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ハズレスキル《帰り道》しかないF級探索者、遭難したS級パーティを全員連れて帰ったら救難依頼が殺到しました  作者: ころもぐら


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第205話 山が息を止める夜

 フェナの作った紙の橋を、俺たちは翌朝の会議室へ持ち込んだ。厚い紙で折った両岸の高さは違い、中央の梁は欠けたままになっている。模型の下には黒い紙が細く伸び、甲殻の魔物が出入りしていた溝を示していた。


 相馬さんは模型を一周して眺め、測量士へ昨日の図面を広げるよう頼んだ。技師はまだ傷んだ鞄を使っている。新しいものを買う時間がなかったのだろう。裂けた取っ手は紐で縛られ、採集した結晶の瓶は別の木箱に移されていた。


「昨日、橋の下の溝を見たとき、何か思い当たることはありませんでしたか」とフェナが技師に尋ねた。


「岩を削った排水路の可能性は考えました。ただ、実際の寸法が分かりません。人が通れる穴なのか、細い水路なのか、あるいは自然にできた隙間なのか」


「魔物たちは通っていました」


「ええ。だから、人が使える道だとは限らない。むしろ、あの大きさの生き物が通るための穴なら、私たちは入れないでしょう」


 フェナは頷き、模型の溝を指で押さえた。昨日、彼女は何度も紙を折り直し、橋の下の高さを変えていた。完成したものを見せたいだけなら、間違いを探してほしいとは言わなかっただろう。


「私が気になっているのは、橋の下に水が流れていたかどうかです。昨日は谷底の水しか見えませんでした。でも、もし昔は橋の下にも水路があったなら、今はどこへ行ったんでしょう」


 測量士は古い地図を一枚取り出した。昨日まで使っていたものよりさらに古く、採石場の輪郭がまだ小さい。橋の位置には二本の線が引かれ、その片方が村の水路へつながっている。


「これは採石場が広がる前の地図です。古い分水路があったらしい。ただ、現在の沢とは流れ方が違う。どこで埋まったのか、記録が残っていません」


「それなら、村の水を別の方へ流せるんですか」と俺が聞くと、測量士は首を振った。


「今すぐには無理です。水を流す設備が残っているかも分からないし、黒い粉を別の場所へ押し出すだけでは解決になりません」


 相馬さんは地図に指を置いた。村の水車小屋から上流へ少し戻った場所に、古い石の堰が描かれている。今は土に埋もれ、誰も使っていないという。


「まず、ここを確かめる。村の設備担当が昨日から準備している。沢を全部止めるのではなく、黒い粉を含む水が畑へ入らないよう、沈殿させる場所を作れないか相談する」


「水が安全になる保証はありませんね」と技師が言った。


「その通りだ。粉の性質を調べるまでは、飲み水には使わない。畑へ流すかどうかも村が決める。俺たちができるのは、危険を増やさず調べる手伝いだ」


 出発前、フェナは美波の訓練場へ寄った。俺も付き合うと、彼女は昨日と同じように三角、丸、四角の標識を並べていた。ただし、今日は訓練生に目隠しをさせず、遠くから形を見分けられるか試している。


「どうした、二人とも」と美波が聞いた。


「古い橋に、同じ形の印があったんです」とフェナが答えた。「意味はまだ分かりません。でも、昔の人も、形で何かを知らせようとしていたのかもしれないと思って」


 美波は興味深そうに眉を上げた。フェナが帳面の写しを見せると、彼女は左手で紙を受け取り、三つの印を確かめた。


「冬真の標識と同じ形だな。ただ、あいつが昔の橋を参考にしたとは聞いていない。偶然かもしれないし、道具を作る人間が同じ発想に行き着いたのかもしれない」


「はい。だから、今は形だけ覚えておきます」


「それでいい。それと、昨日は空を飛ぶ魔物が出たんだろう。鹿島から聞いた」


 美波は右手首の固定具を軽く押さえた。剣を持てない今、彼女がその場にいたらどう動いたかは分からない。だが、彼女は戦いの話を聞いても、無理に同行しようとはしなかった。


