第206話 水底から届く音
相馬さんの机に置かれていたのは、地図でも報告書でもなく、透明な瓶だった。昨日、村の水門から採った水が入っている。底に沈んだ黒い粒は夜のうちに細い筋を作り、瓶を傾けると、遅れて底を滑った。
「触るなよ。技師が封をしてある」
相馬さんはそう言って、俺が椅子へ腰を下ろすのを待った。窓の外は朝市の準備で騒がしい。昨夜の鐘の音を聞いた人が何人いるかは分からないが、少なくとも街の人々はいつもどおりの朝を迎えていた。
「水の検査、結果が出たんですか」
「全部じゃない。飲用に適さないことだけは先に分かった。通常の泥とは違う微細な結晶が混じっている。皮膚に触れたときの影響も調査中だ」
「村の井戸は」
「今のところ異常なし。ただし水源が別だというだけで、今後も安全だと決まったわけじゃない。瀬川が村へ連絡した」
俺は瓶の中身を見直した。薄い青い光が粒の隙間に一度だけ走った気がしたが、天井から差す朝日が反射しただけかもしれない。技師が置いた紙には、瓶を振らないこと、熱を加えないこと、他の採集物と近づけないこと、と注意が並んでいた。
「山の文字について、何か分かりましたか」
「『外側の水路、開放。内側の圧力、未解消』。そこまでは昨日の連絡どおりだ。問題は、外側という言葉がどこを指すかだな」
相馬さんは壁に貼った地形図を指した。第一の門、古い橋、採石場、村の水門。それぞれに色の違う糸が留めてある。測量士が昨夜遅くまで作業したらしく、峡谷の谷底には新しい線が引かれていた。
「黒い水は峡谷を下っている。村へ向かう支流と合流する手前で、一部が岩の下へ消えたらしい。山林管理者の見張りが、昨夜そこまで確認した」
「消えた?」
「地面に染み込んだのか、古い分水路へ入ったのかは不明だ。村側へ出てくる可能性があるから、今日は下流の見張りを増やす。俺たちも行くが、峡谷へ踏み込むつもりはない」
いつもの六人で向かうのかと聞きかけたとき、扉が開いた。フェナが息を弾ませて入ってきて、その後ろに瀬川さんが続く。フェナは紙の橋の模型を抱えていたが、昨日まで模型の下に通していた青い紙が外されている。
「ナオトさん、すみません。先に水路の図を見ていたら、変なところがあって」
「どこだ?」
「昔の地図にある分水路、橋の下から村へ一直線に続いているように見えます。でも、実際の地形だと途中で山を一つ越えないといけないんです。水はそんなふうに上れませんよね」
フェナは机の上に模型を置き、青い紙を二つに折って見せた。片方の線は村の水門へ向かう。もう片方は谷の奥へ戻る。紙の上ではどちらも同じ高さだが、測量士の断面図では村側の方が高い。
「水圧があれば押し上げることもある」と技師が答えた。いつの間にか扉の近くに立っていた。灰色の外套の袖には、昨日の黒い粉が付かないよう新しい革の覆いが縫い付けられている。「ただし、その場合は相応の圧力を保つ設備が必要です。山の中に密閉された管があるかもしれない」
「じゃあ、黒い水が村の方へ来ることも?」
「可能性はあります。今の資料だけでは、どちらへ流れているか分かりません」
技師は即答したあと、瓶を布で覆った。目に見えない水路が山の中を通っているとしたら、村の人たちはその真上で畑を耕し、子どもを遊ばせてきたことになる。これまで何も起きなかった理由も、今になって動き出した理由も分からない。
相馬さんは一度全員を見回した。
「今日の仕事は水の行き先を確かめることだ。門の内部には入らない。魔物を追いかけない。村の設備担当と連絡を取り、下流で異変があれば避難を優先する。俺たち六人だけで山の仕組みを直そうとはしない」
鹿島さんが頷き、盾の留め金を確かめた。昨日、羽の魔物に付けられた傷はまだ残っている。技師と測量士が器材を分担し、俺とフェナは水筒と予備の布を運ぶことになった。
村へ向かう途中、俺たちは橋のたもとで美波とすれ違った。訓練場へ行くところらしく、左手に細長い木箱を抱えている。右手首の固定具は外れていない。
「また山か、久世」
「水がどこへ流れるかを見に行く。今日は下流だ」
「なら、飛ぶ奴に気をつけろ。昨日の話を聞いた。盾の前に人を集めすぎるなよ」
美波は鹿島さんの傷んだ盾を見てから、フェナの模型へ目を移した。
「三角と丸と四角、まだ気になってるのか」
「はい。道標だと思っていたんですけど、もし水路の印なら、意味が違うかもしれません」
「冬真の札は形を触って区別するためのものだ。昔の印も、目で見るためとは限らない。暗い場所や水の中でも分かるように作ったのかもな」
