第198話 破れた行の持ち主
縄の向こうに立つ羽取梢は、俺たちを招き入れるでも追い返すでもなく、測量棒を肩に戻した。灰色の上着の袖は土で汚れ、靴底には新しい泥が付いている。ここへ来るのが久しぶりという様子ではなかった。
「冬真が来ているって、どういう意味だ」
美波が問いかけると、梢は鐘楼の土台を指した。
「先月から、古い水路の測量を頼まれているの。私が図面を引いて、冬真が現地の標識を直す。今日は朝から一緒だったけど、あの人は先に山を下りた。あなたが来ると知っていたら、待ってもらったかもしれないね」
「私が来ると、誰かから聞いたのか」
「聞いていない。だから驚いてる」
梢はそう言うと、斜面の途中に立てた赤い棒を抜いた。崩れかけた石段へ近づかず、長い棒で地面の位置を測っている。美波は縄の手前から手伝おうとしたが、梢が首を振った。
「今は仕事中。こちら側に入らないで。右手、まだ治っていないんでしょう」
「……分かった」
美波が素直に引いたのを見て、梢の表情が少し変わった。昔なら口論になったところなのかもしれない。
俺は名乗り、フェナも短く挨拶した。梢は俺の名前を聞いて、ほんの少し眉を上げた。
「帰り道が分かる探索者さんね。噂は聞いてる。でも、この斜面の安全はあなたの能力では分からないでしょう?」
「分かりません。帰る方向と道筋だけです」
「それなら話が早い。今、地面の下を水が流れていて、踏むと沈む場所があるの。昔の訓練生が通ったからといって、今も通れるわけじゃない」
梢の言葉には、誰かを試す響きがなかった。彼女は測った数字を帳面へ記し、赤い棒を一本ずつ回収した。作業が終わるまで俺たちは縄の内側で待った。フェナは石に腰を下ろし、自分の手帳を開いたが、書き始める前に梢を見上げた。
「ここで見たものを、私の手帳に描いてもいいですか。お仕事の地図は描きません」
「草や建物なら構わないよ。危険な場所を知らない人に歩かせるような図にしなければ」
「ありがとうございます」
フェナは壊れた鐘楼を、見たままの形で描いた。美波はその横で黙っていたが、彼女が右手の固定具を何度も触っていることに俺は気づいた。
梢が縄のこちら側へ戻ったのは、昼前だった。小暮さんの小屋で休憩するつもりらしく、三人分の顔を見てから美波へ尋ねた。
「それで、返したい紙って何?」
美波は胸元から古い紙片を出した。梢は受け取らず、端の破れ目を見た途端、目を細めた。
「まだ持っていたんだ」
「ずっと持っていた。あの日、最後まで書けなかった記録だ」
「書けなかったんじゃない。あなたが書いてしまったから、私が破ったんでしょう」
美波は唇を結んだ。俺は二人の間へ割って入らず、少し離れた場所に立った。フェナも手帳を閉じ、梢の言葉を待っている。
「記録の最後には何と書いてあったのか、覚えてる?」
「『班員三名、課題を完了』だ」
「そう。あのとき冬真は、鐘楼から下りる途中で足を痛めて動けなくなっていた。私は彼を支えていた。あなたは先に教官のところへ行って、三人で終えたと報告した」
「私は、救援を呼ぶつもりで……」
「それなら『二人がまだ戻っていない』と言えばよかった。あなたが言ったのは『三人とも課題を終えた』だった」
美波は何も言い返せなかった。梢は紙片の上へ視線を落とし、息を吐いた。
「私はあの一行を見たとき、自分がそこにいないような気がした。冬真が痛がっていたことも、道を間違えたことも、何も書かれていなかった。だから破った。あなたの記録を壊したかったんじゃなくて、私の名前で『完了』にされたくなかった」
美波は紙片を持つ左手を下ろした。
「その通りだ。私は二人の話を聞かなかった。今になって返しに来たのは、遅すぎると思う」
「遅いかどうかは、私が決めることよ」
梢の返事は鋭かった。だが、怒鳴ることはしなかった。
「それに、返す相手は私だけじゃない。冬真は、あなたが何を言ったか知らないまま、ずっと自分の怪我を恥じていた。あの人は足が速いことしか取り柄がないと思っていたから」
「冬真は今、どうしている」
「山の道具を直す仕事をしてる。歩けるし、よく笑う。でも走るのは苦手になった。あなたが想像しているような、悲しいだけの人生じゃない」
美波の顔が歪んだ。彼女が何か言いかけたとき、梢は先に続けた。
「謝りに来たのなら、本人の話を聞いて。自分の後悔を渡して、軽くなろうとしないで」