「羽が割れて破片が飛ぶなら、狭い場所で戦うな。盾を構える者の後ろに固まるのも危険だ。遮蔽物を使って、飛んでくる方向を減らせ」


「分かりました」と俺が答えると、美波はフェナへ目を向けた。


「怖かったか」


「怖かったです。でも、羽が割れたときの音を覚えていました。次は、もう少し早く気づきたいです」


「それで十分だ。自分が見たものを言葉にできるなら、誰かの剣より役に立つこともある」


 フェナは礼を言い、写しを手帳へ挟んだ。美波は訓練生の方へ戻りかけて、ふと俺に声をかけた。


「久世。帰れる道が分かるからって、最後まで残る役を引き受けるなよ」


「分かってる。俺だけが帰れればいいわけじゃないから」


 美波はそれ以上何も言わず、左手で木の棒を持ち直した。俺はその背中を見送り、彼女が昔の訓練場で三人の帰着時刻をそれぞれ書き直したことを思い出した。帰ることを一つの数字で済ませない。今の俺たちにも必要な考え方だった。


 村へ着くと、水車小屋の前には昨日より多くの人が集まっていた。畑を持つ人、水路を管理する人、石を運ぶ人。皆が同じ方向を見ているわけではない。水を早く戻してほしい人もいれば、黒い粉が怖いから止めたままにしてほしい人もいた。


 相馬さんは村の代表と話し、俺たちは古い堰へ案内された。石を積んだ低い壁が沢を横切り、その脇には土に埋もれた水門の跡がある。板を差し込む溝は残っているが、木の板は腐って使えない。設備担当は新しい板を持ってきており、試しに水を分ける準備をしていた。


「全部を動かすわけじゃありません」と担当者が説明した。「上流から来る水を一度、空いている石切り場の窪地へ流します。そこで泥を沈め、どれだけ粉が残るか確かめたい。ただし、窪地の底に割れ目があれば地下へ流れるので、まずそこを調べています」


「窪地は昨日見た採石場ですか」と俺が尋ねた。


「もっと手前です。今は使っていない小さな石切り場で、村の管理地です。大きな魔物がいた谷とは別です」


 それを聞いて少し安心した。だが、安心できることと、安全だと分かったことは違う。測量士は窪地の底を確かめるため、村の担当者と一緒に周囲を歩いた。俺とフェナは水門の近くで石を運び、鹿島さんは上流の見張りを担当した。


 作業は地味だった。土を掘り、古い板を外し、石の隙間に詰まった草を取り除く。俺の《帰り道》が必要になる場面はない。フェナは泥で汚れた手を洗いながら、少し笑った。


「ナオトさん、こういう仕事も救難の続きなんですね」


「遭難者を迎えに行くわけじゃないけど、村の人が困っているのは同じだからな」


「私、最初は門の謎を解く方が大事だと思っていました。でも、ここの水が止まったままなら、謎を解いている間にも困る人が増えますね」


 俺は頷いた。俺たちが山へ入った理由は、石の門が珍しかったからだけではない。そこから流れてきたものが、村の生活を変えてしまったからだ。


 昼過ぎ、測量士が窪地の確認を終えた。底には大きな割れ目が見つからず、壁も当面の試験に耐えられそうだという。ただし、専門家による継続的な点検が必要で、恒久的な設備として使うことはできない。村の代表はその説明を聞き、試験的に少量の水を流すことを了承した。


 水門の板がゆっくり引き上げられると、沢の水が細い溝へ流れ込んだ。最初は泥で濁っただけだったが、やがて水面に青い点が浮かび始める。技師は長い柄の付いた器具で水を採り、木箱へ収めた。


