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ハズレスキル《帰り道》しかないF級探索者、遭難したS級パーティを全員連れて帰ったら救難依頼が殺到しました  作者: ころもぐら


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第197話 鍵のない訓練場

 山麓へ向かう乗合馬車は、朝の市場を抜けるまで何度も停まった。野菜籠を積む人、街へ戻る郵便配達、まだ眠そうな子どもを抱いた母親。誰もがそれぞれの用事を持っていて、俺たち三人の席だけが妙に静かだった。


 美波は窓際に座り、右手首の固定具を左手で押さえている。昨夜のうちに「無理をさせない」と念を押したのだが、本人は山を歩く程度なら問題ないと言い張った。実際、今日の彼女は剣も防具も持っていない。膝に載せた細長い包みの中身は、古い木製の物差しと、折り畳んだ布だという。


「それは訓練で使っていたものか」


「物差しの方はな。布は違う。雨が降ったときに紙を包むためだ」


「紙を返す相手には、もう連絡してあるんですか」


 フェナが尋ねると、美波は窓の外から目を戻した。


「まだだ。相手が今どこにいるかも分からない。ただ、訓練場へ行けば手掛かりが残っていると思う」


 彼女が差し出した紙片には、三人の名前があった。神代美波、羽取梢、佐久良冬真。名前の横には日付と課題名が記され、最後の行が乱暴に千切られている。俺は紙片を持ち上げず、膝の上で読んだ。


「羽取さんと佐久良さんは、同期なのか」


「ああ。梢は地図を描くのが得意だった。冬真は足が速くて、誰よりも早く頂上の鐘へ辿り着くのが自慢だった。私たちは三人で一組を作っていた」


「今も探索者を?」


「それを知りたいから行くんだ」


 美波はそれ以上説明しなかった。隠しているというより、口にすると何かが決まってしまうのを怖がっているように見えた。俺には他人の胸の中を探る能力はない。彼女が道を案内すると言ったのなら、歩きながら聞くしかない。


 街を出て一時間ほどすると、畑の代わりに杉の林が続き始めた。馬車が終点の小さな停留所へ着いたころには、薄い雲が山腹を隠していた。ここから先は徒歩になる。道は二つに分かれ、片方は新しい石畳の参道、もう片方は落ち葉の積もった古い荷車道だった。


「訓練場はあちらだ」


 美波が古い道を指す。フェナは手帳を鞄にしまい、靴紐を結び直した。


「私、ついていくと決めましたけど、知らない人の昔の話を全部聞いていいとは思っていません。話したくないことがあったら、そう言ってください」


 美波は意外そうな顔をして、それから小さく笑った。


「助かる。昔の私は、聞かれたら何でも答えるのが強さだと思っていたからな」


 荷車道は見た目ほど荒れていなかった。木の根を避けて歩けば足場は固く、途中には古い排水溝も残っている。だが、訓練場の門が見えたところで美波が足を止めた。鉄の門扉には大きな錠前が掛かっておらず、代わりに錆びた鎖が緩く巻かれていた。鎖の端には新しい布紐が結ばれている。


「誰かが使っているのか」


「閉鎖されたはずだ。少なくとも、公式の訓練には使われていない」


 美波は鎖を外しかけ、左手を引っ込めた。


「管理者の許可を取ってからにする。勝手に入っていい場所じゃない」


 門の脇に小屋があり、窓辺には乾いた薬草が吊るされていた。美波が戸を叩くと、しばらくして年配の女性が顔を出した。濃い色の前掛けを着け、片手には薪を一本持っている。


「見学かい。それとも山の測量?」


「昔、ここで訓練を受けていた神代です。管理人の方にお話を伺いたくて」


 女性は美波の顔をじっと見てから、目を細めた。


「神代……ああ、あの鐘を割った子か」


 美波の肩がわずかに動いた。俺は横から口を挟まず、女性が薪を脇へ置くのを待った。


「今は私が草刈りと門の見回りをしている。名は小暮。昔の教官たちはとっくに山を下りたよ。入るなら、先にここへ名前を書いておくれ。崖の方は崩れやすいから近づかないこと」