その言葉は俺にも重く聞こえた。美波が悪かったのか、梢が正しかったのか、ここで一つに決められる話ではない。昔の出来事は変えられないが、今どう話すかは三人それぞれのものだ。
小暮さんの小屋へ戻ると、彼女は湯を沸かしていた。梢が持ち込んだ測量図を見て、赤い棒の位置を確認する。水路沿いの斜面は、来週から補修のため閉鎖する予定らしい。
「鐘楼の下で変な音がするって、村の人が言ってたよ」と小暮さんが言った。「夜になると、鐘を叩くみたいに二度鳴るんだと」
「風で横木が揺れる音でしょう」と梢は答えた。「今日も調べたけど、鐘そのものはもうない」
「昔の訓練生は、鐘が鳴らないと帰れないと思い込んでいたらしいね」
小暮さんが何気なく言うと、美波は茶碗を持ったまま動きを止めた。
「誰から聞いたんですか」
「この場所の古い話は、村の人がよくするよ。鐘を割った子がいて、足を怪我した子がいて、地図を抱えて泣いた子がいたって。どこまで本当かは知らないけど」
梢は茶碗を置いた。
「泣いたのは、私じゃない」
美波が顔を上げる。
「冬真か」
「そう。あの人は痛くて泣いたんじゃない。鐘を鳴らせなかったから、みんなの足を引っ張ったと思って泣いた。私が地図を見せても、『戻る道なんて分かってる』と言って聞かなかった」
梢はしばらく窓を見つめていた。
「私も正しかったわけじゃない。怖いから引き返したいと何度も言ったけど、なぜ怖いか説明できなかった。自分の描いた地図に自信がなくて、強く止められなかった。だから今は、測量したことと分からないことを分けて書くようにしてる」
フェナはその話を聞きながら、指先で手帳の角を押さえていた。
「分からないことを書いてもいいんですか」
「むしろ、そこが大事。空白を空白のまま残せば、次に来た人が調べられる。知ったふりをして線を引いたら、誰かがその線を道だと思ってしまう」
「私の手帳にも、まだ分からないことがあります」
「それなら、そのままでいい。誰かに見せるために全部埋める必要はないよ」
フェナは頷いた。美波はそのやり取りを黙って聞いていた。
小暮さんが奥へ茶葉を取りに行った間、梢は窓辺の机に測量図を広げた。白い紙には山の斜面を横切る細い線が何本も引かれ、赤い印の近くに小さな数字が並んでいる。俺は読める範囲だけ眺めたが、地図のようでいて、普段見る地図とは違った。
「これは道じゃないんですか」
フェナが赤い線を指さすと、梢は首を振った。
「水がどこへ流れるかを予測した線。人が歩くための線じゃない。だから端に『通行用ではない』と書いてあるの」
「線があると、歩ける道だと思ってしまいそうです」
「そうね。図面を作る人は、自分が何を描いているか分かっている。でも見る人は同じ知識を持っているとは限らない。私も若い頃は、図面の正確さだけ考えていた」
梢は紙の端を折り返し、裏面の注記を見せた。調査した日付、天候、測った人の名前、それから「未確認」の欄。どの項目も、書き込む場所が十分に取られている。
「今は、見つけたものだけじゃなく、見つけられなかったものも書く。地面の下が分からないなら分からないと。道を歩く人が、自分で危険を考えられるように」
「冬真さんも、この地図を見て仕事をするんですか」
「ええ。彼は標識の職人だから、私が決めた位置にただ立てるわけじゃない。実際に立てられる地面か、雪で隠れない高さか、手袋で触って分かる形か、現場で判断してくれる」
「走るのが速かった人が、今は道を作る仕事をしているんですね」とフェナが言った。
梢は少し笑った。
「走るのは遅くなったけど、誰より先に道具の欠点を見つけるよ。昔から器用だったから。冬真が足を怪我したことだけを聞くと、何かを失った話に見えるでしょう。でもあの人は、自分で仕事を選んだの」
美波は図面を見つめていた。
「私は冬真が走れなくなったと聞いてから、勝手にあの人の人生を決めつけていた。剣を持てなくなった自分のことさえ、まだうまく考えられないのに」
「右手の怪我は治る見込みがあるんでしょう」
「医者はそう言っている。今は若手に足運びを教えている」
「それは、あなたが昔から得意だったことじゃない」
梢の言葉に、美波は少し驚いたようだった。
「覚えているのか」
