第203話 山の裏から来た石
相馬さんが俺の家を訪ねてきた翌朝、ギルドの受付には、見覚えのない石が三つ並んでいた。どれも握り拳ほどの大きさで、表面は濡れた炭のように黒い。だが、そのうち一つだけは、割れ目から薄い青色の光を漏らしていた。
瀬川さんは石の下に厚い布を敷き、俺たちが近づく前に手を上げた。
「触らないでください。北の外縁から流れてくる沢で見つかったものです。採集した人が素手で持ったところ、指先が痺れたそうです。今は症状が治まっていますが、原因は分かっていません」
「門の石と同じものですか」とフェナが尋ねると、隣に立っていた技師は首を振った。昨日、石の巨人を観察した灰色の外套の人物だ。名前を聞きそびれたまま三日が過ぎていたが、本人はそのことを気にしていないらしい。
「色は似ています。しかし、門の石材にはこれほど大きな結晶がありません。何より、こちらには細かな削り跡がある。自然に割れた石ではなく、何かが表面を食べたようにも見えます」
技師は長い柄の付いた鏡を使い、光る割れ目を覗いた。俺は反対側から石を見たが、何が不自然なのかすぐには分からなかった。フェナは手帳に三つの輪郭を描き、削れた部分だけを線で囲んでいる。
「沢の上流は、あの門のある斜面へ続くんですか」
「一本は続く。ただし、別の谷からも水が入る」と相馬さんが答えた。「今日は門へ行かない。石を拾った場所と、上流の地形を確かめる。山の反対側から見たという羊飼いの証言も、そこで聞けることになった」
昨日の封筒に描かれていた第二の門の推測図を、俺は思い出した。まだ一つ目の門すら理解できていない。そんな段階で二つ目を探すのは危険だと感じていたが、相馬さんが指した地図には、門の位置ではなく沢と古い山道が描かれている。
「第二の門を探しに行くわけじゃないんですね」
「そうだ。沢の水を使う村がある。石の成分が分からないまま放置できない。それに、もし石が門から来たのなら、門に近づかずに分かることがある」
技師は鏡を布で包み、黒い石を一つずつ木箱へ戻した。箱の蓋には、触れないよう注意する赤い紐が巻かれている。あの石を採集した人が無事だったのは幸いだが、同じことを別の誰かが繰り返せば、今度は症状が軽く済むとは限らない。
出発の前に、美波が中庭へ顔を出した。右手首の固定具は相変わらずで、左手には冬真さんの作った触って分かる標識の試作品を持っている。三角、丸、四角の頭が付いた木札を、訓練生に順番に触らせていたところだという。
「また北へ行くのか」と美波は俺に聞いた。
「門の外側だ。沢に変な石が流れてきたらしい」
「戦いに行く顔じゃないな」
「戦わずに済むなら、その方がいい」
美波は笑わず、俺の腰に付いた短い刃物と、鹿島さんが背負う盾を見比べた。
「戦わずに済ませるために持っていくものもある。鹿島、こいつが自分の仕事を忘れたら止めてくれ」
「久世が忘れるより、俺が前へ出すぎる方がありそうだ」と鹿島さんが返すと、美波はようやく口元を緩めた。フェナが標識の試作品を興味深そうに見つめると、美波は三角の札だけを手渡した。
「持っていけという意味じゃない。目を閉じて触ってみろ。形が違えば、暗くても区別できるだろう」
「はい。でも、置く場所を間違えたら、形だけ分かっても迷いますね」
「そういうことだ。道具が正しいだけじゃ足りない。使う人間が、何を知らせたいか考えないとな」
フェナは札を返し、礼を言った。美波は俺たちを送り出すと、訓練生のところへ戻っていった。戦場へ出られない悔しさが消えたわけではないだろう。それでも、彼女が自分の役割を見つけつつあることは、背中を見れば分かった。
今回、山へ向かうのは俺、フェナ、相馬さん、鹿島さん、技師、測量士の六人だった。昨日まで門の外で警戒していた二人は別の担当者と交代し、立入禁止区域の監視を続けている。俺たちは荷馬車で北の外縁の西側を回り、谷を一つ越えた小さな村へ向かった。