「粉が流れてきています。量は少ないですが、昨日と同じものに見えます」


「これで窪地に集められるなら、村の水路へ入る量は減るんですね」とフェナが言った。


「減る可能性はあります。ただ、下流の水を検査しなければ分かりません」と技師が答えた。


 そのとき、上流の見張りから笛が鳴った。一度、間を置いて二度。鹿島さんの声が沢沿いに響く。


「空から来るぞ! 全員、屋根の下へ!」


 俺は顔を上げた。白い岩の帯の向こうから、透明な羽が幾つも光っている。昨日の峡谷で見た魔物たちだ。数は五匹以上。羽が触れ合う高い音が、沢の流れに混じって近づいてきた。


 相馬さんはすぐに村の人々を水車小屋へ誘導した。俺はフェナと一緒に、石を運んでいた人たちへ声をかける。水門の近くには、まだ道具を片付けている人がいた。俺たちは手を貸して道具を寄せ、屋根のある場所へ移動した。


「ナオトさん、あの音……昨日より高いです」


 フェナは走りながら耳を押さえた。羽の魔物たちは沢の上を旋回し、青く光る水面へ向かって降りてくる。最初の一匹が水へ口器を突き刺すと、飛沫が細かく弾けた。魔物は水そのものを飲んでいるようには見えない。水に混じった光る粉へ反応しているらしい。


「窪地へ流した水が、あいつらを呼んだのか」と村の担当者が呟いた。


「まだ分からない。だが、今は近づくな」と相馬さんが答えた。


 鹿島さんは水門の上流側に立ち、盾を構えた。昨日と違って、ここには村の人々がいる。羽の破片が飛べば、屋根のない場所は危険だ。相馬さんは弓を持つ村の見張りに、むやみに射ないよう伝えた。羽を割ると破片が飛ぶことを説明すると、見張りたちは矢をつがえたまま待機した。


 魔物の一匹が水門の石壁へ着地した。口器を細い溝へ差し込み、青い粉を吸い取るように体を震わせる。別の個体が近づくと、羽同士が触れ合って高い音が鳴った。音は水門の石へ伝わり、壁全体がかすかに震えた。


「音で石が光っています」とフェナが言った。


 俺も見た。水門の古い石に付着した黒い粉が、羽の音に合わせて明滅している。技師が昨日話していた、振動に反応する結晶の性質だろう。羽の魔物は光る粉へ集まり、集まるほど音を出す。その音がさらに粉を光らせる。もしそうなら、魔物が増える理由の一つになる。


「相馬さん、音を弱められませんか」と俺は尋ねた。


「どうやってだ」


「石壁に付いた粉が震えているんです。水門の板を下ろせば、水の音は減るかもしれません。でも、今あそこへ行くのは危険です」


 相馬さんは水門を見た。板を操作する取っ手は魔物のすぐ下にある。近づけば羽の破片を浴びる可能性が高い。誰かが無理に操作するくらいなら、水を流したまま避難を続ける方がいい。


「今は触らない。まず全員を屋根の下へ入れる」


 俺たちは村の人々を数え直した。水車小屋には八人、石切り場の小屋には五人、上流の見張りは鹿島さんと村の見張り二人。俺たち六人のうち、相馬さんと技師は水門近くの石造りの倉庫へ移動している。測量士は村の代表と一緒に窪地の様子を見ていたが、笛の合図で倉庫へ戻った。


 全員の位置を確かめたところで、空から甲高い音が響いた。羽の魔物の一匹が、水門の上で突然向きを変えたのだ。長い口器が石造りの倉庫へ向き、まっすぐ突っ込んでくる。


「伏せろ!」


 鹿島さんが盾を構え、魔物の進路へ割って入った。口器が盾の縁を擦り、金属を削る音がした。彼は力で押し返さず、体を横へ開いて魔物を石壁へ誘導した。魔物の口器が壁へ突き刺さり、羽が大きく震える。


