第204話 橋の下に眠る牙
採石場の向こうで青い光を見た翌日、俺たちは古い橋を探しに出た。夜のうちに村の水路は閉じられ、黒い粉が入り込んだ区間には見張りが付いている。飲み水は井戸から運ばれていたが、畑へ流す水をいつまでも止めておくわけにはいかない。原因を突き止めることが、村の暮らしを守ることにつながっていた。
相馬さんはギルドの机に広げた地図へ、赤い線を一本引いた。採石場へ下りる道ではなく、北の尾根を大きく回り込む細い道だ。
「昨日は谷底の魔物に近づきすぎた。今日は峡谷を上から見る。古い橋があるなら、対岸へ渡る必要はない。まず、どこに何が残っているかを確かめる」
「向こう岸に何か見えたら、どうしますか」とフェナが尋ねた。
「見えたものを記録する。それだけだ。昨日の群れを追いかける仕事じゃない」
鹿島さんは盾を背負い、剣の鞘を確かめた。技師は昨日採集した黒い粉を小瓶に分け、振動を与えず運べるよう木綿で包んでいる。測量士は長い測距棒の代わりに、三脚と望遠鏡を持ってきた。六人という人数は変わらないが、荷物の中身は昨日とは違っていた。
「ナオトさん、これを見てください」
フェナが差し出したのは、羊飼いの父親が描いた古い帳面の写しだった。橋の手前にある三角、丸、四角の印を、彼女は色の違う鉛筆でなぞっている。
「美波さんが見せてくれた札と同じ形です。でも、あの標識は冬真さんが考えたものですよね。昔の人も同じ形を使っていたんでしょうか」
「形が簡単だから、偶然似たのかもしれない。けど、気になるな」
「私もそう思います。だから、同じ意味だとは書いていません」
フェナは写しの端に小さく『似ているだけ』と書き足した。俺はそれを見て頷いた。彼女は何かを見つけるたび、すぐ答えにしたくなる気持ちと戦っている。俺も同じだ。第一の門を見つけてから、古い石の模様を見れば何でも門に結びつけたくなってしまう。
尾根へ向かう道は、村の裏手から始まった。朝露の残る草を踏み、低い松の間を抜けていく。採石場のある谷はまだ見えない。代わりに、山肌を斜めに横切る白い岩の帯が遠くまで続いていた。技師はその帯を見て、昨日の黒い石とは地質が違うと説明した。
「この山は、古い岩盤がいくつも重なっています。門の石材だけが異質に見えたのは、そのためかもしれません。ですが、山そのものに人工の構造物が混じっている可能性も捨てきれません」
「地面の中に、道が埋まっているということですか」とフェナが聞いた。
「道かもしれないし、排水路かもしれない。何かを運ぶための管かもしれない。何もないかもしれません」
技師の返答は慎重だった。俺は、門の巨人が岩を押し戻す姿を思い出した。あの力が山の内部へ伝わるなら、表面の地形が変わってもおかしくない。しかし、そんな推測だけで山を掘り返すわけにはいかない。
昼前、俺たちは尾根の上に着いた。目の前には深い峡谷が口を開け、対岸の岩壁が白く光っている。谷底は暗く、流れる水の音だけが上がってきた。測量士は三脚を立て、古い地図にある橋の位置を探した。
「橋は……あります」
望遠鏡を覗いた測量士が、少し驚いた声を出した。
俺も順番を待って覗いた。峡谷の両岸から、石の梁が一本ずつ突き出している。真ん中は大きく欠け、渡れる状態ではない。橋というより、橋だったものの両端が残っているだけだ。梁の下には黒い石が幾つも張り付いており、ところどころに青い光が見える。
「昔の地図にあった橋ですね」とフェナが言った。
「位置はおおむね合っています」と測量士が答えた。「ただ、対岸の梁がこちらより低い。最初からそういう構造だったのか、地盤が動いたのかは調べないと分かりません」
相馬さんは橋へ近づくことを禁じ、尾根の上から観察を続けるよう指示した。鹿島さんは背後の林へ目を配っている。俺は峡谷の向こう側を見た。対岸の岩壁には、縦に長い黒い筋が一本走っていた。自然の割れ目にも見えるが、その両側だけ石の色が違う。