「あなたは速かったけど、ただ走るだけじゃなかった。私が転びそうになると、足を置く場所を一つずつ教えてくれた。腹が立つほど偉そうな言い方だったけど」
「それは……すまない」
「謝るところはそこじゃないと思う」
二人は一瞬だけ顔を見合わせ、それから同時に笑いかけて、すぐに視線を逸らした。俺はその小さな変化に気づいたが、口にはしなかった。昔の二人がどんな関係だったのか、俺の知らない部分がまだたくさんある。
梢は地図筒からもう一枚、古い紙を取り出した。今の図面とは違い、紙の端が茶色く変色している。三つの印が山腹に並び、青い鉛筆で帰着の時刻が書かれていた。
「これが、あの日の私の控え。完全な地図じゃないけど、残してあった」
美波は身を乗り出したが、梢は紙を引っ込めなかった。
「見て。私たちはここで道を外れた。ここで雨が強くなって、ここで冬真が足を痛めた。私が描いたのは、そこまで。教官のところへ戻る道は、別の人が案内してくれたから、私は自分で歩いたようには描いていない」
「誰が案内したんだ」
「教官の助手。あなたが呼んだ人だよ。だから、美波が何もしてくれなかったと言うつもりはない」
美波は息を止めたように見えた。
「私は二人を置いて戻った。それだけは覚えている」
「そう。でも、戻って人を呼んだことまで消す必要はない。私が怒っているのは、報告した言葉の方。助けを呼んだなら、助けを呼んだと書いてほしかった。三人で課題を終えたことにしないでほしかった」
俺は控えの紙を見た。そこには誰かの善悪を決める言葉がない。道を外れた地点と雨の時間、怪我をした場所だけが残されている。美波の紙片と合わせれば、二つの記録は同じ出来事の違う部分を語っている。
「二枚を重ねれば、当日のことが少し分かるんですね」とフェナが言った。
「少しだけね。冬真の見たことは、まだどちらにも書いていない」
梢は控えを畳み、地図筒へ戻した。
「だから、三人で話す必要がある。私が正しいことを全部知っているわけじゃないし、美波が覚えていることが全部間違いでもない。冬真にしか分からない時間がある」
美波は深く頷いた。彼女の右手は固定具の中で動かせないが、左手なら紙を持つことも、相手に差し出すこともできる。俺はその手が、今は何も急いで掴もうとしていないことを見ていた。
昼食のあと、梢は旧教室の棚から出てきた布袋を見に行くことを了承した。小暮さんも同行し、所有者の確認ができれば本人へ返してよいと言った。四人で教室へ向かう途中、美波は梢へ歩調を合わせた。
「梢。あの袋に紙が縫い込まれている。私たちは開けなかった」
「私が縫ったものなら、覚えているはずだけど」
「覚えていないのか」
「十何年も前のことだもの。忘れたことはあるよ。忘れていないこともあるけど」
教室の棚で袋を見た梢は、青い糸を指でつまんだ。顔に驚きが浮かぶ。
「これ、冬真が縫ったんだ」
「冬真が?」
「手先が器用だったの。走るのが速いばかりじゃなかった。私が雨で地図を濡らすたび、袋の口を縫い直してくれた」
梢は袋を光へかざし、裏地の中に何かがあるのを確かめた。
「ここに入っているのは、たぶん私たちが作った最後の地図。冬真が『戻ってから開けよう』と言って縫った。私たちはそのまま別々になったから、開けずに残ったんだね」
「開けますか」とフェナが聞いた。
「今は開けない。冬真が自分で縫ったなら、冬真にも聞きたい」
美波は袋へ伸ばしかけた手を引いた。梢はその動きを見て、わずかに表情を和らげた。
「変わったね、美波。昔なら、誰より先に中を確かめていた」
「変わったつもりでいた。だが、ここへ来てみると、昔の自分がまだ近くにいる気がする」
「それは私も同じ。あなたの顔を見た途端、昔の言い方に戻ってしまった」
二人はそれきり黙った。俺は袋の縫い目を見つめながら、今ここにいない冬真の返事を待つべきだと思った。
小暮さんが古い管理台帳を持ってきた。訓練場が閉鎖されてから残された私物について、持ち主が確認できれば返却できるという。ただし、台帳には冬真の連絡先がなかった。梢が知っているのは山麓の工房の場所だけで、今日は仕事で村の外へ出る予定だという。
「明日なら戻るはず」と梢が言った。「急ぐ理由がなければ、明日会えばいい」
「今日のうちに謝りたい」と美波は言いかけたが、途中で口を閉じた。「……いや。私が急ぐ理由はないな」
梢は頷いた。
