第196話 帰れると書いた紙
南部採掘組合の事務所は、街の南門から馬車で二時間ほどの場所にあった。周囲には鉱石を積んだ荷車が行き交い、作業服の人たちが交代で食堂へ入っていく。門の横には大きな掲示板があり、今日の坑道ごとの作業人数と帰着予定時刻が書かれていた。
俺が最初に目を留めたのは、その掲示板ではなく、入口に積まれた青い木箱だった。灰鳥商会の印が押され、蓋の隙間から真鍮の札が覗いている。劇場で見た二百枚の箱が、もう届いていたのだ。
「出荷を止めると連絡したはずですが」と相馬さんが言った。
同行した柳瀬は青い上着ではなく、地味な灰色の外套を着ていた。昨日の騒ぎで疲れているのか、目の下に薄い影がある。
「倉庫からの発送指示を取り消すのが間に合いませんでした。納品を完了させるつもりはありません。今日は回収と説明のために来ました」
相馬さんは頷いたが、安堵はしなかった。出荷した荷物が戻るまでは、誰かが札を使う可能性が残る。彼は組合の事務所へ向かい、先に責任者と話をつけることにした。
俺とフェナは門の外で待つつもりだったが、受付の女性が俺たちを見て、会議室へ通してくれた。ここでは、商品を買ったのは組合の幹部だけではないらしい。現場で使う道具の購入には、作業員代表も意見を出すことになっていた。
会議室の長机には、組合長、現場監督、作業員代表の三人が座っていた。組合長は六十代ほどの男性で、机の上に真鍮の札を一枚置いている。現場監督は腕を組み、作業員代表は厚い手袋を膝に載せていた。
「まず、納品の話をさせてください」と柳瀬が切り出した。「この札は、遭難した際に帰路を保証する道具ではありません。昨日の実演で、説明と実際の仕組みが異なることが明らかになりました。販売を停止し、代金を返金します」
組合長は札を指先で回した。
「つまり、役に立たないものを売ったということか」
「訓練用具としては使えます。ただし、単体で帰還を助ける効果はありません」
「訓練用具なら、そう書けばいいだろう。こちらは安全装備の予算で買ったんだぞ」
柳瀬は頭を下げた。相馬さんは謝罪を遮らず、商品が使われる予定だった場所と運用方法を尋ねた。
「来月から夜間作業を増やす予定です」と現場監督が答えた。「新人には帰還保証札を持たせ、坑道内の分岐で迷わないようにするつもりでした。説明会で、札の向きに従えば出口へ戻れると聞きましたから」
俺は思わず顔を上げた。
「札に方角を示す仕組みはありません。分岐で迷った時に、それを頼りに進んだら危険です」
「では、どうすればいい。人を増やせと言うのか」
監督の声には苛立ちが混じっていた。彼の机には作業計画が積まれ、鉱石の出荷期限を示す赤い印がいくつも付いている。俺はその事情を知らないまま、簡単に人を増やせとは言えなかった。
「俺に答えられるのは、あの札では帰れないということだけです。実際の坑道の安全については、ここで働いている人の方が詳しいはずです」
作業員代表が初めて口を開いた。
「詳しいからこそ、言いたいことがある。夜勤を増やすなら、交代のたびに通路の状態を確認する人間が必要だ。札を渡して終わりにされたら困る」
監督は彼を見たが、すぐには反論しなかった。組合長が二人の間に手を置く。
「今日は商品を返品するための会議だ。勤務の話は別に……」
「別じゃありません」と作業員代表が言った。「その札を買った理由が、勤務の話だからです」
会議室の空気が変わった。相馬さんは口を挟まず、机の端へ議事用の紙を寄せた。柳瀬は背筋を伸ばし、話の続きを待っている。
「夜間作業は、明るい時間と違って目印が見えにくい。水が染み出して通路が滑る日もある。俺たちは前から、交代前の点検を増やしてほしいと言っていた。そこへ『札があれば帰れる』という話が来た。これで点検を減らせると思われたら、たまらない」
俺は組合長を見た。彼は反論しかけ、口を閉じた。どうやら現場の話は初めて聞くことではないらしい。
「点検を減らすと決めたわけじゃない」と監督が言った。
「決めていないなら、紙に書いてください。口で『大丈夫』と言われても、夜の坑道じゃ聞こえないことがある」
その言葉に、俺は市場で会った男性の弟を思い出した。あの人も、同じように「大丈夫」と言われ続けるのが嫌だったと話していた。違う場所の違う人が、同じ言葉に引っかかっている。