道中、測量士が地図を広げた。門の斜面から流れる沢は、山の裏側で二本に分かれ、片方が村の水路へ入る。もう片方は古い採石場の下を通り、細い峡谷へ消えるらしい。古い地図には峡谷を横切る橋が描かれていたが、現在は使われていない。
「橋が落ちたんですか」と俺が尋ねると、測量士は指先で紙を叩いた。
「落ちたという記録はありません。道が閉鎖された時期も不明です。新しい街道が南にできて、通る人がいなくなった可能性はあります。ただ、地図によって橋の位置が違うんです」
「また動く道ですか」とフェナが言った。
「そう考えたくなる気持ちは分かります。でも、昔の測量は今ほど正確ではありません。地図の誤差で説明できるなら、その可能性を先に確かめます」
測量士はそう言い、二枚の地図を重ねた。俺にはほとんど同じに見えたが、沢の曲がり角が微妙にずれている。門の廊下のように石が動くこともあるのだと知った今、何でも不思議な仕組みのせいにしたくなる。けれど、それでは普通の間違いを見逃すだけだ。
村に着くと、石を拾った男が水車小屋の前で待っていた。日に焼けた顔に、まだ少し不安が残っている。男は右手の指を開いたり閉じたりして、症状が消えたことを何度も確かめていた。
「朝、水車の羽根に何か引っかかっていると思ったんです。石の欠片でした。普段なら流れてくるのは白い砂岩ばかりで、あんな黒いものはありません」
「拾った場所を見せてもらえますか」と相馬さんが聞いた。
「ええ。ただ、今日は水車を止めています。子どもが石を探して遊ぶようになったら困るんで」
男の判断を聞き、相馬さんは短く礼を言った。村の水路は浅いが、足を滑らせれば流れに引かれる場所もある。俺たちは水車小屋から上流へ歩き、流木を取り除くための柵を確かめた。柵には黒い粉が付着していたが、石そのものは残っていなかった。
技師が粉を小さな瓶へ集めている間、フェナは水面を覗き込んでいた。彼女は泳げない。だからこそ、岸の濡れた石へ不用意に足を乗せず、腰を落として水の流れを見ている。
「ナオトさん、あそこだけ泡が出ています」
指さした先には、岸から少し離れた岩の下に小さな泡が集まっていた。水の底で空気が漏れているようにも見える。俺は近くの枝を拾い、岸から届く範囲で水面を軽く突いた。泡は流れに乗って消えたが、すぐ同じ場所から浮かんできた。
「水の下に穴があるのかもしれないな」
「それだけなら、前からあったはずです」と水車小屋の男が言った。「昨日までは、あんな泡は見ませんでした」
技師は瓶の蓋を閉め、泡の出る場所を観察した。水が濁っているため底は見えない。石を投げ込んで調べることもできたが、もし何かの装置があれば刺激するかもしれない。相馬さんは測量士へ位置を記録させ、先に上流の採石場を見に行くと決めた。
村の外れで待っていた羊飼いは、思っていたより若い女性だった。背中に大きな籠を負い、数頭の羊を連れている。子どもの頃に山の反対側で門を見たというのは彼女の父親で、今日は本人が来られないため、娘が昔の話を聞いてきたのだという。
「父は、門を見たのは一度きりだと言っています。雨上がりに羊を探して、古い橋の近くまで行ったときです。石の柱が二本あって、上に鳥みたいな模様があったそうです」
「その場所は分かりますか」と測量士が尋ねた。
「大体なら。でも、父は今の地図を見ても分からないんです。昔は道があったと言うけれど、私はその道を見たことがありません」
羊飼いは古い採石場へ続く斜面を指した。そこには低い草と灰色の岩しか見えない。彼女は門のことより、羊が最近その斜面へ近づかなくなったことを気にしていた。草はあるのに、群れが一斉に足を止めるのだという。