「門みたいに見えますね」と俺が言うと、技師は望遠鏡を借りた。
「そう見えます。ただ、柱も敷居も確認できません。今の段階で第二の門と呼ぶのは早いでしょう」
「じゃあ、あの黒い筋は何ですか」
「分からないから、調べるんです」
技師は笑わずに答えた。厳しい言い方ではなかった。分からないことを分からないまま置いておくのは、俺たちの仕事の一部なのだと、何度も教えられている気がした。
フェナは橋の手前にある石柱へ目を留めた。三角、丸、四角の形が、縦に並んで刻まれている。古い帳面の絵と同じ順番だった。俺たちは望遠鏡を交代しながら、欠けた部分を記録した。
「本当にあったんですね」とフェナが言った。
「印があったことは確かだな。でも、意味はまだ分からない」
そのとき、橋の下で何かが動いた。黒い石の一つが梁から離れ、谷底へ落ちる。俺は思わず身を乗り出しかけたが、鹿島さんに肩を掴まれた。
「崖の縁へ寄るな。落ちる石を見るために、俺たちまで落ちる必要はない」
「すみません」
石は谷底へ届く前に、途中で止まったように見えた。いや、止まったのではない。黒い石から細い脚が伸び、岩壁へしがみついたのだ。昨日の採石場で見た小さな甲殻の魔物だった。
さらに数匹が梁の裏から現れ、青い光のある場所へ集まっていく。魔物たちは石の表面を削り、口にくわえた欠片を岩壁の隙間へ運んでいた。沢へ落としていたものと同じ石だろうか。
「昨日は水へ落としていました」とフェナが言った。「今日は穴へ入れています」
「巣を作っているのかもしれない」と鹿島さんが答えた。「ただ、橋を削っているなら危ないな。もう渡れない橋でも、崩れれば谷の水を塞ぐことがある」
測量士は橋の断面を記録し、黒い石の付着する位置を図面へ落とした。俺はその作業を手伝いながら、魔物たちが運ぶ欠片の大きさを見ていた。どれも同じくらい小さい。大きな石はその場に残し、光る部分だけを削り取っているように見える。
技師がふいに息を呑んだ。
「橋の下を見てください。あの光、増えていませんか」
望遠鏡を覗くと、梁の裏側に青い点がいくつも並んでいた。昨日見た五つの窪みとは違い、数は一定ではない。小さな魔物たちが石を削るたびに、光る点が増えているようだった。
「結晶が露出しているのかもしれません」と技師が言った。「削られた面が振動に反応するなら、魔物が石を運ぶだけで光が増えることになります」
「その振動は、何かを呼ぶんでしょうか」とフェナが尋ねた。
答える前に、谷の奥から高い音が響いた。細い金属板を弾いたような音が、二度、三度と続く。橋の下の魔物たちは一斉に脚を止め、梁の陰へ潜り込んだ。
鹿島さんが盾を構え直す。
「昨日の大きいのか」
「違います」とフェナが言った。「音が上から聞こえます」
俺たちは空を見上げた。尾根の向こう、白い岩の帯の上を、透明な何かが横切っていく。最初は風に舞う薄い布だと思った。だが、その影は風と逆向きに動き、太陽を受けて虹色に光った。
羽だった。
大きな鳥ほどの生き物が、硝子のように透き通った四枚の羽を震わせながら、峡谷の上を旋回している。胴体は細く、長い口器の先端が針のように尖っていた。羽が触れ合うたびに高い音が鳴る。やがて二匹目、三匹目が岩陰から現れ、橋の上へ集まり始めた。
「初めて見る魔物です」と測量士が言った。
「俺もだ。羽を見ろ、割れたら危険かもしれない」と鹿島さんが返した。
技師は望遠鏡を下ろし、顔色を変えていた。
「結晶を食べる生き物かもしれません。あの口器なら、岩の割れ目に入り込める。ですが、甲殻の魔物とは動き方が違う」
透明な羽の魔物が一匹、橋の梁へ急降下した。小さな甲殻の魔物はすぐに岩の隙間へ逃げ込む。羽の魔物は石へ口器を突き刺し、青く光る結晶を吸い取るように体を震わせた。高い音が一段強くなり、周囲の羽の魔物も同じ場所へ集まっていく。
「餌を取り合っているんでしょうか」とフェナが呟いた。
「そうかもしれない。だが、あの音が続くと厄介だ」と鹿島さんが言った。