「会うなら、冬真が都合のいいときに。私が連絡しておく。会いたくないと言われたら、その返事も受け取って」
「分かった」
俺たちは小暮さんの許可を得て、袋を梢に預けることにした。美波の紙片はまだ彼女の胸元にある。返す相手が一人ではないと分かった以上、勝手に手渡すことはできない。
午後、雨雲が低くなり、斜面の向こうから冷たい風が吹いた。帰る支度を始めたとき、鐘楼の方から乾いた音が二度聞こえた。小暮さんは顔をしかめたが、梢はすぐに立ち上がった。
「さっき測った場所だ。風だけならいいけど、土台が動いているかもしれない」
美波が立ち上がる。
「見に行くのか」
「縄の外から確かめる。危険なら立入禁止を広げるだけ。中へは入らない」
梢は測量棒を手にし、俺たちにも広場で待つよう告げた。だが、鐘楼の音はもう一度鳴り、今度は少し低い響きが混じった。フェナが音の方へ顔を向ける。
「二つの音が、違う場所から聞こえます」
梢は足を止めた。彼女は風向きを見て、古い水路の位置を思い出すように地面へ目を落とした。
「鐘楼の下じゃない。水路の蓋が鳴ってるのかもしれない」
小暮さんが管理図を広げた。広場の端から旧教室の下を通り、斜面へ抜ける細い暗渠が描かれている。梢が今日測っていたのは、その出口付近だった。
「この水路、今も流れているのか」と俺は尋ねた。
「雨のあとだけ。けど、山の上で降った雨がこちらへ来るまで時間差がある」
梢は暗渠の入口へ近づき、縄の内側から長い棒で蓋を押した。蓋は動かなかったが、下から空気が抜けるような音がした。小暮さんが眉を寄せる。
「昔の木の蓋が残っているんだよ。外すなら村の職人を呼ばないと」
「今は外しません。入口を塞いで、人が近づかないようにしましょう」
梢は持っていた赤い棒を二本立て、縄を張り直した。美波は左手で縄の端を持ち、フェナは小暮さんの指示で古い注意札を運んだ。俺は門まで戻って予備の杭を借りてきた。誰も暗渠の中を覗き込まず、音の正体を確かめることより、近づかない範囲を決める方を先にした。
作業を終えるころには、小雨が落ち始めていた。梢は濡れた髪を拭き、俺たちへ礼を言った。
「危ない場所を見つけるのは、私の仕事。そこへ誰も入れないようにするのは、一人じゃできない。手を貸してくれて助かった」
「昔の私なら、音のする場所へ真っ先に飛び込んでいた」と美波が言った。
「知ってる」と梢は答えた。「だから今日は、あなたが縄のこちら側にいてくれて、少し安心した」
門を出ると、雨が道の土を黒く染めていた。梢は工房の住所を書いた紙を美波へ渡し、明日まで連絡を待つように言った。美波は左手で受け取り、折り目を付けずに懐へしまった。
「梢。あの日、私は二人の名前を勝手に使った。言い訳はしない」
「聞いたよ。でも、私は今すぐ許すとは言わない」
「それでいい。今日は話してくれてありがとう」
梢は少しだけ目を伏せた。
「冬真が会うと決めたら、私も同席する。三人の話だから」
俺は三人が初めて同じ机に向かう場面を想像した。そこに俺がいるべきかどうかは、まだ分からない。少なくとも、俺の《帰り道》で誰かの過去へ近道を作ることはできない。
門の脇には、朝には気づかなかった小さな木札が掛かっていた。文字は薄れていたが、「使用後は道具を戻すこと」と読める。美波はその札を見上げ、持ってきた物差しを包み直した。今日は何かを取り戻しに来たつもりだったのに、手ぶらで帰ることになった。それでも、勝手に持ち帰らずに済んだものがある。彼女の歩き方は、来たときより少しゆっくりだった。
帰りの馬車で、フェナは窓に付いた雨粒を指で追っていた。美波は紙片を出さず、膝の上に左手を置いている。沈黙は長かったが、行きの馬車とは違って、何かを隠すためのものには見えなかった。
「ナオトさん」とフェナが小声で言った。「明日、冬真さんが会いたくないと言ったら、美波さんはどうするんでしょう」
「俺には決められない。でも、今日の美波なら、その返事を聞けると思う」
「そうですね。私も、聞くことと答えをもらうことは違うって、覚えておきたいです」
窓の外で山が遠ざかっていく。俺たちが戻る道は確かにある。だが、戻ったあとに誰と何を話すかは、帰路の先で一人ずつ選ぶしかない。俺は美波の方を見た。彼女は雨の向こうに消えかけた鐘楼を、最後まで見送っていた。




