第201話 動く廊下の呼吸
翌朝、ギルドの会議室へ入ると、机の上に一本の長い綱が置かれていた。太い麻縄の表面には一定の間隔で赤い糸が巻かれ、端には金具が取り付けられている。昨日の門を調べるために、測量士が夜のうちに用意したものだという。
「これで奥へ入るんですか」と俺が尋ねると、相馬さんは綱を持ち上げ、重さを確かめた。
「入るかどうかは現地で決める。使うなら入口の外に固定し、どこまで進んだかを数字で残す。綱があるから安全だとは思わないでくれ」
測量士は赤い糸の一つを指した。間隔は五歩ではなく、実際に測った距離で二メートルごと。先端には引っ張る力が一定以上になると外れる留め具があり、動く床に引き込まれたとき人を巻き込まないようにしてある。
「外れたら戻れなくなりませんか」とフェナが聞いた。
「戻るための綱ではなく、距離を測るための綱です。戻る道は別に確保する必要があります。綱に頼って進める距離を増やすつもりはありません」
その説明を聞いて、俺は少し肩の力を抜いた。綱を握れば必ず戻れると思い込むのは、帰還保証札を信じるのと変わらない。相馬さんも同じことを考えていたらしく、測量士の説明を最後まで聞いてから、出発の準備を指示した。
フェナは俺たちが使う手袋を机に並べた。厚手のものと、指先の動きやすい薄手のもの。彼女は昨日の標識の試作品を思い出したのか、手袋越しに綱の赤い糸を確かめている。
「ナオトさん、糸のところだけ少し太くなっています。暗くても数えられそうです」
「数えるなら、俺にも声をかけてくれ。俺は触って確かめるのが得意じゃない」
「はい。でも、綱を見失ったら、無理に探しに行かない約束もしてください」
彼女の言葉に俺は頷いた。フェナは今日、同行するかどうかを自分で決めた。昨日の夜に怖かったと話したあと、朝まで考え、それでも入口の外から始まる調査には参加したいと申し出たのだ。相馬さんは危険が増した場合はすぐ退くことを条件に了承した。
美波は出発前、訓練場の脇で俺たちを待っていた。右手首の固定具はまだ外れていない。昨日、冬真さんの試作品を使った訓練生から集めた感想を、左手でまとめていた。
「久世、無理に深く入るなよ。昨日の報告を読んだが、あの門は入口が同じでも中が変わるらしいな」
「まだ確かめられたのは一度だけだ。今日はそこを調べる」
「一度でも十分に厄介だ。帰る道が見えるからといって、床が動く速度まで分かるわけじゃないだろう」
「分からない。そこは測るしかない」
美波は頷き、フェナへ視線を向けた。
「怖かったら、帰っていい。途中で考えが変わってもいいからな」
「分かっています。昨日は怖くても自分で下がれました。今日も、行けるところと行けないところを自分で言います」
「それならいい。私の仕事も一つ増えた。三角の札は角が鋭すぎるらしい。冬真に伝える前に、もう少し手袋を替えて試す」
彼女は笑って見送った。剣を持たない美波の姿には、以前とは違う落ち着きがある。俺はそのことを口にしなかったが、フェナは歩き出してから小さく「美波さん、楽しそうでしたね」と言った。
北の外縁へ向かう道には、昨日より多くの足跡があった。立入禁止の知らせを聞いた村人たちが、遠くから門を見に来たらしい。警戒員は縄の位置を斜面の下まで広げ、通行人に説明していた。俺たちが到着すると、彼らは前夜からの記録を見せてくれた。
門の外に並べた石の目印は、やはり一つ足りない。代わりに離れた岩場へ打った三本の杭は、朝まで位置が変わっていなかった。昨日と同じように門の奥は左へ曲がる通路になっているが、床に落ちる光は見えない。
「石が消えたことと、門の動きが関係しているかはまだ分かりません」と測量士が言った。「ただ、敷居のすぐ近くに物を置くのはやめました。離れた杭から距離を測ります」