彼の言葉が終わる前に、一匹がこちらへ向きを変えた。透明な羽が太陽を反射し、光の筋が尾根の草を走る。俺たちはまだ峡谷から十分離れていたが、魔物はまっすぐ近づいてきた。
「全員、林の陰へ!」
相馬さんの指示で、俺たちは尾根の上の松林へ走った。測量士は三脚を畳む時間がなく、望遠鏡だけを抱えた。俺はフェナの背中を押さず、彼女が自分で選んだ足場を見て並んで走った。林へ入ったところで、背後の岩に鋭い音がした。
透明な羽の魔物が、尾根の石へ口器を突き刺したのだ。石の表面が細かく砕け、白い粉が舞う。魔物はすぐに頭を上げ、こちらへ向き直った。
「石を食べるだけじゃないのか」と俺が言うと、鹿島さんが盾を前へ出した。
「石の粉が付いた荷物に反応しているのかもしれない。技師、瓶を持っているな」
技師は鞄を押さえた。昨日採集した黒い粉の瓶は、木綿に包んである。だが、山道を歩く間に、鞄の外側へ微量の粉が付着していた可能性はある。
「捨てますか」と技師が尋ねた。
「今ここで開けるな」と相馬さんが答えた。「まず、鞄を地面へ置いて離れろ。中身が原因か確かめる」
技師は鞄を松の根元へ置き、俺たちの側へ下がった。羽の魔物はしばらく空中で迷うように旋回し、やがて鞄へ向かった。口器が革へ突き刺さり、硬い音がする。鹿島さんは盾を構えたまま動かない。
「やはり粉か」と測量士が呟いた。
「まだ断定するな。鞄には別の道具も入っている」と相馬さんが答えた。
次の瞬間、羽の魔物が鞄を持ち上げようとした。革の取っ手が引き裂かれ、瓶の一つが地面へ転がる。魔物の口器が瓶へ向いたとき、鹿島さんが前へ出た。
盾の縁が羽を掠め、硝子のような薄片が空中へ散った。魔物は高い音を立てて跳ね上がり、鹿島さんの頭上を越えようとする。彼は剣を抜き、羽の付け根を狙って横へ払った。刃は胴体を外れたが、片方の羽を裂いた。
割れた羽が雨のように降った。俺はフェナを木の陰へ呼び、外套で頭を守った。薄片は松の幹へ刺さり、樹皮を浅く削る。もし顔へ当たっていたら、ただでは済まなかっただろう。
「鹿島さん、右からもう一匹!」
フェナの声で鹿島さんが振り向く。二匹目の羽の魔物が林の上を滑り、背後から近づいていた。彼は盾を高く掲げ、真正面から受けるのではなく、木の幹へ魔物を誘導した。口器が松へ突き刺さり、魔物の動きが一瞬止まる。
その隙に相馬さんが短い槍を突き出した。胴体ではなく、羽を支える細い節を狙った一撃だった。透明な羽が折れ、魔物は地面へ落ちる。鹿島さんは盾で動きを押さえ、剣の背で口器を折った。
魔物は激しく震えたが、やがて動かなくなった。相馬さんはその場で近づかず、ほかの個体が来ないか空を確かめるよう命じた。
「一匹は動かなくなりました」と測量士が言った。
「一匹は逃げた。油断するな」と鹿島さんが返した。最初に羽を裂かれた個体は、低く飛びながら峡谷へ戻っていったらしい。
俺は胸の奥で《帰り道》を意識した。街へ戻る道筋は林を抜けた南側へ続いている。だが、空を飛ぶ魔物がどこへ回り込むかは分からない。相馬さんに方向だけを伝え、今は林の陰で待つ方がいいかどうかを尋ねた。
「少し待つ。飛ぶ相手に背中を見せて走るより、木を使って位置を確かめたい」と相馬さんが答えた。
フェナは震える手で手帳を開き、倒れた魔物の羽を描こうとした。俺は無理に書かなくてもいいと言ったが、彼女は首を振った。
「今、覚えているうちに描きたいんです。羽が割れたとき、音が変わりました。高い音が急に低くなったんです」
「音が変わった?」
「はい。ほかの魔物も、そのとき少し離れました。たぶん、仲間が傷ついたことが分かる音なんじゃないかと思います」
鹿島さんが彼女の話を聞き、盾の縁を確かめた。羽の破片が数枚刺さっている。彼は慎重に取り除き、布へ包んだ。
「次に来たら、羽を割るだけで追い払えるかもしれない。ただし、破片が飛ぶ。近くに味方がいるなら使いにくい手だ」