フェナは会議室の隅で静かに聞いていた。彼女の手帳は膝の上にあるが、今日はまだ開いていない。俺が目を向けると、彼女は少しだけ首を振った。今は書くより、聞いていたいのだろう。
組合長は長い沈黙のあと、札を机の中央へ押し出した。
「分かった。返品は受ける。ただし、夜間作業をどうするかは、現場と改めて話す。札を買ったことをなかったことにはできんからな」
「その点は、商会としても責任があります」と柳瀬が言った。「必要であれば、最初の講習用の手順書を無償で提供します。効果を誇張したものではなく、迷った時に立ち止まる練習をするための内容です」
作業員代表は首を傾げた。
「講習をするなら、ここで働く人間が内容を見て決める。外の商会が勝手に『安全になった』と判を押すのは、もう御免だ」
「その通りです」
柳瀬は、今度は言い訳をしなかった。
会議が終わるころ、門の外が騒がしくなった。交代時間を迎えた作業員たちが戻り、青い箱の前で足を止めている。すでに噂が広まったらしく、誰かが「札は全部偽物だ」と叫んだ。別の人が「俺たちを試しに使うつもりだったのか」と続ける。
相馬さんは組合長に、現場へ直接説明することを提案した。組合長は渋い顔をしたが、結局、掲示板の前に人を集めるよう指示した。
俺は人前で話すのが得意ではない。まして、今日の主役は俺ではなく、札を買うと決めた人と、それを使わされるはずだった人たちだ。だから、最初に話したのは柳瀬だった。
「皆さまにお詫びします。私たちは、訓練用具を帰還保証札として販売しました。これだけを持って坑道へ入っても、出口は分かりません。今日届いた商品は回収し、代金は全額返します」
人だかりの中から罵声が飛んだ。柳瀬は逃げずに立っていたが、顔色は悪かった。組合長が事情を説明し、作業員代表が夜勤の点検について話すと、ようやく声が少し落ち着いた。
「久世さんは、どう思うんだ!」
誰かが俺を指した。名乗っていないのに知られていることに戸惑ったが、ここで黙れば、また誰かが俺の名前を都合よく使うかもしれない。
「俺の《帰り道》は、俺自身が帰る方向と道筋を知る能力です。札にその力はありません。俺がここへ来たのは、皆さんの帰りを保証するためじゃなくて、俺の名前が使われた商品について、事実を伝えるためです」
「じゃあ、あんたなら夜の坑道でも迷わないのか」
「帰る方向は分かります。でも、通路が崩れていたら通れません。魔物がいたら倒せるわけでもない。道が分かることと、無事に帰れることは同じじゃないんです」
質問した男は腕を組み直し、何も言わなかった。俺の答えは頼りなく聞こえただろう。だが、できないことを隠して安心を売るよりはましだ。
人だかりが散り始めたころ、若い作業員がフェナに声をかけた。彼は手の中の札を差し出し、何かを確かめるように尋ねる。
「これ、全部捨てるんですか。俺、暗いところで方向が分からなくなることがあるんです。練習に使えるなら、残してもいいと思うんですけど」
フェナは札を受け取らず、彼の手の中を見た。
「私には決められません。でも、あの劇場で見たのは、札を持っている人に係の人が音で合図する練習でした。札だけでは、音は鳴りません」
「それでも、練習できるなら……」
「できるかもしれません。でも、何を練習するかを決めるのは、あなたたちです。私は、怖い時に『怖い』と言える練習も大事だと思います」
青年は意外そうに笑った。
「それ、坑道じゃ言いにくいんですよ。怖がりだと思われるから」
「私も、最初は言いにくかったです。泳げないって言うのも、迷惑をかける気がして。でも、言わないと、ほかの人は知らないままなんですよね」
青年は札を上着のポケットへ入れ、仲間の方へ戻っていった。彼がどんな判断をするかは分からない。フェナも追いかけなかった。自分の話を聞いてほしいと思うことと、相手の答えを決めてしまうことは違うのだろう。
午後、組合長の提案で、夜間作業の予定がある班を対象に短い意見交換が開かれた。俺たちは帰ってもよかったが、相馬さんに頼まれて見学することにした。柳瀬も席に残り、講習用の手順書を机へ置いた。
手順書には、目印の見つけ方、立ち止まった時の連絡方法、同行者と位置を確かめる練習などが載っていた。劇場の実演では省かれていた項目ばかりだ。作業員たちは自分たちの坑道に合う部分と合わない部分を挙げ、机の上の地図に印をつけていった。