「何か匂いがするのかもしれません。羊は人より早く気づくことがありますから。でも、私には何も分からなくて」
鹿島さんは羊の動きを見た。先頭の一頭が斜面へ顔を向けた途端、耳を伏せて後退する。別の羊も同じように足を止めた。風は谷から村へ向かって吹いている。俺には草の匂いしか感じられなかった。
「門の近くで見た甲殻の魔物と関係があるかもしれません」とフェナが言った。
「関係があるかもしれない、までだ」と鹿島さんは答えた。「生き物が嫌がる場所なら、俺たちも警戒した方がいい」
相馬さんは羊飼いに村へ戻ってもらい、六人で採石場へ向かった。途中の斜面には昔の車輪の轍が浅く残っていた。石を運ぶ荷車が通った跡だろう。草に覆われているものの、一定の幅で二本の溝が続いている。測量士はその幅を測り、古い地図に記された道と照らし合わせた。
「地図の橋は、この轍の延長上にあったはずです。ただ、途中で道が消えています」
「崩れたんですか」
「地表だけなら、そう考えられます。崩落した岩が積もった形跡がありますから」
道が消えた場所には、崩れた石の山があった。俺たちはそれを越えず、少し高い尾根から向こう側を見下ろした。採石場は予想以上に広く、岩を切り出した四角い跡が段々畑のように並んでいる。谷底には細い水が流れ、黒い石が点々と転がっていた。
「水車の石と似ています」とフェナが言った。
技師は望遠鏡を覗き、すぐに俺たちへ離れるよう合図した。谷底の黒い石の一つが、わずかに動いたのだ。俺には風で揺れたようにしか見えなかったが、次の瞬間、石の下から細い脚が四本伸びた。
石だと思っていたものは、生き物だった。
背に黒い鉱物を貼り付けた小さな甲殻の魔物が、谷底をゆっくり歩いている。門の中で見たものよりずっと小さく、犬ほどの大きさもない。だが、一匹ではなかった。岩陰から二匹、三匹と現れ、黒い石の集まる場所へ寄っていく。
「群れですね」と鹿島さんが言った。「あの大きいのの子どもか、別の種類かは分かりませんが」
「近づかずに数を記録しよう」と相馬さんが答えた。「村へ向かう可能性があるなら、沢の上流に柵を増やす必要がある」
測量士が双眼鏡を受け取り、見える範囲の個体を数え始めた。俺は尾根の上で周囲を見張り、フェナは地図に位置を記した。技師は小さな魔物が石へ口を当てる様子を見て、眉を寄せている。
「やはり、削り跡はこの生き物のものかもしれません。石の表面を食べているように見えます。ただし、あの黒い石自体が餌なのか、表面に付着した別のものを取っているのかは不明です」
フェナは望遠鏡を借り、しばらく谷底を見た。やがて、何かに気づいたように顔を上げる。
「ナオトさん、あの子たち、同じ石を食べていません。光っている石の周りには集まるのに、光っていない石は避けています」
「本当か」
「少なくとも、今見える範囲では。大きい石の陰にいるのは、見えません」
俺は彼女の言葉を相馬さんへ伝えた。測量士が個体数を数え直すと、光る石の周囲に集まっているものが多いという。偶然かもしれないが、村の水路へ流れた石が光っていたことを思い出すと、放っておけない違いだった。
そのとき、谷の奥から乾いた音が聞こえた。石を二つ打ち合わせたような、短い音だ。門の内側で聞いた金属音とは違うが、妙に規則正しい。小さな甲殻の魔物たちが一斉に脚を止め、触角を谷の奥へ向けた。
「何か来ます」とフェナが言った。
鹿島さんが盾を構えた。俺たちは尾根の反対側へ下がろうとしたが、測量士が足を止めた。谷底の奥、崩れた岩の間から、黒い影が持ち上がっている。背の高い石柱のように見えたそれは、ゆっくり横へ傾き、今度は二本の脚を動かした。
「大きいのがいます」と測量士が告げた。「門の中で見たものと似ています」
大きな甲殻の魔物は、俺たちを見上げなかった。谷底に集まった小さな個体へ近づき、背中の石片を擦り合わせる。乾いた音がもう一度鳴ると、小さな魔物たちは光る石をくわえ、ばらばらの方向へ動き始めた。
