははっきりしているようだ。
問題は、その間にある水だった。
半分開いた防水扉の向こうでは、こちらより強い流れが通路を横切っている。水深も腰近くまであり、奥へ進むほど深くなっているように見えた。
救難員が確認棒を入れ、床の状態を探る。
「扉を抜けて五メートルほどは歩けます。その先に段差があります」
「段差?」
俺が聞く。
「保守用の床が一段下がっています。今の水位だと胸近くまで来る可能性があります」
また胸か。
今日だけで、水に対する苦手意識がだいぶ増えた気がする。
「ロープを張ります」
もう一人の救難員が、こちら側のアンカーへ主ロープを固定する。
神代さんは防水扉の向こうを見ながら聞いた。
「二人がいる場所は高いんですよね?」
「はい。この先に点検用の足場があります。おそらくそこです」
「なら、まず私が行きます」
救難員が頷き、神代さんのハーネスへロープを接続した。
「向こう側のアンカーを確認してください。使えれば固定をお願いします」
「分かりました」
神代さんが水へ入る。
扉を抜けた直後は腰ほどだったが、数歩進んだところで身体が大きく沈んだ。
それでも体勢は崩さない。
「大丈夫です!」
こちらへ声を返し、そのままロープを頼りに進んでいく。
俺は見ているだけなのに力が入った。
しばらくして神代さんが奥の手すりへ到着し、そこから少し高くなった足場へ上がる。
「二人います!」
その声に、ようやく少し安心した。
「状態は?」
救難員が叫ぶ。
神代さんが二人を確認する。
「一人は問題なく動けます! もう一人は右足首を痛めています。意識ははっきりしています!」
資料では佐野さんと吉岡さんはどちらも二十代の男性だった。
怪我をしているのは吉岡さんだろう。
「久世さん」
救難員が俺を見る。
「次お願いします」
「はい」
もう逃げる発想はない。
少しは慣れたのかもしれない。
ハーネスを確認し、ロープへ接続する。
「段差のところで無理に立たないでください。ロープに体重を預けて進んでください」
「分かりました」
水へ入る。
冷たさには相変わらず慣れない。
防水扉を抜け、ロープを握りながら進む。三歩、四歩と進んだところで床が急に低くなり、身体が沈んだ。
今回は分かっていたので、さっきほど慌てなかった。
それでも楽ではない。
水の流れに身体を持っていかれそうになるたび、ロープを握る手に力を入れる。
「久世さん、ゆっくりで大丈夫です!」
神代さんの声が聞こえる。
俺は返事の代わりに手を上げ、そのまま少しずつ進んだ。
ようやく足が床につく。
手すりをつかみ、点検用の足場へ上がった時には、かなり息が上がっていた。
「お疲れさまです」
神代さんが手を差し出してくれる。
「ありがとうございます」
「さっきより上手でしたよ」
「褒められてます?」
「もちろんです」
基準がかなり低い気もする。
それでも無事に着いた。
足場の奥には、二人の男性が座っていた。
片方は服も髪もびしょ濡れで、顔にいくつか擦り傷がある。もう一人は壁に背中を預け、右足を前へ伸ばしていた。
「佐野さんと吉岡さんですね」
俺が声をかける。
無傷に近いほうの男性が頷いた。
「俺が佐野です。こっちが吉岡」
「吉岡です」
声は弱いが、受け答えはしっかりしている。
「久世です。救難で来ました」
佐野さんが俺の顔を見て、少し目を見開いた。
「あの《帰り道》の?」
「はい」
「本当に来た……」
今日は何度目だろう。
「真鍋さんは?」
吉岡さんがすぐに聞いた。
「無事です。もう安全区画まで戻っています」
二人の表情が一気に緩んだ。
佐野さんがその場に座ったまま、深く息を吐く。
「よかった……」
「ずっと気にしてました?」
神代さんが聞く。
「当たり前ですよ。あいつだけ手前に残ったのが見えて、そのあと何も分からなくなったから」
佐野さんは苦笑する。
「こっちも水に流されて、それどころじゃなかったですけど」
「どうやってここまで?」
俺が聞く。
「途中で手すりにつかまりました。そのまま二人で高い場所を探して、ここまで」
佐野さんが吉岡さんを見る。
「こいつは途中で足をひねりました」
「ひねったっていうか、段差にぶつけました」
吉岡さんが訂正する。
「歩けそうです?」
「ゆっくりなら。でも体重かけるとかなり痛いです」
続いて、現地救難員二人も足場へ上がってきた。
一人が吉岡さんの足を確認する。
「腫れていますね。骨折の可能性は低そうですが、無理に歩かせないほうがいいです」
「担架?」
俺が聞く。
救難員が通路を見る。
「この水量では通常の担架は使いにくいです。簡易固定して、二人で補助して移動させます」
吉岡さんが申し訳なさそうな顔をした。
「すみません」
「謝らなくていいです」
俺は答える。
これも何度目か分からない。
「歩けないなら、歩ける方法に変えればいいだけなので」
救難員が処置をしている間に、俺は二人を改めて見る。
佐野さん。
吉岡さん。
二人とも、連れて帰る。
そう意識して足元へ目を落とした。
淡い光が現れた。
「出ました?」
神代さんがすぐ気づく。
「はい」
光は点検用の足場から通路へ下り、俺たちが入ってきた防水扉とは反対側へ伸びていた。
「また来た道じゃないですね」
神代さんが言う。
「みたいです」
現地救難員が地図を確認する。
俺が光の方向を指すと、少し考え込んだ。
「こちらは南側の保守通路です。中央区画へ抜けられる可能性はあります」
「通れますか?」
「現状なら」
