第195話 幕の裏の足音
旧劇場の正面には、朝から長い列ができていた。灰鳥商会の旗が二階の窓から下がり、かつて芝居の演目を掲げていた看板には「迷いを終わらせる一日」と大きく書かれている。俺はその言葉を見上げ、劇場へ来た目的をもう一度考えた。
商品を買うためではない。まして、柳瀬という男を言い負かすためでもない。札を持った人が何を信じるようになるのか、それを実際に見なければならなかった。
「相馬さんから、先に連絡が来ています」
フェナが端末を見せた。劇場の使用許可は一階の客席と舞台前の通路に限られ、地下設備への立ち入りは禁止。ギルドの安全担当が入口に待機し、違反があれば催しを中断させる。俺たちも招待客として入場できるが、無断で立入禁止区域へ入らないこと。
「美波さんは?」
「午後から来るそうです。見張りじゃなくて、買い物に来た人の話を聞くためだって」
美波らしい言い方だった。右手首が治りきらないうちは戦闘に加わらない。それでも、自分にできる仕事を見つけてしまう人だ。
入口の係員は、俺の名前を見て一瞬固まった。柳瀬から話を聞いているのだろう。けれど、相馬さんが手配した入場証を確かめると、丁寧に頭を下げて通してくれた。
劇場の内部は、外から見た印象よりずっと広かった。赤い布張りの客席はところどころ破れ、天井の絵も色褪せている。舞台には新しい木製の壁が立てられ、通路を折り曲げるように配置されていた。正面から見れば迷路だが、壁の上には天井との隙間がある。係員なら、客がどこを歩いているかを上から見られる造りだ。
「地下じゃないですね」とフェナが言った。
「点検で止められたから、変えたのかもしれない」
舞台の横では、細い縄を引いて壁の位置を調整している若い作業員がいた。彼の腰には、真鍮の札が三枚ぶら下がっている。どれも同じ家の刻印だが、縁の切れ込みが違った。
フェナは俺の袖を引き、目だけで作業員を示した。俺が頷くと、彼女は手帳に短く書き込んだ。無理に近づくことはしない。まずは客として、説明を聞く。
開演前の客席には、さまざまな人が座っていた。探索者らしい装備の若者、家族連れ、採掘場の作業服を着た男たち。市場で話した男性も前方の席にいた。俺たちに気づくと、少し気まずそうに手を挙げる。
「弟も来たんですか」と俺が尋ねると、男性は首を振った。
「俺だけだ。本人は嫌がった。『また知らない人に大丈夫と言われるのはごめんだ』ってな」
「それなら、来なくてよかったのかもしれません」
「そうかもしれん。でも俺は、何を買おうとしていたのか確かめたい」
男性は膝の上に置いた招待券を握り直した。昨日より落ち着いて見えたが、どこかで期待を捨てきれない顔をしている。俺は隣に座り、開演を待つことにした。
照明が落ち、舞台の幕がゆっくり上がった。柳瀬が青い上着のまま中央へ出てくる。彼は最初に、商品が魔導具ではないことを説明した。ここまでは露店と同じだった。
「皆さまが道に迷う理由は、能力が足りないからではありません。目印を見失い、判断を誤るからです。この札は、正しい出口を見つける習慣を体に覚えさせるためのものです」
俺は少し驚いた。初めからそう説明していれば、少なくとも俺の能力と混同する必要はなかったはずだ。柳瀬は続けて、札の角の切れ込みを指した。
「触れるだけで向きが分かる。暗闇でも、自分の進むべき方向を思い出せます」
客席から拍手が起きた。柳瀬は舞台に三人の希望者を呼び、札を一枚ずつ渡した。最初の二人には縁に点が二つ、三人目には点が三つ。フェナが描いたものと同じだ。
「ナオトさん、違う札を渡しました」
「見えた。あの点は何を表しているんだろう」
実演が始まると、参加者は一人ずつ目隠しをして迷路へ入った。客席からは壁の向こうが見えない。代わりに舞台上の大きな鏡へ、迷路の上から撮った映像が映された。魔導石を使った簡易投影らしく、壁の配置と人の動きが淡い光で浮かび上がる。
一人目の参加者は最初の角で迷った。だが、壁の向こうから小さな鈴が鳴ると、札を握り直して左へ曲がる。次の分岐でも同じ音がして、今度は右へ。数分後、彼は拍手の中を出口から戻ってきた。
「ほら、札があれば大丈夫なんだ」
前の席の誰かがつぶやいた。俺には、札が何をしたのか分からなかった。参加者は音を聞いて進んでいる。札の中に音を鳴らす仕掛けがあるなら別だが、手の中の真鍮は光っても動いてもいない。