相馬さんは外の警戒員二人に、退避する際の合図を確認した。笛を一度吹けば調査中断、二度なら全員が山道の待避地点へ移動する。応答がなければ門へ近づかず、街へ連絡する。俺たちが戻らない場合でも、勝手に追って入らないよう明確に伝えた。
測量士が入口から長い棒を差し込み、床と壁の動きを確かめる。昨日の黒い粉は敷居の上に薄く残っていたが、甲殻の生き物は見えない。奥からは水滴に似た音が聞こえ、三回続いたあとに長い間があった。
「昨日と同じですね」とフェナが呟いた。
「回数は同じでも、間隔は違う」と測量士が答えた。「今日は音の高さも記録します。何かが動く前触れかもしれませんが、まだそうとは言えません」
相馬さんは全員の顔を見た。入口の内側へ進むとしても、最初の曲がり角まで。移動が始まったら戻ろうとせず、立ち止まって退避可能な位置を確認する。見通しが悪くなったら即中断する。鹿島さんは剣を抜く余地のある場所で最後尾を守り、俺は先頭には立たない。能力で安全を保証できないからだ。
「俺は帰る道筋なら分かります。でも、床が動いてその道が塞がれたら、通れるかどうかは別です」
俺が改めて言うと、相馬さんは全員に聞こえる声で復唱した。
「そういうことだ。久世の能力は帰路の参考にする。行き先を決めるのも、退避の時刻を決めるのも、俺たちの仕事だ」
入口の外に綱の金具を固定し、測量士が先端を持った。鹿島さんが棒で床を確かめ、相馬さん、フェナ、俺の順に敷居を越える。最後尾の鹿島さんは門の外の警戒員へ手を挙げ、全員が入ったことを知らせた。昨日は外から眺めるだけだった石の廊下に、俺たち五人の靴音が響く。
廊下は思ったより冷たかった。空気は湿っているのに、壁に水滴はない。石の表面には細い溝が縦横に走り、継ぎ目を探そうとすると視線が滑る。床には昨日の甲殻の生き物が残したらしい細い傷があり、左の壁には擦れた跡が続いていた。
「この溝、ただの飾りじゃないかもしれません」とフェナが言った。
彼女は壁に触れず、指先で空中に線をなぞった。縦の溝と横の溝が交わる場所だけ、黒い粉が集まっている。測量士は小さな鏡を取り出し、光を当てて観察した。
「壁の表面がわずかにずれている。動く仕組みが内部にあるのかもしれない。触らずに記録しよう」
十歩ほど進むと、床の傾きが変わった。昨日は平らに見えた廊下が、ここから先は緩く下っている。測量士が水準器を置き、角度を確かめる。相馬さんは時計を見て、入ってからまだ四分だと告げた。
「短い時間でも、見つけるものは多いな」と俺が言うと、鹿島さんは壁の影から目を離さずに答えた。
「見つけたものが増えるほど、気になる場所も増える。だから時間を先に決めたんだろう」
曲がり角の手前で、フェナが足を止めた。彼女の目線は床の傷ではなく、頭上に向いている。天井近くの壁に、小さな穴が五つ並んでいた。入口の柱と同じ数だ。穴の周囲は煤けているが、ひとつだけ縁が新しく欠けている。
「何かがここを通ったんでしょうか」
「通ったとすれば、小さいものだな」と鹿島さんが言った。「ただ、穴が何のためにあるかは分からない。下へ落ちるものがあるなら、頭上にも注意しよう」
俺はそのとき、奥の壁に刻まれた文字を見つけた。線が細く、古い傷に紛れていたが、昨日の地方史にあった絵と似ている。測量士は紙を押し当てようとして手を止め、光を当てて写し取る方法に変えた。
「ここに何と書いてあるんでしょう」とフェナが聞く。
「読めない」と俺は答えた。「ただ、門の上の浮彫りと同じ形がある」