「この分岐は、雨のあとに水が溜まる。音が響くから、鐘を鳴らしてもどこから聞こえるか分からない」
「こっちは鉄の支柱が多い。方位磁針もずれる」
「新しい人は番号札を見落とす。文字だけじゃなく、触って分かる目印があるといい」
意見は次々に出た。俺はその一つ一つに驚いた。劇場の迷路は、きれいに作られた壁と平らな床しかなかった。実際の坑道には、水や鉄や騒音があり、人によって見えるものも聞こえるものも違う。
フェナは机の端で、札の切れ込みを指でなぞっていた。青年から借りたものではなく、回収前の見本を柳瀬が置いたのだ。彼女は何度か触ったあと、作業員代表に尋ねた。
「目印を触って確かめるなら、手袋をしていても分かる形の方がいいですか」
「そうだな。今の切れ込みは小さすぎる。厚い手袋じゃ分からん」
「じゃあ、これは練習の道具としても、そのままじゃ使いにくいんですね」
柳瀬は手元の札を見つめ、ゆっくり頷いた。
「実演で目立つことばかり考えて、使う場所を見ていませんでした」
彼の声は小さかったが、会議室には届いた。作業員代表はすぐに許したわけではない。ただ、手順書の余白へ新しい案を書き足し、柳瀬にも見える位置へ紙を置いた。
話し合いの途中、作業員代表が俺たちを坑道の入口まで案内してくれた。実際に地下へ入るわけではない。門から見える範囲に、使われなくなった支柱や道具を並べた練習場があるという。現場監督も同行し、柳瀬は手順書を抱えて後ろを歩いた。
練習場には、坑道で使う標識の見本が三種類立てられていた。白い数字を塗った木札、赤い矢印を描いた金属板、太い縄を巻いた柱。どれも地上では簡単に見分けられる。だが、作業員代表が厚い布を標識の上へかけると、形だけではほとんど区別できなくなった。
「煙や粉塵で視界が悪くなると、こうなる。目印が見えなければ、近づいて触ることになる。だが、足元に水がある時は、近づくこと自体が危ない場合もある」
彼は木札を一つ外し、俺の手へ渡した。表面は湿気で膨らみ、数字の塗料が半分剥がれている。俺は指先で凹凸を確かめたが、何番の札か分からなかった。
「これが現場の道具ですか」
「予備の古いものだ。今使っているのはもっとましだが、長く使えばこうなる。点検する人がいなければ、いつか見分けられなくなる」
フェナは縄を巻いた柱へ近づき、手袋を借りて触った。細い縄の結び目は、布越しでは分かりにくい。彼女は一度手を離し、別の位置から触り直した。
「私、目で見たら簡単だと思いました。でも、手袋をすると、同じものに感じます」
「だから、見えない時に何を頼るかを決めておく必要がある」と作業員代表が答えた。「この練習場も、以前はよく使っていたんだが、最近は新人をすぐ現場へ入れるようになってね」
監督が咳払いをした。彼は何か言い返しかけたが、地面に置かれた古い木札を見て、黙って拾い上げた。
「この標識、いつからここにある?」
「少なくとも去年からです」
「交換の申請は?」
「二度出しました。資材が足りないと返されました」
監督は木札を裏返した。裏には修理を依頼した日付が鉛筆で書かれている。彼はその日付を読み、ゆっくり息を吐いた。
「俺のところで止まっていたのかもしれない。戻ったら確認する」
作業員代表は何も言わなかった。許したわけでも、責めるのをやめたわけでもない。ただ、二人が同じ木札を見ていることに意味があるように思えた。
柳瀬は真鍮の札を一枚取り出し、手袋の上から触ってみた。切れ込みはほとんど感じられない。彼は手順書に目を落とし、ページをめくった。
「これを作った時、私たちは劇場の明るい作業台でしか試していませんでした。暗闇を想定したつもりで、実際には暗い場所を知りませんでした」
「知っていないなら、知っている人に聞けばよかったんです」とフェナが言った。
柳瀬は彼女を見た。フェナは責める口調ではなく、疑問に思ったことをそのまま話していた。
「私は泳げないので、湖へ行く前に船頭さんに聞きました。聞かずに『泳げます』って言っていたら、困ったのは私だけじゃなかったと思います」
「そうですね。私たちは、聞く相手を間違えました」
柳瀬は札をしまい、練習場の標識を一つずつ見て回った。彼が何かを学んだとしても、それで過去の宣伝が許されるわけではない。だが、使う人の話を聞かずに作った道具が、使う人の手へ届く前に止まったことだけは確かだった。