二人目も同じように出口へ戻った。ただし、最初の人とは違う角を通っている。三人目はさらに別の経路を進み、途中で一度立ち止まった。鈴が鳴らない間、彼はどちらへ行けばいいか分からない様子だった。
その時、フェナが俺の耳元でささやいた。
「点が二つの人は、低い音の鈴が鳴った時に曲がりました。点が三つの人は、高い音の時です。壁の向こうで、誰かが人を見ているんじゃないでしょうか」
俺は舞台の上を見た。壁の隙間を通して、作業員の影が動いている。天井近くには細い紐が張られ、その先に小さな鐘が吊るされていた。札に帰路を示す力があるのではなく、係員が参加者ごとに違う音を鳴らして誘導しているのかもしれない。
「でも、これだけじゃ断定できない」と俺は言った。
「はい。だから、もう少し見ます」
柳瀬は実演の成功を受け、客席へ向かって両手を広げた。
「皆さまもお試しください。今日に限り、札を購入した方には体験料をいただきません」
係員が客席の間を回り、購入申込書を配り始めた。俺の前にも紙が差し出されたが、受け取らずにいると、係員はすぐ隣へ移った。男性は迷った末に一枚受け取り、膝の上で折り目を伸ばした。
「買うんですか」と聞くと、彼は首を横に振った。
「まだ決めない。だけど、弟があの中を歩けるようになるならと思ってしまう」
「音で案内されている可能性があります。札だけで出口へ行けたわけではないかもしれません」
「音?」
男性は舞台を見上げた。ちょうど係員が、鐘を吊った紐の位置を直している。彼は申込書を畳み、上着のポケットへ入れた。
「なら、家に帰って弟に話してみる。俺が決めて買うより、その方がいいな」
休憩に入ると、フェナは客席の端から舞台の壁を眺めていた。俺は飲み物を買いに行き、戻ってくると彼女のそばに美波が立っていた。右手首の固定具は外していないが、今日は動きやすい上着を着ている。
「久世、見たか。舞台の奥にいる作業員の動き」
「音を鳴らしているのか?」
「それもある。だが、壁を少しずつ動かしている。参加者が迷って立ち止まると、背後の通路を閉じて前だけを開ける。どの道を選んでも、最後には同じ出口へ着く仕組みだ」
「迷路そのものが変わるのか」
「昔の興行では、客を驚かせるために使っていた。今は札の効果に見せているんだろう」
美波は舞台の側面へ目を向けた。そこには緑色の布で覆われた扉があり、上部に古い非常灯が残っている。
「ただし、あの扉の先は地下機構へ続く通路だ。使っていないはずの扉に、新しい擦り傷がある」
俺は係員へ尋ねようとしたが、美波に止められた。
「先に安全担当へ知らせろ。私たちが勝手に確かめれば、あちらに責任を押しつけられる。証拠があるなら、止める権限のある人に見せるんだ」
美波が「俺たち」と言ったのに気づき、フェナが笑った。
「美波さん、今日は戦わないんですよね」
「当然だ。今日は目と耳だけで仕事をする」
安全担当は劇場の入口にいた。俺たちの話を聞くと、許可された範囲と舞台の図面を見比べ、すぐに責任者を呼びに行った。柳瀬は休憩時間の終わりに現れ、地下扉は資材の搬入口として一時的に開けただけだと説明した。
「お客様が通ることはありません。ご安心ください」
「安心できるかどうかを決めるために、扉の先を確認させてください」と安全担当が言った。
柳瀬はしばらく黙った。やがて、腰に下げた鍵束を取り出したが、緑の扉に合う鍵が見つからない。近くの作業員が顔を青くし、袖口を握りしめた。
「鍵は、舞台監督が持っています」
作業員の声は小さかった。柳瀬は彼を振り返り、何か言いかけたが、安全担当が先に口を開く。
「監督を呼んでください。点検が済むまで、体験は再開できません」
客席に待機の案内が流れた。買い物に来た人たちは不満そうだったが、帰る人は少ない。何が起きているのか分からないまま、席を立つのをためらっているようだった。
フェナは先ほどの作業員を見つめていた。彼は舞台袖で壁の紐をほどきながら、何度も地下扉の方へ目をやる。
「ナオトさん、あの人に聞いてもいいですか」
「無理に話させないなら」
「はい。私が聞きたいことだけ、聞きます」
フェナは舞台袖へ近づき、係員の目が届く位置で立ち止まった。作業員は彼女を見ると、慌てて腰の札を隠した。
「その札、点の数が違いますよね」とフェナが言った。「音を聞き分けるためですか」