「私、音のことを先に言えばよかったです」とフェナが言った。
「気づいたのは戦いの途中だろう。今伝えてくれたなら十分だ」と鹿島さんは答えた。
俺は二人のやり取りを聞き、少しだけ肩の力を抜いた。戦闘で役に立つのは剣だけではない。何を見たか、何を聞いたかを伝えることも、誰かを守る力になる。
しばらくすると、峡谷の上を飛んでいた羽の魔物たちが、一斉に下へ潜った。橋の裏側から低い音が響き、黒い石がいくつも落ちる。尾根の地面がかすかに震えた。
「橋が崩れるかもしれない」と測量士が言った。
相馬さんは全員を林の奥へ下がらせ、遠くから橋を見た。石の梁はまだ残っている。しかし、対岸の黒い筋の周囲に、細い青い線が何本も走っていた。昨日、採石場の向こうで見た光と同じ色だ。
技師は望遠鏡を覗き、息を呑んだ。
「岩壁の中に、人工の継ぎ目があります。黒い筋の両側に、同じ間隔で刻まれた溝が見える。少なくとも、あれは単なる地層の割れ目ではありません」
「第二の門ですか」と俺が聞くと、技師は首を振った。
「門かどうかは分かりません。ただ、あの場所に人が作った構造物があることは、かなり確かです」
フェナは橋の手前の三つの印をもう一度見た。三角、丸、四角。形が異なるのは、進む道を選ばせるためだろうか。あるいは、渡ってはいけない状態を知らせるためだろうか。
そのとき、峡谷の奥で大きな音がした。鐘のような低い響きが一度、山肌を伝わってくる。羽の魔物たちは一斉に飛び上がり、甲殻の魔物は橋の裏へ潜った。俺たちは林の陰から、その動きを見守った。
対岸の岩壁に、五つの淡い光が縦に並んだ。
「五つ……」とフェナが呟いた。
第一の門では、五つの灯が揃うと石の巨人が現れた。だが、ここには門の柱も、巨人が出入りできる敷居も見えない。岩壁の光はしばらく点滅し、やがて上から順に消えていった。
「何かが起動したんでしょうか」と測量士が聞いた。
「起動したのか、停止したのかも分かりません」と技師が答えた。「ただ、あの光は自然現象だけでは説明しにくい」
相馬さんはそれ以上の観察を打ち切った。羽の魔物がまだ空にいる。橋の周辺では落石が続き、技師の鞄も破れている。俺たちは採石場を回らず、尾根の南側から村へ戻ることにした。
帰り道で、フェナは何度か振り返った。彼女が怖がっているのかと思ったが、表情は真剣だった。
「ナオトさん、あの小さな甲殻の魔物たち、羽の魔物が来る前に隠れましたよね」
「そうだったな」
「昨日、光る石を運んでいたのは、あの羽の魔物に食べられないようにするためだったのかもしれません。自分たちが食べるためじゃなくて、巣を守るために」
俺はすぐには答えられなかった。黒い石が沢へ流れたことは村にとって問題だ。だが、それが魔物たちにとっても危険から逃れるための行動だったとしたら、単純に駆除すれば解決するとは限らない。
「そうかもしれない。でも、沢へ石を落とす理由までは説明できないな」
「はい。だから、まだ分かりません」
フェナはそう言って手帳を閉じた。彼女の顔には、昨日より強い疲れが見えた。俺は休憩を提案し、相馬さんも了承した。村の屋根が見える小さな丘で、俺たちは水を飲み、怪我がないか互いに確かめた。鹿島さんの外套には羽の破片が刺さっていたが、肌には届いていなかった。技師の鞄は破れたものの、瓶はすべて回収できている。
村へ戻ると、水車小屋の男が知らせを待っていた。相馬さんは、峡谷で新しい魔物が見つかったこと、黒い石を運ぶ小さな魔物がいること、原因を確かめるまで水路を開けない方がよいことを説明した。
「いつまでですか」と男が尋ねた。
「まだ答えられない」と相馬さんは言った。「ただ、明日も同じ人数で山を歩くつもりはない。水をどう戻すか、村の設備担当と一緒に考える。危険な石を拾う人が出ないよう、今日見た魔物の特徴も伝える」
男は納得した顔ではなかったが、説明を最後まで聞いた。水が止まれば生活が困る。未知の魔物がいるから待ってほしいと言うだけでは、いつか誰かが勝手に水路を開けてしまうかもしれない。俺たちも、何かを決めるための情報を持ち帰らなければならなかった。