 小暮さんは木の板を出し、三人分の記名を求めた。美波は左手で丁寧に書いた。俺とフェナも名前を記し、立ち入りを許された範囲を地図で確認する。昔の訓練場は広い敷地を持っていたらしいが、現在入れるのは正門から練習広場、旧教室、鐘楼跡までだという。


「鐘を割ったって、どういうことだ」


 門をくぐってから俺が尋ねると、美波はため息をついた。


「話が大きくなっている。割ったのは鐘じゃない。鐘を支える木の台だ。しかも、わざと壊したわけじゃない」


「それでも覚えられているんですね」とフェナが言った。


「私の方は忘れられたかったんだがな」


 練習広場には背の低い草が生え、中央の円形の土だけが不自然に固かった。周囲の木柱には、色の褪せた番号札が掛かっている。広場の奥には屋根の落ちた教室があり、さらに先の斜面には鐘楼の骨組みが残っていた。


 美波は広場の真ん中に立つと、ゆっくり周囲を見回した。


「ここで最初に教わったのは、剣の振り方じゃなかった。三人で一枚の地図を作ることだった。教官は何も教えず、朝に私たちを門から放り出した。夕方までに鐘を鳴らして戻れ、と」


「探索者の訓練にしては、ずいぶん乱暴だな」


「当時はそれが普通だと言われた。私は疑わなかったし、冬真は面白がっていた。梢だけが『地図のない場所へ人を送るなら、帰りの時間を先に決めよう』と言った」


 その言葉を聞いて、俺は彼女の紙片を思い出した。三人の名前の下に書かれた課題名は『夕鐘までの帰着』。夕方の鐘が鳴るまでに戻る訓練だったのだろう。


「梢さんの提案は通ったのか」


「通らなかった。私が反対したからだ」


 美波は淡々と言ったが、言い終えたあとで視線を落とした。


「当時の私は速く進むことしか考えていなかった。帰る時間を決めるのは、最初から諦めるのと同じだと思っていた。冬真も私に賛成した。梢は結局、何も言わずに地図を描き始めた」


 広場の端には浅い水路があり、今も山からの水が細く流れていた。訓練生たちは水路を渡るとき、橋の幅と流れの速さを記録したらしい。古い測定板が倒れていたので、俺は拾い上げようとしたが、裏側に苔が厚く付いているのを見て手を止めた。ここにあるものは、昔の美波たちが使ったものかもしれない。勝手に片付けるのも違う気がした。


「当時の訓練って、どこまで本物だったんだ」


「教官は危険を取り除いたと言っていた。だが、自然の地形を使っていたから、完全に安全なわけじゃない。訓練生が通る予定の道には縄が張られていて、鐘を鳴らせば教官が合図を返す。私たちはそれを頼りに進むはずだった」


「はずだった?」


「私が、縄の外にも道があると言い出したんだ」


 美波は水路の向こうに目を向けた。そこには山腹へ続く獣道があり、木々の間に白い石が二つ見える。俺の目にはどこにでもある斜面にしか映らなかった。


「教官が指定した道は大回りだった。鐘楼までの距離を競うなら、あの斜面を横切る方が速い。冬真は喜んだ。梢は反対した。私は『一度見に行って、駄目なら戻ればいい』と言った」


「戻れる根拠はあったのか」


「なかった。私は、自分が来た道なら戻れると思っていた。今の久世の能力とは違う。地形を覚えるのが得意だからという、それだけの自信だ」


 俺はあらためて斜面を見た。ここから見える白い石は二つだが、雨で土が流れれば見え方は変わる。葉が茂る季節には、目印そのものが隠れるだろう。


「俺も、最初は似たような勘違いをしていた。《帰り道》が分かるなら、どこでも一人で歩けるって。でも道筋が分かるのと、その道を歩けるのは別なんだ」


「そうだな。私はその区別を、ずいぶん遅く覚えた」


 美波は自嘲するように笑ったが、俺はそれを軽く受け流せなかった。人は間違いから学べる。それでも、学ぶまでの間に誰かが傷ついていれば、本人にとっては済んだ話にならない。