「石を運ばせているように見えますね」と技師が言った。
「村へ行く方向の個体もいる」と相馬さんが低い声で返した。「まずいな」
俺は沢の流れを見た。小さな魔物の一匹が水辺へ下り、口にくわえた光る石を浅瀬へ落とす。石は流れに押されて転がり、やがて水の中へ消えた。水車で見つかった黒い石が、ここから流れたのだとしたら、ただの崩落では説明できない。
「わざと流しているんでしょうか」とフェナが呟いた。
「まだ分からない。でも、止める必要はある」と相馬さんが答えた。
相馬さんは村へ連絡するため、携帯用の信号筒を取り出した。赤い煙は沢沿いの見張りからも見えるはずだ。ところが、筒の蓋を外した瞬間、谷底の大きな魔物が頭を上げた。触角がこちらへ向き、背の石片が一斉に震える。
「音か、匂いか」と鹿島さんが言った。「気づかれたぞ」
俺たちは尾根から離れようとした。だが、先に動いたのは小さな魔物たちだった。谷底の岩を駆け上がり、斜面の隙間を縫ってこちらへ近づいてくる。小さいとはいえ、硬い甲殻と鋭い脚を持っている。群れに囲まれれば、盾一枚では守り切れない。
「全員、轍のある道へ戻る。鹿島、後ろを頼む」と相馬さんが指示した。
俺はフェナと並んで走り、足元の石を避けた。能力を意識すると、帰る方向は確かに村の側へ伸びている。けれど、そこへ向かう斜面が崩れないか、魔物が先回りしていないかは分からない。俺は自分が見ている範囲の道だけを声に出し、測量士が地面の状態を確かめるのを待った。
背後で硬いものがぶつかる音がした。鹿島さんの盾に、小さな魔物が飛びついたのだ。彼は盾を振り回さず、縁を岩へ軽く当てて魔物を落とした。甲殻の生き物は地面を転がり、すぐ起き上がって逃げていく。
「追うな!」と相馬さんが言った。「あいつらの目的は俺たちじゃないかもしれない」
鹿島さんは頷き、剣を抜かずに下がった。小さな魔物たちは俺たちの足跡を追うように見えたが、途中で黒い石へ寄り道し、また散っていく。どうやら群れ全体が一つの獲物を狙っているわけではないらしい。
轍のある道まで戻ったところで、フェナが急に立ち止まった。俺が振り返ると、彼女は道端の岩を指している。岩には、五つの小さな窪みが縦に並んでいた。門の柱のものとは違い、手のひらほどの大きさしかない。
「さっきはありませんでした」とフェナが言った。
「見落としていた可能性もある」と測量士が答え、すぐに膝をついて確かめた。「ただ、この面だけ新しく削られている。周りの苔が剥がれています」
技師が近づこうとしたが、相馬さんは止めた。谷底の魔物はまだ動いている。俺たちは岩の位置だけを記録し、先に村へ戻ることにした。
村へ向かう途中、谷から低い振動が伝わってきた。足元の小石が跳ね、遠くで岩の崩れる音がした。俺たちは道の広い場所へ移動し、頭上の斜面を見上げる。採石場の向こうに灰色の土煙が上がっていた。
「門の巨人でしょうか」とフェナが尋ねた。
「見えないものは決められない」と鹿島さんが答えた。「ただ、さっきの群れが逃げていたなら、あの音と関係があるかもしれない」
俺は土煙を見つめた。門の巨人は斜面の岩を押し戻していた。あの動作が採石場の裏側にも影響しているのだろうか。だとしたら、修理のつもりで動く巨大な機械が、別の場所へ危険を押し出している可能性がある。
村へ戻ると、水車小屋の男が沢の上流を指していた。水面には細かな青い光が点々と浮かび、流れに乗って下っている。石が増えたのではない。光る粉のようなものが、水の中を漂っているのだ。
「朝より増えています」と男が言った。「水車を止めておいてよかった。これが畑へ入ったら、どうなるか分かりません」