 昨日なら、鹿島さんはその隙に羽を斬ったかもしれない。だが、今はすぐ近くに村の人々がいる。彼は剣を抜かず、盾の表面を魔物の胴へ押し当てて距離を取った。


 魔物は口器を抜き、再び空へ上がろうとした。その瞬間、フェナが俺の袖を引いた。


「ナオトさん、あの子、羽の音が変わっています。高い音のあとに、低い音が混じるときは、飛び方が乱れるんです」


 俺は魔物を見た。羽の一枚に、昨日の戦いで見たような小さな傷がある。傷ついた個体なのか、別の理由で音が変わっているのかは分からない。ただ、飛ぶ高さが安定していないことは見て取れた。


「鹿島さん、次は少し低く来ます!」


 俺が叫ぶと、鹿島さんは盾を胸の高さへ下げた。魔物は予想どおり低い位置へ滑り込み、盾の表面をかすめて水門の向こうへ抜けた。鹿島さんは追わず、倉庫の扉を閉める時間を稼いだ。


「助かった、久世。フェナもよく見ていた」と彼は言った。


 フェナは返事をしようとして、息を詰まらせた。魔物の群れが水門の上で円を描き始めたのだ。羽の音が重なり、石壁の青い粉が一斉に光る。細い水路を流れる水まで、青い筋になって見えた。


「あのままだと、もっと集まるかもしれません」と技師が言った。「粉の発光が目印になっている可能性があります」


「なら、光を隠せばいいのか」と相馬さんが尋ねた。


「それだけでは足りないかもしれません。振動も弱める必要がある。ただし、近づかずにできる方法があれば、ですが」


 俺は倉庫の中を見回した。壁際には、石を運ぶときに使う厚い麻布が積まれている。水に濡らして石へ掛ければ、光を遮ることはできるかもしれない。だが、魔物のいる水門へ運ぶのは危険だ。


 そのとき、村の担当者が窓の外を指した。


「水門の上に、古い滑車があります。昔、板を上げ下げするときに使ったものです。倉庫の中から綱を引けるように、壁に穴が通っているはずです」


 測量士が壁を調べると、石の継ぎ目に小さな鉄の輪が埋まっていた。錆びているが、穴は向こう側へ続いている。今も使えるかは分からない。村の担当者は予備の綱を持ってきて、鉄の輪へ通してみせた。


「板を直接動かすのは無理でも、麻布を水門の上へ落とすくらいならできるかもしれません」


 相馬さんはすぐに決めなかった。滑車が壊れれば布が飛び、魔物を刺激する可能性がある。水門の石壁へ布を掛けたところで、効果がある保証もない。それでも、村の人々が倉庫から出ずに試せるなら、検討する価値はあった。


「まず、綱が動くか確かめる。魔物が近づいたら中止だ」と相馬さんが言った。


 俺と村の担当者が綱を引くと、壁の向こうで古い滑車が軋んだ。鉄の輪が少し動き、上に積もった埃が落ちる。何度か試すうちに、綱はゆっくり滑るようになった。測量士が力のかかり方を見て、今の状態なら軽い布を運べると判断した。


 厚い麻布を水で濡らし、綱の先へ結び付ける。フェナは結び目を二重に確かめた。彼女は泳げないが、水の近くで自分にできることを探している。俺は布が落ちる位置を確認し、鹿島さんへ合図した。


「今から布を下ろします。魔物が来たら止めます」


 鹿島さんは盾を構えたまま頷いた。相馬さんが綱を引くと、濡れた麻布が水門の上へゆっくり滑り出した。布は風に揺れ、石壁の角へ引っかかった。もう少し引けば外れそうだが、魔物の一匹がその動きに反応して近づいてくる。


「止めろ!」


 俺たちは綱を固定した。魔物は布の端へ口器を伸ばしたが、青い光が見えないためか、すぐ水面へ戻った。俺は息を整え、フェナの方を見た。


「今の、どう思う?」


「布を見たけれど、長くは止まりませんでした。光っている水の方へ戻ったように見えます」


 相馬さんは頷き、もう一度だけ布を動かすことを許可した。綱を少し引くと、麻布は石壁の角を越え、青く光っていた部分へ広がった。光は弱くなり、羽の魔物たちの旋回がゆっくり崩れていく。