「梢さんは、そのとき何をしたんですか」


 フェナが水路を覗き込みながら聞いた。流れの上には落ち葉が浮き、狭いところで渦を巻いている。


「反対したあと、三人分の帰着予定時刻を書いた。私たちが近道を選んでも、どこかで戻る判断をできるように。それから、足跡だけでは分からなくなる場所に、柱や石へ小さな印を残していった」


「一緒に行ったんですね」


「ああ。自分だけ正しい道を歩いて戻ることもできたのに、そうしなかった」


「どうしてでしょう」


「今なら聞けるかもしれない。昔の私は、あの子が怖がりだから付いてきたんだと思っていた」


 フェナは少し考えたあと、言葉を選んだ。


「怖がっていたとしても、誰かのために歩くことはあります。怖がりと勇気があることは、反対じゃないと思います」


 美波は返事をせず、広場の向こうの鐘楼を見上げた。壊れた木組みは年月を経て黒ずみ、かつて鐘を吊っていた横木だけが残っている。


「冬真は、梢のことをよくからかった。地図を描くのに時間を使いすぎる、紙ばかり見ていたら景色が見えない、と。でも一度だけ、梢の地図を見て『俺たちの歩いた道が残るのはいいな』と言ったことがある」


「仲は悪くなかったんだな」


「悪くはなかった。ただ、仲がいいから相手の言葉を聞けるとは限らない。私たちは、互いの得意なことだけを都合よく使っていたのかもしれない」


 美波がそこまで話すのは珍しかった。普段の彼女は、何かを決めるときに迷いを見せない。剣を持てない今も、若手探索者へ足の運び方を教えるときは明快だ。そんな彼女が、ここでは一歩ずつ言葉を探している。


 広場の反対側には三つの石段があり、段の側面に『一』『二』『三』と刻まれていた。美波は一番下の段を指し、俺たちに上がらないよう言った。


「ここは訓練の出発点だ。教官が毎朝、班ごとに違う地図を渡した。地図は完成品じゃなく、白い部分が多かった。自分で見た地形を足し、帰りにどこを通ったか説明する。速さを競うのは、本来の課題じゃなかった」


「じゃあ、鐘を鳴らすのは?」


「到達したことを知らせるためだ。鳴らせなければ失敗という決まりもなかった。だが、私と冬真は勝手に競争だと思い込んでいた。教官も、私たちの勢いを面白がって止めなかった」


 フェナは石段の前にしゃがみ、刻まれた数字を見た。


「説明を聞く人によって、違う課題になっていたんですね」


「そういうことだ。だから今、若い連中に教えるときは、何を達成したら終わりなのかを最初に言うようにしている」


 美波は右手を少し持ち上げ、固定具を見た。


「けれど、それだけで昔のことを埋め合わせられるわけじゃない。ここへ来るまで、私はその二つを混同していたのかもしれない」


 フェナは広場の端へ歩き、色褪せた柱の一つを見た。柱の裏側には小さな溝が三本刻まれていた。何かを数えた跡にも見えるが、今は意味が分からない。


「この線、訓練の目印ですか」


 美波が近づくと、顔色が変わった。


「いや。これは梢が付けた印だ。紙が濡れて読めなくなっても、どの柱まで来たか確かめられるように」


 彼女は左手の指先で溝をなぞった。三本の線はまっすぐではなく、中央だけ少し曲がっている。


「私たちの地図は、あの夜の雨で破れた。なのに印は残っていたんだな」


「夜まで訓練が続いたのか」


「予定では夕方までだった。私が鐘を鳴らすことにこだわって、戻る時間を過ぎた」


 美波はそこで言葉を切り、旧教室の方へ歩き始めた。俺たちは後を追った。教室の扉は半分外れていたが、管理人が手を入れたのか床は掃かれている。壁には古い掲示板が残り、破れた課題表が何枚も重なっていた。


 教室の入口には、昔の訓練生が描いたらしい山の断面図が残っていた。青い線は水路、赤い線は通行を許された道、黒い点は鐘の位置を示している。俺は赤い線の終点にある小さな丸を指した。