作業員は答えなかった。フェナは急かさず、手帳の頁を開いて見せた。そこには露店で見た札の形と、今日の三人が歩いた順路が描かれている。
「私、音が鳴った場所も書きました。あなたが教えてくれなくても、たぶん仕組みは分かります。でも、もし間違っていたら、直してほしいんです」
作業員は頁を見て、ゆっくり頷いた。
「……点が二つなら低い鐘、三つなら高い鐘です。人によって通る道を変えて、札の違いを試しているんです」
「札が道を教えているわけじゃないんですね」
「練習用なんです。本当は。迷った時に、音を聞いて落ち着くための……。最初はそう説明していました」
作業員はそこまで言うと、口を閉ざした。自分がどこまで話していいのか迷っているのだろう。フェナは彼の顔を見て、次の質問を変えた。
「地下の扉は、誰かが使っているんですか」
「舞台の壁を動かすとき、紐が引っかかるので、監督が下から調整していました。でも今日は、地下へ降りないよう言われていました。鍵も返したはずなのに……」
言い終わる前に、舞台の奥から金属が擦れる音がした。客席の照明が一瞬だけ暗くなり、迷路の壁がゆっくり動き始める。誰も体験していないのに、床下の機構が動いていた。
「全員、舞台から離れてください!」
安全担当が声を張った。柳瀬が操作盤へ駆け寄り、赤い停止レバーを下ろす。しかし壁の一枚は止まらず、緑の扉へ向かって滑り続けた。扉の前に積まれていた木箱が押され、客席側へ倒れかかる。
鹿島さんがいれば受け止められたかもしれない。だが今日は来ていない。美波も右手を使えない。俺はとっさに近くの客を通路の外へ誘導し、フェナは座席の端にいた子どもを母親の方へ引き寄せた。
木箱が床へ落ち、乾いた音を立てて割れた。中から真鍮の札が散らばる。幸い、誰にも当たらなかったが、客席にいた人たちが一斉に立ち上がり、出口へ向かい始めた。
「押さないで! 通路は二つあります!」
美波の声が響いた。彼女は固定した右手を胸に寄せたまま、左手で左右の扉を示す。係員もようやく動き、通路ごとに人を分け始めた。俺の《帰り道》は、自分が建物の外へ戻る方向を感じ取っている。けれど、目の前の群衆がどの扉を安全に通れるかは分からない。だから俺は、劇場の避難表示と係員の指示に従った。
人の流れが落ち着いたころ、舞台の奥で別の音がした。緑の扉が内側から叩かれている。作業員が青ざめて叫んだ。
「監督が下にいる! さっき鍵を持って降りたんです!」
安全担当は即座に劇場の管理者へ連絡し、地下機構の停止確認を求めた。扉を無理に開ければ、まだ動いている壁の部品が落ちる恐れがある。俺は扉の前へ進みかけたが、美波に肩をつかまれた。
「久世、そこはお前の出番じゃない。まず、向こうの人と話せるか確かめろ」
俺は扉から少し離れて声をかけた。向こうから返事があり、監督は怪我をしていないが、手元の操作盤が動かず、階段を上がれないと答えた。地下の機械を知る管理者が来るまで待てるという。
「ここで待っていてください。無理に動かないで」
俺が言うと、扉の向こうで短く返事があった。これなら救難班を呼ぶ必要があるかどうか、管理者が判断できる。俺が勝手に扉を開けて、状況を悪くする理由はない。
やがて劇場の管理者が到着し、外側の補助停止装置を作動させた。機構の動力が切れたことを確かめてから、別の保守用通路を開ける。監督は埃まみれになって戻ってきたが、自分の足で歩けた。客席から拍手が起きかけ、誰かが手を止めた。今は喜ぶより先に、なぜ停止しているはずの設備が動いたのかを確かめる必要がある。
柳瀬は散らばった札を拾い集めながら、何度も頭を下げた。安全担当は催しの中止を告げ、観客への説明を求める。柳瀬は一度だけ俺を見たが、言い訳を求める目ではなかった。
「この商品は、最初から帰還を保証するものではありませんでした」
彼は客席へ向かって言った。静かになった劇場に、声がよく通る。
「暗闇で方向を失う人が、合図を聞き分けて落ち着くための訓練用具でした。商会が販売を広げる際、実演の説明を変えました。私も、それを止めませんでした」
市場で話した男性が立ち上がった。
「それなら、俺の弟に売る必要はなかった。弟が怖いのは、合図がない場所で『大丈夫』と言われることなんだ」
柳瀬は反論しなかった。男性は申込書を取り出し、破らずに折り畳んだ。返金の手続きや責任の所在はこれから決まる。だが、今日この場で聞くべきことは、もう十分に聞いたのだろう。