「効いているのか」と村の担当者が呟いた。


「まだ分からない。でも、今は近づいてこない」と鹿島さんが答えた。


 俺たちはそのまま様子を見た。魔物たちは水門の周りを数回飛んだあと、上流へ向かって移動し始めた。青い粉の光が完全に消えたわけではない。布の外側ではまだ細い点が明滅している。それでも、群れが倉庫へ突っ込んでくる様子はなくなった。


 やがて、山の方角から低い鐘の音が届いた。昨日、峡谷で聞いたものと似ているが、今日は一度では終わらない。二度、三度と響き、地面の奥から何かが押し上がるような振動が続いた。


「第一の門か」と相馬さんが呟いた。


「分かりません」と技師が答えた。「ただ、あの音のあとに、羽の魔物が動きを変えています」


 俺は窓から空を見た。透明な羽の魔物たちは一斉に高く飛び、峡谷の方へ戻っていく。水門の上に残ったのは、濡れた麻布と青い粉だけだった。


 鹿島さんは盾を下ろさず、最後の一匹が見えなくなるまで待った。相馬さんもすぐに扉を開けようとはしない。上流の見張りから安全確認の合図が届き、村の人々が順番に外へ出た。


「これで終わりですか」と水車小屋の男が尋ねた。


「今日の襲撃は収まった。ただ、同じことが起きないとは言えない」と相馬さんが答えた。「水門の周囲に残った粉は、専門の人が処理するまで触らないでほしい」


 男は頷いたが、表情は険しかった。水が使えないままでは困る。それでも、魔物が村へ来る危険を見た以上、安易に水門を開けるわけにもいかない。俺は男の気持ちを想像しながら、手伝える仕事が残っていないか尋ねた。


 午後の遅い時間、村の代表と設備担当は、試験用の窪地へ水を流す作業をいったん中止した。粉の量を測るには十分な水が集まっている。技師は採集した水を街へ持ち帰り、成分を調べることになった。村の人々は井戸水の運搬を続けるが、畑へ流す水については検査結果を待つと決めた。


 俺たちは村を出る前に、もう一度だけ古い堰を見に行った。濡れた麻布は石壁に掛かったままで、青い光はほとんど見えなくなっている。技師は近づかず、遠くから布の状態を記録した。


「布が振動を弱めたのか、魔物が別の音に反応して去ったのか、区別できませんね」とフェナが言った。


「その通りです」と技師が答えた。「今日の方法が毎回通じるとは限りません。ですが、少なくとも、村の人々を外へ出さずに済んだのは大きい」


 俺は水門の向こうを見た。沢の水は今も流れている。そこに混じる黒い粉は、どこから来たのだろう。峡谷の橋の下か、第一の門の周囲か。それとも、まだ見つかっていない別の場所か。


 夕方、ギルドへ戻ると、瀬川さんが二通の報告を待っていた。一通は第一の門の警戒員から。もう一通は、峡谷の反対側を遠くから観察していた山林管理者からだった。


「第一の門では、午後に五つの窪みが短く光ったそうです。石の巨人は外へ出ていません。ただ、門の周囲の岩が少し沈み、地面の亀裂が一つ閉じたという報告があります」


「峡谷の方は?」と相馬さんが尋ねた。


「対岸の岩壁で、青い光が縦に走ったそうです。昨日と同じ場所です。ただ、今日は光が消えたあと、岩壁の下から大量の黒い水が流れ出したと」


 技師は報告書を受け取り、顔を上げた。


「黒い水が、どこへ流れたか分かりますか」


「峡谷の谷底へ落ち、下流へ流れたそうです。村の水路へ入ったかどうかは、まだ確認できていません」


 俺たちは互いに顔を見合わせた。村の水門で魔物が去った時刻と、峡谷で黒い水が流れ出した時刻は近い。だが、二つの出来事が直接つながっているかは分からない。


「山の中で、何かが動いているんでしょうか」とフェナが聞いた。


「動いているのは確かだろう」と相馬さんが答えた。「ただ、それが何のためかを知るには、もう少し調べる必要がある」


 技師は古い地図を広げ、峡谷の橋の下から村の水路へ続く線を指した。


「この分水路がまだ一部でも残っているなら、黒い水がどこへ流れるかを左右している可能性があります。第一の門の修理機構と連動しているのかもしれませんが、今は推測です」