「この丸が出発点なら、ここから鐘楼までの距離は確かに長いな」


「だから近道を探した」と美波は言った。「ただ、赤い線には理由があった。山の斜面は場所によって土の下に空洞がある。訓練生が勝手に踏み込まないよう、危険な範囲を避けていたんだ」


「そのことは教えられていなかったのか」


「言われていたと思う。でも、私は聞き流した。『ここから先は入るな』と聞いたことと、なぜ入ってはいけないか理解することは違う」


 壁の図面には、細い筆跡で修正が入っていた。美波が記憶している地形と一致しない部分があるらしい。彼女は左手で空中に線を引き、紙の上の曲がり角と窓の外の斜面を見比べた。


「この水路は、昔もっと東に流れていた。大雨のあとに護岸を直したから、今の位置になったんだろう。私たちが通った場所も、もう同じ形では残っていないはずだ」


 俺はその説明を聞いて、地図が古くなるという当たり前のことを考えた。道が消えるのは、誰かが塞ぐからだけではない。水が土を運び、木が育ち、人が通らなくなる。紙の上では一本の線でも、現地では何年も前に途切れていることがある。


「ナオトさん、これを見てください」


 フェナが掲示板の下から、割れた木製の名札を拾い上げた。表には名前がなく、裏に小さな丸が二つ描かれている。彼女は美波へ差し出す前に、拾ってよい物か確かめた。


「置いてあったものだから、元の場所へ戻せばいい」と美波が答えた。「でも、何の印だろうな」


 俺が見ても、丸の意味は分からなかった。フェナは名札を傾け、光の当たり方を変えた。


「丸じゃなくて、輪っかに見えます。ここに糸が通っていた跡があります」


 確かに木の端に小さな穴が開いている。そこから糸を通せば、何かを吊るせる形だ。


「昔は、地図を描き終えた班が目印を掛けていた」と美波が思い出した。「その日、どの道を調べたか分かるように、札の裏へ印を付けていたんだ。丸二つは水路沿いの区画だったと思う」


「では、ここにあるものは全部、誰かの作業の跡なんですね」


 フェナは札を元の場所へ戻した。彼女の手帳にも、これから何年も経てば意味が分からなくなる絵や言葉が残るのだろう。俺がその中身を勝手に読まないのと同じように、昔の訓練生が残した物にも、持ち主の事情がある。


 棚の奥には薄い金属板が一枚挟まっていた。美波はそれを取り出さず、表面の文字だけを読んだ。『最終課題の記録は班員三名の確認をもって成立とする』。三名の署名欄があり、どれも空白だった。