現状。
その言葉が少し気になった。
「水位は?」
「この辺りは緩やかに上昇しています。ただ、今すぐ危険というほどではありません」
救難員は続ける。
「戻ってきたルートは流れが強いです。吉岡さんを補助しながら通すなら、こちらのほうが現実的です」
《帰り道》と現地の判断が一致している。
なら迷う必要はない。
「こっちで行きましょう」
吉岡さんの右足を固定し、救難員二人が左右から身体を支えることになった。
佐野さんは自力で歩ける。
俺と神代さん、佐野さん、吉岡さん、それに現地救難員二人の六人で移動を始めた。
南側の保守通路は、最初こそ水深が膝程度だった。
床も比較的平らで、吉岡さんも左足を中心にゆっくりなら進める。
「痛み、大丈夫ですか?」
俺が聞く。
「大丈夫……と言いたいですけど、怒られそうなので正直に言います」
「お願いします」
「痛いです」
「じゃあそのまま教えてください」
吉岡さんが少し笑う。
「真鍋にも同じこと言ったんですか?」
「似たようなことは」
「やっぱり」
佐野さんが横から口を挟む。
「こいつ、昔から我慢するんですよ」
「お前も人のこと言えないだろ」
「俺は言う」
「この前、肋骨痛めて三日黙ってたじゃん」
「それは別」
二人が言い合う。
声に余裕があるなら、まだ大丈夫そうだ。
俺は前を見ながら光を追う。
「次、左です」
先頭の神代さんが曲がる。
その先は少し下りになっていた。
現地救難員が水位表示を確認する。
「少し深くなります。足元注意してください」
ゆっくり進む。
膝。
太腿。
それでも腰までは来ない。
「このままならいけそうですね」
神代さんが言った。
俺もそう思った。
その直後、遠くで低い音が響いた。
ゴォッ、と水が流れ込むような音。
全員が止まる。
「何です?」
佐野さんが聞く。
現地救難員が端末を見る。
表情が変わった。
「東側の水位が上がっています」
「こっちも?」
「確認します」
数秒後。
通路脇の排水溝から、水が勢いよく逆流し始めた。
「上がってる……」
吉岡さんが呟く。
目で見ても分かる。
さっきまで足首が見えていた場所が、もう水に隠れている。
救難員が通信を入れる。
「こちら救助班。南保守通路で急激な水位上昇を確認!」
ノイズのあと、三枝さんの声が返る。
『こちらでも確認しています。東側の隔壁が一部破損した可能性があります。現在の位置を送ってください』
救難員が情報を送る。
『そのまま南へ抜けられますか?』
「確認します」
俺は足元を見る。
光はまだ前へ伸びている。
「今のところ、道は変わってません」
救難員も前方を確認する。
「なら急ぎましょう。ただし吉岡さんの速度は崩さない」
「分かりました」
走らない。
でも、少しだけ歩調を上げる。
水位はゆっくり上がり続けていた。
太腿。
あと少しで腰まで来る。
吉岡さんの身体を支える二人の負担も増える。
「吉岡さん、どうです?」
「行けます」
今度は表情を見る。
無理をしている感じはある。でも歩けないほどではない。
前方に階段が見えた。
「上がれれば楽になりますね」
神代さんが言う。
俺も光を見る。
その階段へ向かっている。
「はい。このまま――」
言いかけたところで、光が揺れた。
一瞬だけ薄くなり、次の瞬間には方向を変えていた。
「止まってください」
俺が言う。
全員が足を止める。
「久世さん?」
神代さんが振り返る。
俺は光の先を確認する。
さっきまで目指していた階段ではない。
途中の分岐から右へ。
細い保守通路のほうへ伸びている。
「道が変わりました」
現地救難員がすぐに地図を見る。
「今?」
「はい。今です」
光はもう階段へ向かっていない。
「新しい方向は?」
俺が右側を指す。
救難員が地図を拡大した。
「保守用の上り通路です。最終的には中央区画へつながっています」
「通れます?」
「幅は狭いですが通れます。水も入りにくいはずです」
なら決まりだ。
「そっちへ行きましょう」
佐野さんが階段を見る。
「さっきまで、あっちだったんですよね?」
「はい」
「何で変わったんです?」
俺も一度、水位を見る。
さっきより確実に上がっている。
「状況が変わったからだと思います」
「水?」
「たぶん」
確かなことは分からない。
でも、この能力が今まで何度もそうしてきた。
怪我人の状態が変われば道が変わる。
崩落が起これば別の道へ向かう。
そして今は、水が増えた。
「《帰り道》って、途中でも変わるんですね」
佐野さんが言う。
「変わります」
「じゃあ、さっきの道はもう帰れない?」
俺は少し考える。
そこまでは分からない。
「少なくとも、今はこっちを選んでます」
それで十分だと思う。
神代さんが右側の通路を確認する。
「行けます」
現地救難員も頷いた。
「隊列を変えます。狭いので一列。吉岡さんは私たちで前後から支えます」
すぐに動く。
吉岡さんも痛みに耐えながら頷いた。
「すみません」
「だから謝らなくて大丈夫です」
俺が言う。
「今、一番帰りやすい道に変わっただけですから」
吉岡さんが少しだけ笑った。
「便利ですね」
「こういう時は」
俺は光の先を見る。
細い上り通路。
水はまだ流れ込んでいるが、少し先から床が高くなっている。
「行きましょう」
神代さんが先頭へ入り、俺たちも続いた。
背後では水位が上がり続けている。
でも《帰り道》は、もうそこを見ていない。
今の俺たちが帰れる方向だけを、前へ示していた。