文字の脇には、円が五つ描かれていた。四つは閉じた輪で、一つだけ切れ目がある。入口の窪みと関係があるのかもしれない。相馬さんは記録を終えた測量士へ合図し、ここで引き返すことを決めた。
「まだ奥が見えます」と測量士が言ったが、相馬さんは首を振った。
「見えることと、行けることは違う。予定の距離は測った。これ以上は別の準備が必要だ」
俺たちは来た道を戻り始めた。曲がり角の手前から入口を見通せるはずだったが、数歩進んだところで、廊下の奥から低い振動が伝わってきた。靴底を通して、石の中で何か大きな歯車が回り始めたような感触がする。
「止まれ」と鹿島さんが言った。
全員が足を止めた。測量士の持つ綱がわずかに震え、赤い糸の目印が床を滑った。入口の方向から乾いた金属音が二度聞こえ、頭上の穴の一つが白く光る。相馬さんは時計をしまい、警戒員へ笛を一度鳴らした。
外から応答が返る。まだ入口は通じている。俺は《帰り道》を意識した。示される方向は、俺たちが来た廊下の先だ。だが、壁の向こうから石の擦れる音が大きくなり、その方向にある床がゆっくり横へずれ始めた。
「帰る方向はあっちです。でも、床が動いています」
俺は隠さず伝えた。相馬さんは頷き、鹿島さんへ退路を確かめるよう指示した。鹿島さんは先頭へ出ず、見える範囲の床の継ぎ目を見ている。床が一枚ずつ滑るように移動し、俺たちの足元はまだ動かない。綱は入口へ続いていたが、角度が少しずつ変わり始めた。
「綱を放します」と測量士が告げた。「引かれる前に手を離します」
相馬さんが了承すると、測量士は綱を床へ置いた。赤い糸の目印が一つ、動く床の向こうへ消える。外側の固定金具が外れたらしく、綱は音もなく手前へ滑り、途中で止まった。誰も追わなかった。
フェナは壁の五つの穴を見上げていた。光っているのは一つだけだったが、振動が強まると二つ目にも白い光が灯る。彼女はその変化を俺へ知らせた。
「ナオトさん、穴の光が増えました。門の柱も、昨日は数が変わりましたよね」
「見てる。今は二つだ」
「三つ目が光ったら、何か起きるんでしょうか」
「分からない。だから、その前に安全な場所を探そう」
相馬さんは床の動きが止まるまで待つ判断をした。俺たちがいる石板は幅が広く、壁から離れている。無理に動く継ぎ目を渡るより、今はここで体勢を保つ方がいい。鹿島さんは盾を構え、周囲に魔物が現れないか警戒する。
しかし、動く床の向こうから、昨日の甲殻の生き物が姿を現した。大きな脚を壁へ突っ張り、下がる床を避けるように這い上がってくる。触角の先端が白く光る穴へ向き、甲殻の背で石片がぶつかり合った。
「こちらへ来るぞ」と鹿島さんが言った。
俺たちは壁沿いに退こうとしたが、相馬さんが止めた。そこには細い溝があり、床の移動方向と重なっている。動く壁に挟まれる危険がある。鹿島さんは剣を抜き、甲殻の生き物と俺たちの間に立った。
生き物は頭を低くし、脚を踏み鳴らした。攻撃の前触れか、ただ床にしがみついているのか判断できない。鹿島さんは大声を出さず、盾の角度を変えて距離を測った。俺はフェナの肩に手を置き、彼女が自分で動ける空間を確保する。
「ナオトさん、私、後ろへ下がれます」とフェナが言った。
「分かった。相馬さんの合図を待とう」
甲殻の生き物が跳ねた。予想していたより速い。鹿島さんは盾を斜めに出し、正面から受けずに横へ流した。硬い甲殻が盾の縁を擦り、火花のような光が散る。生き物は着地した床で脚を滑らせ、俺たちのすぐ横を通り過ぎた。
「今だ、広い石板の中央へ」と相馬さんが叫んだ。
俺たちは鹿島さんの背後を通り、床の中央へ移動した。測量士が足を取られかけたが、フェナが腕を掴んで支えた。俺はその二人の横に立ち、次にどこへ動くかを相馬さんの声で確かめる。自分の帰路が分かることは、他人の足元を支える方法を教えてくれない。