フェナは木箱の中の試作品を見つめた。美波はそれ以上の推測を足さず、左手で箱を抱え直す。
「分からないものは、分からないまま持ち帰れ。答えを急いで怪我をするな」
美波が訓練場へ向かったあと、フェナは手帳に『触るための形かもしれない』と書いた。俺はその隣に歩きながら、いつか彼女が一人で探索へ出る日が来るのだろうかと考えた。心配はある。それでも、彼女の判断をいつまでも俺の後ろへ隠しておくわけにはいかない。
村の入り口では、井戸水を運ぶ荷車が二台並んでいた。村の代表は水門の再開を求める声が強まっていると話したが、昨日の魔物を見た人たちは逆に、沢の近くへ子どもを行かせないよう頼んでいるという。誰か一人の希望を選べば済む話ではなかった。
「下流へ向かう見張りは、うちから二人出します」と村の代表が言った。「ただ、谷の奥には入りません。古い水車のところまでです」
「それで十分です」と相馬さんが答えた。「変化があれば鐘ではなく、伝令で知らせてください。山の鐘と聞き間違えると困る」
俺たちは村人二人を伴って水車の跡へ向かった。六人の調査班と村人二人、合計八人。古い水車は羽根を失い、軸だけが石壁から突き出している。川沿いには使われなくなった石畳が続き、草の間に小さな水抜き穴がいくつも開いていた。
測量士が足元の高さを確かめるあいだ、フェナは水車の軸に残る傷を数えていた。俺は近くの石へ腰を下ろし、川の流れを見た。水面は濁っているが、昨日のような青い光は見えない。これなら何も起きていないと思ってしまいそうだった。
「ナオトさん、あの石の下、音がしませんか」
フェナが指したのは、水車から十歩ほど離れた石畳の継ぎ目だった。耳を近づけると、確かに小さな音がする。水の流れる音ではない。木の桶を指で弾いたときのような、乾いた響きが一定の間隔で続いていた。
技師は石へ直接触れず、細い棒の先を当てて音を聞いた。
「規則的ですね。川の流れと同じ周期ではない。地下に空洞がある可能性があります」
「掘るんですか」と村人の一人が尋ねた。
「今は掘りません。足元が空洞なら、上から崩れるかもしれない」
測量士は石畳の端に印を付け、全員を一段高い土手へ移した。そのとき、川の向こう岸に立つ枯れ木が、風もないのに揺れた。最初は鳥が止まったのかと思った。だが、根元の土が盛り上がり、黒い水が細い筋になって噴き出した。
「離れろ!」
鹿島さんの声に、俺たちは一斉に後退した。噴き出した水は枯れ木の根を濡らし、地面を伝って川へ落ちる。青い光が一度だけ走り、すぐに消えた。水が出た穴からは、小さな甲殻の魔物が二匹、石を押し出すように這い出してきた。
「採石場にいた奴と同じですか」
「大きさは近い。でも、あの石を運んでいた個体と同じかは分からない」と鹿島さんが答えた。
魔物たちは俺たちを見ず、濡れた土へ頭を押し付けていた。甲殻の縁に青い粉が付着している。やがて一匹が川へ飛び込み、もう一匹は枯れ木の下へ戻ろうとした。鹿島さんは剣を抜かず、盾を構えて俺たちと魔物の間に立った。
「刺激しない。あいつらが何をしているか分かるまで近づくな」
相馬さんがそう告げた直後、石畳の下から鈍い衝撃が伝わった。俺の靴底が持ち上がり、川岸の小石が跳ねた。測量士が三脚を抱えて伏せ、村人の一人が悲鳴を上げる。
「水車の軸が動いてる!」
村人の声で振り返ると、錆びついたはずの軸が半回転していた。軸の奥の石壁から、水が滴り始める。昨日まで乾いていた壁だと村人は言った。石畳の継ぎ目からは空気が泡になって吹き出し、乾いた音が一段高くなった。
技師は顔色を変えた。
「圧力が上がっています。ここは古い排水口かもしれない。壁の内側で水が押しているなら、破裂する前に距離を取るべきです」
「全員、土手の上へ!」
相馬さんが村人二人を先に走らせ、俺たちも続いた。フェナは模型を抱えたまま立ち尽くしていたが、俺が呼ぶとすぐに動いた。土手へ上がる直前、足元の石が割れ、黒い水が細い柱になって噴き出した。俺の背中へ冷たい飛沫が掛かる。
鹿島さんが盾を横へ向け、飛び散った石片を受けた。盾の縁で金属が鳴り、俺は思わず身を縮める。だが鹿島さんはその場で戦おうとせず、俺たちが上がったのを確かめてから土手へ飛び移った。
「全員いるか!」
「村の方が二人、技師、測量士、鹿島さん、相馬さん、ナオトさん、私。八人です!」