 相馬さんはすぐに新しい調査隊を組もうとはしなかった。村の水の検査が先だ。魔物が戻る可能性もある。俺たちの疲労も考えなければならない。今日の戦いで鹿島さんの盾には新しい傷が増え、技師の鞄もまだ修理できていない。


「明日は街で調べる。峡谷へ入るのは、少なくとも水の流れと地形が分かってからだ」と相馬さんは決めた。


 会議が終わると、フェナが俺の隣へ来た。手帳には今日の水門の絵が描かれ、濡れた麻布の位置と、羽の魔物が飛んだ方向が細かく書かれている。


「ナオトさん、今日、私たちがやったことは正しかったんでしょうか」


「村の人が怪我をしなかった。それはよかったと思う。でも、魔物が去った理由までは分からないな」


「はい。私、布を掛けたから逃げたんだと思いたかったんです。でも、山の鐘の音も聞こえました。どっちが理由か、決められません」


「決めなくていいんじゃないか。次に同じことが起きたら、今日の記録が役に立つかもしれない」


 フェナは少し考え、手帳の端に『理由は二つあるかもしれない』と書き加えた。俺はその文字を見て、彼女が初めて門の絵を描いた日のことを思い出した。鳥にも魚にも見える浮彫りを、どちらか一つに決めずに残していた。今も同じように、自分の見たことと考えたことを分けている。


 夜、家へ戻ってからも、俺は山のことを考えていた。石の巨人は岩を押し戻し、甲殻の魔物は光る石を運び、透明な羽の魔物はその光へ集まっていた。別々の生き物と装置が、同じ山で動いている。もしそれぞれに理由があるなら、誰か一人を倒せば終わる問題ではないのかもしれない。


 机の上には、フェナの紙の橋が置かれていた。彼女は今日の出来事を聞いたあと、模型の下へもう一本、細い青い紙を通していた。古い分水路の位置を示すつもりらしい。紙は橋の下を抜け、途中で二つに分かれている。


 俺はその分かれ目を見た。片方は村の水路へ向かい、もう片方は峡谷の奥へ続いている。どちらが本当の流れなのか、まだ分からない。だが、もし山の中に水を分ける仕組みがあるなら、あの石の巨人は門を守っているだけではないのかもしれない。


 窓を閉めようとしたとき、遠くで低い鐘の音がした。昼間に聞いたものより小さく、風に混じって消えそうな音だった。俺はしばらく耳を澄ませたが、二度目は聞こえなかった。


 翌朝、瀬川さんから新しい連絡が届いた。峡谷の反対側で黒い水が流れ出したあと、岩壁に残った文字の一部を山林管理者が写し取っていたという。技師が古い写本と照らし合わせ、まだ不確かながら、二つの言葉を読めたらしい。


『外側の水路、開放。内側の圧力、未解消。』


 俺は紙を見つめた。第一の門には、内側の封鎖が続いていると記されていた。今度は、内側の圧力が解消していないという。何が山の中に溜まり、何がそれを押さえているのだろう。


 《帰り道》は、俺が帰る方向を教えてくれる。けれど、山が何を閉じ込め、どこへ逃がそうとしているのかは教えてくれない。俺は連絡の紙を畳み、相馬さんに会うため家を出た。街の朝はいつもどおりで、店を開く音や子どもの声が聞こえている。


 その平穏を守るために、俺たちは次に何を見に行くべきなのか。答えはまだ出ていなかったが、少なくとも、昨日までとは違う問いが目の前にあった。

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