生き物はもう一度跳ねようとして、急に動きを止めた。天井の穴が三つ光り、廊下全体が低く鳴ったのだ。甲殻の背の石片が震え、生き物は触角を伏せて床へ腹を付けた。
「何が来る?」と鹿島さんが呟く。
答えの代わりに、正面の壁が縦に割れた。割れ目から風が吹き込み、古い金属の匂いが広がる。そこには別の廊下があった。床は動かず、奥から淡い青い光が差している。俺の《帰り道》が示す方向とは、ほぼ反対だった。
「新しい通路です」と測量士が言った。
「入らない」と相馬さんが即答した。「いま必要なのは出口だ」
その判断は正しかった。青い光の廊下の奥から、何か重いものが一歩ずつ歩く音が聞こえ始めたからだ。甲殻の生き物はその音に反応して体を縮め、床の割れ目へ潜ろうとした。鹿島さんも剣を構え直す。
俺は帰路の方向を見た。床の動きは少しずつ遅くなっている。外からは警戒員の笛が聞こえるが、入口は壁の陰になって見えない。ここで《帰り道》の示す道を進めば、動く床の継ぎ目を渡らなければならない。通れるかどうかを確かめずに足を出すことはできなかった。
「入口側の床が止まったら、そこを渡ります」と測量士が言った。「外の杭を基準に、通路が戻る位置は分かります。あと少しです」
相馬さんは頷き、鹿島さんへ背後の警戒を頼んだ。フェナは足元の赤い糸を拾いかけたが、すぐに手を引っ込めた。綱の端は動く床の下へ入り込んでおり、引けば何が起きるか分からない。
「置いていきます」と彼女は言った。「私たちが持って帰るものじゃありません」
やがて振動が弱まり、床の継ぎ目が閉じた。測量士が棒で確かめ、相馬さんが一人ずつ移動を指示する。鹿島さんは最後まで青い廊下を見張った。重い足音は近づいていたが、姿はまだ見えない。
俺たちは入口へ向かった。廊下は昨日と同じように正面へ伸びている。門の敷居が見えた瞬間、俺の《帰り道》は迷いなくその先を示した。だが、それはさっきまで通れなかった場所が、いま通れるようになったことを能力が教えたわけではない。測量士が床の動きを確かめ、鹿島さんが前を守り、相馬さんが時刻を決めたから、俺たちはここまで戻れた。
外へ出ると、警戒員が人数を数えた。五人全員が敷居を越えたことを確認し、相馬さんは門の前の縄をさらに遠ざけた。俺たちは山道の待避地点まで移動してから、初めて息をついた。
「甲殻の魔物がいた場所と、新しい通路が開いた場所は近かったですね」とフェナが言った。
「魔物が通路を開いたのか、通路が開いたから魔物が動いたのかは分からない」と測量士が答えた。「ただ、三つ目の穴が光った直後に壁が開いたのは記録できます」
鹿島さんは盾の縁を確かめていた。表面には甲殻が擦った白い傷が残っている。深い傷ではないが、あの生き物が本気でぶつかってきたら、盾だけでは防ぎ切れなかったかもしれない。
「今日は十分だ」と相馬さんが言った。「入口の外で見たもの、内側で起きたこと、全部持ち帰る。明日は専門の術式技師を呼ぶ。俺たちだけで仕組みを解こうとするな」
俺は頷いたが、頭の中には青い廊下の奥から聞こえた足音が残っていた。甲殻の生き物が怯えた相手。壁の向こうで重い何かが歩いていた。姿を見なかったことが、かえって想像を膨らませる。
下山の途中、フェナが手帳を開いた。彼女は五つの穴の絵の下に、三つ目が光ったときの出来事を順番に書いている。床が動いた、甲殻の生き物が伏せた、青い廊下が開いた。どれも見たことだけで、理由は空欄のままだ。
「ナオトさん、あの魔物、私たちを追ってきたんじゃないのかもしれませんね」
「そうかもしれない。でも、飛びかかってきたのは本当だ」