フェナは一人ずつ指を差して答えた。相馬さんが人数を確認し、村の代表へ伝令を送るよう指示する。村人の一人が街道へ走り、もう一人は土手で俺たちと待機した。八人のうち一人が伝令に出たので、現場には七人が残った。
黒い水は一度勢いを弱めたが、石畳の隙間から断続的に噴き続けた。川の流れが変わり、岸辺の浅瀬に青い粉が広がる。もしこのまま水位が上がれば、下流の畑へ流れ込むかもしれない。相馬さんは村の代表と連絡を取るまで、誰も岸へ下ろさなかった。
「水車の軸、どうして動いたんでしょう」とフェナが聞いた。
「内側から水が押したのかもしれない」と技師が答えた。「でも、普通の水圧だけなら軸が回る理由が分からない。あの石壁の奥に歯車がある可能性もあります」
フェナは模型の青い紙を見つめた。紙の上で水は好きな方向へ曲がれる。だが実際には、岩の高さと管の形と圧力が流れを決める。俺たちが知っているのは、いま足元で何かが動き始めたということだけだ。
水の噴き出す場所から離れて観察していると、黒い粒の動きに奇妙な偏りがあることに気づいた。川へ落ちた粒は下流へ流されるのに、石畳の割れ目に残った粒だけは、細い輪を描いて集まっている。目の錯覚かと思い、フェナにも見てもらった。
「同じところを回っていますね。でも、水そのものが回っているのかもしれません」
彼女は手帳に輪を描き、周囲の流れとは別の矢印を添えた。技師は土手から望遠鏡を向け、少しして唸った。
「割れ目の縁に金属のようなものが見えます。石の下に円形の弁があるのかもしれない。水が渦を巻いているのは、その隙間から押し出されているからでしょう」
「弁なら閉められますか」と俺が聞くと、技師は望遠鏡を下ろした。
「閉められる構造かどうかも、どこに操作部があるかも分かりません。古い設備は、動いた瞬間に壊れることがあります。今ここで石を外すのは、家の壁を壊して中の蛇口を探すようなものです」
鹿島さんは盾の傷を親指でなぞり、川の上流へ目を向けた。
「それより気になるのは、あの甲殻の奴らだ。水が出る前から地面を掘っていた。偶然そこにいたのか、それとも弁を動かしたのか」
「魔物が弁を動かせるんですか」
「俺に聞くな。見たのは土を掘る姿だけだ」
鹿島さんの答えは素っ気なかったが、分からないことを分からないと言えるのは大事だと思った。戦う相手を決めつければ、必要のない戦いを始めてしまう。俺たちはこの山へ来てから、甲殻の魔物が結晶を運ぶところを何度も見ていた。だからといって、魔物が水を汚すために動いているとは限らない。
村人の一人が、土手に生える葦を見て首を傾げた。
「ここ、昔は魚がよく集まったんです。水車が止まってからは浅くなって、子どもが足を入れて遊ぶ場所になった。だから石畳の下に大きな水路があるなんて、誰も考えなかった」
「子どもたちは今、近くにいますか」と相馬さんが尋ねた。
「昨日の魔物を見てから、川へ行くなと言ってあります。でも、川の下流には畑へ通じる近道がある。そこを使う家はあります」
相馬さんはすぐに村の代表へ伝える内容を追加した。水車跡だけでなく、下流の石畳と低い畑道も立入を控えるよう頼む。伝令役の村人は、自分の家の子どもがその道を通って学校へ行くと言い、顔色を変えた。
「朝のうちに知らせておけばよかった」
「今からでも間に合います」とフェナが言った。「私たちも、ここへ来るまで気づきませんでした。知らなかったことを責めるより、今知らせる方が大事です」
村人は彼女の言葉に頷き、街道へ走り出した。フェナはその背中を見送りながら、手帳の端に『音のする石畳の下を通らない』と書き、続けて小さく『原因未確認』と添えた。二つを分けて書く理由を、今なら俺にもよく分かる。危険があることは伝えなければならないが、原因を決めつける必要はないのだ。
川の向こうでは、枯れ木の根元に残った甲殻の魔物が再び姿を現した。今度は青い石を抱えていない。濡れた土を前脚で押し固め、穴の周囲に小石を並べているように見えた。俺はそれを不思議に思ったが、距離がありすぎて確かめられない。鹿島さんも攻撃せず、魔物が川へ戻るまで盾を下ろさなかった。
もしあの小さな生き物が、水を止めようとしているのだとしたら。そう考えた途端、俺は自分の想像が先走っていることに気づいた。俺たちに見えているのは、土を押す前脚と並んだ小石だけだ。意図を知るには、まだ何も足りない。
しばらくして伝令が戻った。村の代表は下流の水路をさらに閉め、畑の取水を止めると決めたという。川そのものをせき止めることはできないため、住民を低地から離す準備も始めた。相馬さんは村人二人を帰し、俺たち六人だけで土手に残った。