係員が観客を外へ案内している間、フェナは舞台袖の若い作業員ともう一度話した。今度は俺もそばに立ったが、彼女の質問を代わりにするつもりはなかった。作業員は散らばった札を拾う手を止め、客席を見つめている。
「あなたは、最初から今日の説明を知っていたんですか」
フェナが尋ねると、彼は首を横に振った。
「最初は、迷路で練習する講習会だったんです。壁の向こうで鐘を鳴らす人がいて、迷った人が音を聞いて進む。慣れたら鐘を減らして、自分で目印を探す。最後は目隠しを外して、何を見落としたか話す。それだけの仕事だと思っていました」
「じゃあ、今日みたいに出口へ着いたら成功という決め方ではなかったんですね」
「はい。失敗してもいい練習でした。間違えた角で止まって、どうして迷ったかを話す時間が一番長かったんです」
彼は手元の札を一枚裏返した。金属の裏側には、小さく数字が刻まれている。音を聞き分ける訓練の難易度を示す番号だという。市場で見たものには、その説明がなかった。
「売り物にするって決まってから、監督が『失敗する場面を見せるな』と言われたんです。お客さんが迷ったら壁を動かして出口を近づける。鐘も何度でも鳴らす。そうすれば、みんな札のおかげだと思うって」
「あなたは嫌だと言えなかったんですか」と俺は聞いた。
作業員はうつむいた。「言いました。でも、次の仕事がなくなると言われて。家の事情もあるし、辞める勇気がありませんでした」
俺はすぐに励ます言葉を出せなかった。仕事を失う怖さを、俺は知らないわけではない。間違っていると思いながら働き続けたことを責めれば、この青年はもう誰にも話さなくなるかもしれない。
「今日、話してくれて助かりました」とフェナが言った。「でも、あなたが全部悪いことにされるのは違うと思います。説明を変えた人と、壁を動かした人が同じとは限りませんから」
作業員は驚いたように顔を上げた。彼女は続けた。
「私がさっき見たのは、あなたが鈴を鳴らしたことです。誰に言われたかは、あなたから聞かないと分かりません。だから、聞きました」
作業員は唇を噛み、しばらくしてから小さく礼を言った。安全担当が来ると、彼は自分から講習用の手順書を差し出した。最初の頁には「迷った経験を持ち帰る」と書かれている。誰かの言葉を借りて作った宣伝ではなく、訓練を考えた人が本来伝えたかったことなのだろう。
俺はその一文を読み、今日の観客の顔を思い出した。舞台から無事に出てきた人たちは、自分が何を頼りに歩いたのか知らないまま拍手を受けた。もし本当に暗い場所で迷えば、壁を動かしてくれる係員はいない。鐘も鳴らない。成功だけを見せる実演は、失敗した時の手立てを教えていなかった。
「久世、こっちへ来い」
美波に呼ばれて振り返ると、彼女は舞台の脇に立っていた。固定具の上から袖を整え、俺を見て少しだけ笑う。
「訓練場で若い連中に教えていると、同じことを思う。上手くできたところだけ褒めて終われば、本人は自分の癖に気づかない。転びそうになった時にどう戻るか、そこまで練習して初めて役に立つ」
「美波が教える側になるとは思わなかったな」
「私もだ。右手が使えないのは腹立たしいが、今は人の足元を見る時間がある。お前も、いつも自分が帰ることばかり考えているわけじゃないだろう」
俺は返事の代わりに、舞台に残された曲がりくねった通路を見た。今なら壁の上から出口まで見通せる。けれど、迷路の中を歩いた人には、見えないものが多かった。自分の視点だけで道を語る危うさを、今日ほどはっきり感じたことはなかった。
客が帰り始めたあと、舞台の裏から大きな木箱が運ばれてきた。箱の側面には、灰鳥商会の印と、納品先を示す札が貼られている。俺はそこに書かれた数字を見て、思わず足を止めた。
「二百枚?」
柳瀬は俺の視線を追い、口元を固くした。
「……明日、南部採掘組合へ納める予定の分です。安全装備として、すでに代金も受け取っています」
フェナが床に落ちた真鍮の札を一枚拾い、そっと箱の上へ置いた。
「その人たちは、今日の説明を聞いていませんよね」
柳瀬は答えられなかった。劇場の幕が半分だけ下り、客席の灯りが一つずつ消えていく。俺たちが見届けたのは、ひとつの実演が失敗した瞬間だった。けれど、劇場の外では、まだ何も知らない人たちがこの札を待っている。