「はい。怖かったです。でも、あの子も何かを怖がっているように見えました。だから、次に会ったとき、同じように動くとは限らないと思います」
俺はフェナの言葉を聞き、鹿島さんの盾に残った傷を思い出した。敵か味方かを決めるより、どこで何が起きたかを確かめる方が先なのだろう。あの生き物を倒すことが目的ではない。門の奥を知ることと、無事に帰ることが、いまの俺たちの仕事だ。
街へ戻った夕刻、瀬川さんが古い地方史の写しを広げて待っていた。門の絵の下にある欠けた文字を、別の写本と照らし合わせたという。昨日は読めなかった一行が、少しだけ長くなっていた。
『門は道を隠さない。道の方が門を忘れる。五つの灯が揃うとき、番人は目を覚ます。』
五つの灯。俺たちが見たのは、三つまでだった。青い廊下の奥から聞こえた重い足音が、偶然だったとは思えなくなる。
「番人って、あの甲殻の魔物ですか」とフェナが聞いた。
「分からない」と瀬川さんは答えた。「そもそも、写本の『番人』が生き物を指すかどうかも不明です。比喩かもしれません」
相馬さんは写本を受け取り、しばらく黙って読んでいた。やがて紙を置き、俺たちに言った。
「明日、門へ入るとは限らない。ただ、もしあの音の正体を確かめるなら、五つ目が光る前に帰れるとは考えない方がいい」
俺は窓の外の暗くなった街を見た。門の向こうに何があるのか知りたいという気持ちは、確かにある。だが、知りたいから進むのと、帰れるから進むのは違う。俺の能力はその違いを埋めてくれない。
帰り際、フェナは手帳の最後に小さな丸を五つ描いた。三つを薄く塗り、残り二つは白いままにした。その頁を見て、俺はようやく気づいた。俺たちは今日、五つの灯が何を意味するかを知るために門へ入ったのではない。五つ目まで光らせずに帰れたことが、何より大切だったのだ。
夜、俺は一人で剣の手入れをしている鹿島さんのところへ寄った。今日の戦いで彼が受けた衝撃が気になっていたからだ。彼は盾を裏返し、留め具の革紐を新しいものに替えていた。甲殻の魔物が擦った傷は浅いが、金属の縁が少しだけ歪んでいる。
「直せますか」と俺が聞くと、鹿島さんは小さな槌を置いた。
「工房へ出せば直る。だが、次も同じ場所で受けるつもりはない。あいつは俺を狙って跳ねたんじゃないかもしれないからな」
「フェナも同じことを言っていました」
「よく見ている。俺は盾に当たる瞬間しか見られなかった。あいつがどこを見ていたか、俺よりフェナの方が覚えているだろう」
鹿島さんは椅子を引き、俺にも座るよう促した。
「久世。お前は今日、帰る方向を口にしたあと、動かなかったな」
「床が動いていましたから。能力で道が分かっても、足を出せるかどうかは分かりません」
「それでいい。昔、俺が若いころは、強い剣を持っていれば怖い場所でも前に進めると思っていた。だが、剣が届くのは目の前だけだ。届かないものまで斬れると思ったら、守れるはずの相手を失う」
彼は磨いた盾を壁へ立てかけた。俺はその言葉を聞きながら、今日、青い廊下へ入らないと決めた相馬さんの声を思い出していた。強い人が引き返す判断をするのは、弱いからではない。自分が守れる範囲を知っているからだ。
「明日も同行するんですか」と俺が聞くと、鹿島さんは少し笑った。
「必要ならな。ただし、あの番人とやらを見たいから行くわけじゃない。お前たちが戻ると決めたとき、背中を守るためだ」
俺は礼を言い、工房を出た。通りには夜番の灯りがともり、家々の窓から夕食の匂いが漂っている。誰もがそれぞれの帰る場所を持っている。山の門の中で聞いた金属音は、もう耳には残っていなかった。それでも、五つの穴のうち三つが光った瞬間だけは、何度思い返しても鮮やかだった。