事務所へ戻る道で、俺は《帰り道》を意識してみた。街の自分の部屋へ戻る道筋が、遠い方角にあると分かる。けれど、今歩いている練習場の標識が正しいかどうか、明日の坑道で何が起きるかは何も教えてくれない。そんな当たり前の限界を、俺は久しぶりに落ち着いた気持ちで受け止めていた。
夕方、組合は夜間作業の拡大をいったん延期すると決めた。延期は一日で済むかもしれないし、もっと長くなるかもしれない。採掘量の予定は変わり、現場の人たちにも影響が出る。それでも、何が必要か分からないまま札を配るより、納得できる判断だった。
青い木箱が馬車へ積み戻されるころ、柳瀬が俺たちのところへ来た。
「久世さん、フェナさん。お二人にお願いがあります」
「監修なら引き受けませんよ」と俺は先に言った。
「分かっています。もう、そういう頼み方はしません。代わりに、今日のことを商会の中で説明する時、私が何を間違えたか、確認していただけないでしょうか」
「あなた自身の言葉で説明してください。俺たちは、その場にいなかった人のために事実を伝えることならできます」
柳瀬は深く頭を下げた。彼の仕事がこれからどうなるのか、俺には分からない。商会が販売方法を変えるのか、別の商品を売り始めるのかも分からない。ただ、誰かの不安を利用する仕事を続けるなら、また同じ問題が起きるだろう。
帰りの馬車では、フェナが窓の外を眺めていた。畑の向こうに低い山が続き、夕日が稜線を赤く染めている。俺は彼女の手帳が閉じられたままなのに気づいた。
「今日は書かないのか」
「あとで書きます。でも、全部は書かないと思います」
「どうして?」
「劇場の人も、採掘場の人も、私が勝手に決めていい話じゃないからです。私が見たことは書けるけど、その人たちが何を考えていたかは、私には分かりません」
俺は頷いた。彼女が自分の手帳を持つようになってから、俺たちの会話には少しずつ空白ができた。知らないことを無理に埋めなくても、同じ馬車に乗って帰れる。そのことが、以前より自然に思える。
「ナオトさんは、今日のことをどう書きますか」
「俺なら……『帰れると書いた紙は、帰る道にならなかった』かな」
「ちょっと難しいです」
「自分でもそう思う」
フェナは笑い、窓の外へ目を戻した。俺もつられて笑った。あの札を買った人たちの不安が、今日だけで消えるわけではない。それでも、何を頼りにしていいのかを考える時間は戻ってきた。少なくとも、誰かが作った「必ず」という言葉だけで、次の一歩を決めなくて済む。
街へ戻ると、ギルドの前で美波が待っていた。右手首にはまだ固定具があるが、今日は左手に小さな包みを持っている。俺たちの顔を見ると、安心したように息をついた。
「採掘場の件、相馬から聞いた。お疲れ」
「美波こそ、休んでいたんじゃないのか」
「休んでいたさ。これは訓練場の若い連中がくれた菓子だ。教え方が分かりやすかったらしい」
彼女は包みを開き、焼き菓子を三つに分けた。フェナが一つ受け取ると、美波は少し真面目な顔になる。
「久世、今度の休みに、私の昔の訓練場へ一緒に来ないか」
「訓練場?」
「今は使われていない。山の麓にある、小さな場所だ。右手が治る前に、一度見ておきたいものがある」
「仕事の依頼か」
「違う。私個人の用事だ。だから、断っても構わない」
美波はそう言って、包みの底から古い紙片を取り出した。折り目が何度も重なり、端が擦り切れている。そこには、若い頃の彼女と、見知らぬ二人の名前が並んでいた。三人で書いた訓練記録のようだが、最後の行だけが破れている。
「この紙を、ちゃんと返したい相手がいる」
美波は紙片をしまい、俺の返事を急かさなかった。フェナは菓子を食べ終え、二人の顔を見比べている。今日までの仕事とは違う、誰かの個人的な時間がそこにあった。
俺の《帰り道》は、自分が戻る方向を知るだけの能力だ。美波がどこへ行きたいのか、そこで誰に会うつもりなのかは分からない。だからこそ、まず本人の話を聞く必要がある。
「行くよ。ただし、何をするかは出発前に教えてくれ。フェナも、自分で決めるから」
「もちろんだ」と美波が言った。「今回は、私が案内する」
その言葉に、俺は少しだけ意外な気持ちになった。帰る道を尋ねられることには慣れている。けれど、誰かが自分の過去へ向かう道を案内してくれると言うのは、初めてかもしれない。街灯の下で美波は紙片を胸ポケットへ戻し、俺たちは三人で夕暮れの通りを歩きだした。