「三人の確認が必要だったのか」


「そうだ。記録を残すのは、勝った人間を決めるためじゃない。何を見て、どこで迷って、なぜ戻ったかを、全員で確かめるためだった」


 美波は胸元の紙片に触れた。


「私は最後まで、その意味を理解しなかった。だから、あの紙を一人で持ち帰った」


「そのとき、梢さんたちは?」


 俺の問いに、美波はすぐには答えなかった。窓の向こうで風が吹き、朽ちた庇が一度だけ鳴った。


「冬真は、鐘楼から下りたあと足を痛めていた。梢は地図を乾かそうとして、ずぶ濡れになっていた。私は二人より先に教官のところへ戻り、訓練を終えたと報告した」


「三人一緒ではなかったんですか」


「一緒に戻るつもりだった。けれど、教官に説明しなければ失格になると思った。あのとき私は、二人の状態を確認するより、自分たちの成績を守ることを優先した」


 美波の声には言い訳がなかった。俺は彼女が昔したことを、今ここで裁く立場にはない。ただ、聞いていると、紙片の破れた行に何が書かれていたのか気になった。


「そのあと、二人とは話せたのか」


「冬真とは少しだけ。梢とは、まともに話せないまま別れた。私が訓練場を離れるとき、梢はもう別の班の地図を描いていた」


 フェナは美波の表情を見て、口を閉じた。聞きたいことはあるはずだが、今は問いを重ねないと決めたのだろう。美波は棚の木箱を閉め、しばらくその上に左手を置いていた。


 フェナは入口で立ち止まった。


「私、ここに入っても大丈夫ですか。美波さんにとって、特別な場所ですよね」


「一緒に来てくれと頼んだのは私だ。入ってほしい。ただ、触る前に声をかけてくれ」


「分かりました」


 俺は窓際の机を見た。天板には短い刃物で彫った文字があり、訓練生の悪戯書きらしい。美波は奥の棚へ向かった。扉のない棚には木箱が三つ並び、その一つに薄く『三班』と書かれている。


「残っているとは思わなかった」


 美波が箱を開けると、埃をかぶった測量紐と、折れた鉛筆が入っていた。箱の底には薄い布袋がある。美波は袋を持ち上げ、縫い目の色を見て息を呑んだ。


「梢のものだ。私たちが地図を入れていた」


 布袋の中は空だった。ただ、裏地に小さな紙が縫い込まれている。美波が取り出そうとしたので、俺は声をかけた。


「それ、持ち主に返したいんだろう。ここで破らない方がいいんじゃないか」


 美波は手を止めた。昔の彼女なら力任せに縫い目を切っていたかもしれないが、今日は袋を丁寧に机へ置いた。


「そうだな。本人が開けるべきものかもしれない」


 フェナは袋の端に付いた小さな青い糸を見つめていた。自分の手帳を開くか迷っているようだったが、結局、鞄から出さなかった。


「何が入っているか知りたいです。でも、知りたいから開けるのは違う気がします」


「俺もそう思う」


 美波は袋を持ち帰っていいか、小暮さんに尋ねることにした。ここに残されていた物は、今では管理者が預かる品でもある。そう決めて箱を戻したとき、外から木を叩くような音がした。


 最初は風だと思った。だが音は二度、三度と続き、一定の間隔で鳴る。美波はすぐに窓へ向かった。


「鐘楼の方だ。あそこに誰かいる」


 窓の外には、斜面を登る細い道が見えた。古い鐘楼の下で、灰色の上着を着た人影が動いている。顔までは分からないが、肩に長い道具を担いでいた。


「管理人さんの作業かもしれない」と俺は言った。


「それならいい。だが、あの場所は立ち入り禁止だ。見てくる」


「右手は使わないでくださいね」


 フェナが念を押すと、美波は頷いた。俺たちは広場へ戻り、立入禁止の縄の手前で足を止めた。斜面は雨で削られ、途中の石段が何枚か浮いている。美波は声を張った。


「そこの方! ここから先は危険です。管理人の許可はありますか」


 人影が振り向いた。年の頃は三十代半ばだろうか。髪を布でまとめ、長い測量棒を肩から下ろしている。こちらの顔を見るなり、彼女は足を止めた。


「……美波?」


 美波の息が詰まるのが、隣にいて分かった。


「梢、なのか」


 女性は測量棒を地面に立て、こちらを見下ろした。彼女の左頬には細い傷があり、腰には巻き取った地図筒が下がっている。


「誰かと思えば、昔の隊長様じゃない。こんな場所に、何をしに来たの」


 声音は静かだったが、懐かしさだけではないものが混じっていた。美波は一歩前へ出かけ、足元の縄を見て踏みとどまった。


「渡したいものがある。昔の訓練記録だ」


「私の記録を、あなたが?」


 梢は短く笑った。俺は美波の右手が固定具の上で固く握られるのを見た。


「その紙なら、持っているのは知っている。でも、返す相手を間違えているよ」


 梢は鐘楼の向こうへ目を向けた。斜面の上に風が渡り、もう鳴らないはずの鐘の台がかすかに軋んだ。


「冬真が、まだここに来ている。あの人に返すつもりなら、今日は遅かったね」


 美波は言葉を失った。俺は縄のこちら側から、鐘楼と梢を交互に見た。俺の《帰り道》は、ここから街へ戻る方角を教えてくれる。だが、今目の前にいる人たちの間で何が起きたのか、その答えはどこにも浮かばなかった。

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