相馬さんは村の代表へ水路の一時停止を依頼し、飲み水を別の井戸から確保するよう伝えた。技師は粉を採集し、触れないよう封じる。俺たちは手伝える範囲で水路の板を運んだが、原因を知らないまま沢を塞ぐことはできない。水が溢れれば、今度は村の家を濡らしてしまう。
作業が落ち着いたころ、羊飼いが父親の古い帳面を持ってきた。表紙は擦り切れ、頁の端には草の汁の染みが残っている。父親が子どもの頃、山で見たものを絵にした頁があるという。
そこに描かれていたのは、門ではなかった。二本の柱の間に、細い橋が一本かかっている。橋の下には水ではなく、黒い丸がいくつも並び、橋の向こうに五つの点を持つ岩壁が描かれていた。
「父はこれを門だと言っていました」と羊飼いが説明した。「でも、絵を見ると橋にも見えますよね」
測量士は帳面を受け取り、今朝の地図と照らし合わせた。古い橋があったとされる峡谷は、採石場のさらに奥だ。二本の柱と五つの点。偶然にしては似ているが、第一の門と同じものだと断定するには足りない。
フェナは絵の端に描かれた小さな印へ目を留めた。三角、丸、四角。冬真さんの標識を思わせる三種類の形が、橋の手前に並んでいる。
「これ、道の目印でしょうか」
「父は何も言っていませんでした」と羊飼いは答えた。「ただ、あの場所へは行くなと、何度も聞かされました」
俺は頁を見た。昔の人が危険を知らせるために描いた印かもしれないし、別の意味があるのかもしれない。今はまだ分からない。だが、朝に見た黒い石と、谷底で動いていた甲殻の魔物たちを思い出すと、あの橋が単なる古い道だったとは思えなくなった。
夕方、ギルドへ戻る馬車の中で、相馬さんは六人に今日の見聞を確認した。採石場の群れは少なくとも十数匹。大きな個体が一匹。光る石を沢へ落とす様子を見たが、その意図は不明。村の水路は停止し、代替の水を確保した。峡谷の橋は未確認。門の巨人との関係も分からない。
「明日は村の水路だけじゃ済まないかもしれません」と技師が言った。「この粉は、水の流れに乗って下る。採石場の奥に何があるのか、外から確かめる方法を考える必要があります」
「まず、峡谷の向こう側へ回れる道を調べる」と相馬さんは答えた。「橋が本当に残っているなら、渡る前に状態を確かめる。あの群れと正面からぶつかるつもりはない」
フェナは手帳を開き、黒い石の絵の横へ小さく文字を書き加えた。俺が尋ねると、彼女は少し迷ってから見せてくれた。
『石は流れた。運んだのは誰か。』
「私、最初は沢が石を運んだんだと思っていました。でも、魔物が石を落とすところを見たでしょう。誰かが何かを運んでいるとき、そこには理由があるのかもしれません」
「その理由を、明日確かめたいんだな」
「はい。でも、あの谷へ入るなら、今日よりちゃんと準備したいです。怖かったので」
俺は頷いた。怖さを隠して前へ進む必要はない。怖いと分かっているからこそ、次に必要な道具や人数を考えられる。
馬車が街へ入るころ、遠い山の上で青い光が一度だけ走った。夕日に紛れれば見落とすほど短い光だったが、フェナも同時に顔を上げた。俺たちは互いに目を合わせ、それから山を見た。第一の門のある斜面ではない。採石場のさらに向こう、古い橋があったとされる峡谷の方角だった。
その夜、技師から瀬川さんへ届いた報告には、黒い粉の暫定的な性質が記されていた。石そのものが発光しているのではなく、削られた面に付着した薄い結晶が、振動に反応して光るらしい。原因となる物質は特定できていない。
俺は報告を読んだあと、窓の外の暗い山を眺めた。門の巨人は壊れた斜面を押し戻し、谷底の魔物は光る石を運んでいた。どちらも人間を狙って動いているとは限らない。それでも、二つの動きが村の水へ影響を与えている。
あの山で何が起きているのか、まだ誰にも分からない。けれど、今度は門の奥へ踏み込まなくても、山の方から問題がこちらへやって来ていた。