「相馬さん、あの水車を直せば水は止まりますか」
俺の問いに技師が首を振った。
「何が動いているか分からないのに触れば、逆に開くかもしれません。まずは水がどこから来ているかを確かめる必要があります」
「それなら、ここにいる理由はもうないな」と相馬さんが言った。「危険を増やす前に引く。村へ状況を伝えて、山の管理者と対応を決めよう」
撤収の準備を始めたとき、石畳の下から聞こえていた乾いた音が止まった。俺は振り返った。黒い水の柱が細くなり、代わりに水車の軸がもう一度回る。半回転、少し止まって、さらに半回転。まるで誰かが奥で手を掛けているような動きだった。
フェナが息を呑んだ。
「ナオトさん、音が止まったんじゃありません。川の向こうから聞こえます」
耳を澄ませると、確かに乾いた響きが遠ざかっていた。地面の下を何かが進んでいる。俺は自分の《帰り道》を意識した。帰る方向は街道へ続いている。だが、足元を進むものがどこへ向かうかは分からない。帰り道が示す線と、地下の音が重なることに意味があるのかどうかも、能力からは読み取れなかった。
俺たちは土手を離れ、村の広場へ戻った。村の代表は避難先として石造倉庫と高台の学校を開けていた。昨夜の魔物の襲撃で人々は怖い思いをしたばかりだが、今日はそれ以上に、地面の下が見えないことを恐れているようだった。
瀬川さんから通信が入り、街の技術者が追加で来ることになった。水の検査は続いているが、黒い結晶が振動に反応する性質は確からしい。ただし、人体への影響も、魔物が集まる理由も、まだ結論は出ていない。
「今日は戻るぞ」と相馬さんが言った。「水車の下で起きたことは、明日の調査に引き継ぐ。今の人数で無理に奥へ進めば、村の人たちを守るどころじゃなくなる」
フェナは頷いたものの、広場の井戸を見ていた。井戸水を汲む女性が桶を下ろし、引き上げる。透明な水が日差しを受けて光る。その何でもない光景を、俺も少し長く眺めてしまった。
夕方、街へ戻る途中、俺たちは古い石橋の上で足を止めた。ここから村へ続く街道はなだらかに下っている。遠くの山には雲がかかり、第一の門のある斜面は見えない。だが、峡谷から流れた黒い水が、山の中のどこかを通って水車の下へ達した可能性は高くなっていた。
「ナオトさん」とフェナが言った。「水車の音、あれは誰かが叩いているみたいでした。でも、私たちが聞いたのは、音が移っていくところだけです」
「中に何かがいると思うか」
「分かりません。水で歯車が動いているだけかもしれない。でも、もし誰かがいるなら、私たちが見ていないところでずっと働いているのかもしれません」
俺は返事を急がなかった。石の巨人が斜面の岩を押し戻した姿を思い出す。あれも俺たちを追い払うためだったのか、何かを守るためだったのか、分からないままだ。
ギルドへ戻ると、瀬川さんが新しい報告を受け取っていた。第一の門の警戒員からだ。夕刻、門の五つの窪みのうち二つだけが青く光り、やがて消えたという。以前のように五つ揃ってはいない。
「同じ時刻に、水車の下の音が止まったと記録されています」と瀬川さんが言った。「直接つながっているとは断定できません。ただ、時刻は一致しています」
相馬さんは記録を見つめ、しばらく黙っていた。
「明日は、山へ行く前に古い設備図を集めよう。もし内側の圧力を逃がす仕組みが残っているなら、どこかに操作する場所があるはずだ」
その夜、俺はフェナの模型を机へ戻した。青い紙を水路に見立てて動かしてみる。橋の下を抜けた紙の先は、村の水車の位置へ届いた。だが、紙の下には、もう一本の線が隠れていた。フェナが折り目を付けた細い枝だ。
彼女はそれを指で持ち上げた。
「ナオトさん、ここ。古い地図には線がないんですけど、実際の山には低い谷が続いています。もし水を逃がす場所があるなら、村じゃなくてこっちの方が低いんです」
「その谷へ流せるなら、村を守れるかもしれないな」
「はい。でも、流した先に何があるかも確かめないと」
フェナは紙を元に戻した。俺たちが守りたいのは村だけではない。知らない場所へ危険を押し出せば、別の誰かが困る。帰る道が分かる俺にも、その先で何が起きるかは分からない。
寝る前、窓の外で遠い鐘が一度鳴った。今度は山からではなく、街の時計塔の鐘だった。俺はその音を聞き分けられることに、思いがけずほっとした。山の中の音にも、いつか同じように理由が分かる日が来るだろうか。