夕方、ギルドへ戻ると、瀬川さんが新しい報告を受け取っていた。第一の門を見張っている警戒員から、午後に門の五つの窪みが一度だけ光ったという連絡だ。石の巨人は外へ出てこなかった。門の敷居にも変化は見られなかったが、光った時刻が記録されていた。
技師は時計を見て、俺たちが峡谷で低い鐘の音を聞いた時刻と照らし合わせた。完全に一致しているとは言えないが、記録の誤差を考えると、同じ時間帯だった。
「二つの場所がつながっているんでしょうか」とフェナが聞いた。
「可能性はあります」と技師は答えた。「ただし、音や振動が山を伝わっただけかもしれません。門同士が連絡していると考えるには、まだ材料が足りない」
相馬さんは壁に二枚の地図を貼った。一枚には第一の門。もう一枚には峡谷の橋と、対岸の人工的な岩壁。二つの地点の間には、白い山肌が広がっている。そこに道を描き込む者はいなかった。
「今のところ、行き来できる証拠はない。明日はまず村の水を戻す方法を考える」と相馬さんは言った。「峡谷の光が何であれ、放っておけば石が流れ続けるかもしれない。俺たちが今日見たものは、その対策を考える材料になる」
会議のあと、鹿島さんが俺を呼び止めた。彼は剣を鞘から抜き、刃の一部を見せた。透明な羽の魔物と戦った際に、薄い傷が何本も入っている。
「次にあれと戦うなら、盾だけでは足りない。羽が割れるたびに破片が飛ぶ。守る相手が近くにいるほど、こちらが不利になる」
「俺にできることはありますか」
「ある。戦う前に、どこへ退くかを決めておくことだ。ただし、お前の《帰り道》だけに頼るな。空を飛ぶ相手は、地面の道を守ってくれないからな」
俺は頷いた。今日、鹿島さんが二匹を相手にしている間、俺はフェナと技師を木陰へ導くことしかできなかった。それでも、あのとき全員が同じ場所へ固まっていたら、割れた羽の破片を避けられなかったかもしれない。
帰宅する途中、フェナは紙屋の前で足を止めた。新しい手帳を買うのかと思ったが、彼女が選んだのは厚い紙と細い紐だった。
「何に使うんだ?」
「今日の橋を、立体にしてみたいんです。紙を折れば、上から見た地図だけじゃ分からない高さの違いも分かるかもしれません」
「手伝おうか」
「お願いします。でも、私が最初に考えてみます。ナオトさんは、できたら間違いを探してください」
俺は笑って了承した。彼女が自分の目で見たことを形にしようとしているのが嬉しかった。家へ戻り、紙を折る音を聞きながら、俺は今日の峡谷を思い返した。橋は壊れていて、対岸へは渡れない。黒い石を運ぶ魔物がいて、その石を狙う別の魔物もいる。岩壁には五つの光が現れた。
第一の門の奥には、まだ見ぬ封鎖があるという。だが、今日見た峡谷の光は、その封鎖が門の内側だけで完結していないことを示しているようにも思えた。
夜遅く、フェナの作った紙の橋がようやく形になった。左右の高さを変え、壊れた中央を空けた小さな模型だ。彼女は橋の下に黒い紙を貼り、魔物が潜った場所を示した。
「ナオトさん、ここを見てください」
フェナが指したのは、橋の中央ではなかった。対岸の梁の下、黒い筋が始まる位置だ。紙の模型では、そこから谷底へ向かって細い溝が伸びている。
「私たち、上から見ていたから気づきませんでした。でも、橋の下の魔物たちは、いつも同じ溝を通っていた気がするんです」
「それが道なのか?」
「分かりません。でも、石を運ぶ場所が決まっているなら、あの溝が何かの通り道かもしれません」
俺は模型を横から覗いた。紙の橋の下には、俺たちが見ていない空間がある。そこに何があるか、能力では教えてもらえない。だからこそ、フェナの観察が必要だった。
窓の外で風が鳴った。遠い山から届いた音ではない。ただの夜風だ。それでも、俺には峡谷で聞いた低い鐘の響きが、まだ胸の奥に残っていた。




