第194話 帰還保証の値札
鏡月湖から戻った翌々日、俺は自分の名前が書かれた木札を、市場の露店で見つけた。
串焼き屋と古道具屋の間に、見慣れない青い天幕が張られていた。天幕の前には人だかりができており、店員が首から下げる小さな真鍮の札を客に見せている。札の中央には、家の形をした刻印と、そこへ向かって折れ曲がる一本の線があった。
「こちらは帰還保証札です。遭難の際には、札の示す方向へ進むだけ。あの《帰り道》を持つ久世直人氏の実績を参考にした、画期的な安全用品ですよ」
足を止めた俺より早く、フェナが天幕の方へ歩きだした。昨日買ったばかりの小さな手帳を胸に抱え、店員が手にした札をまっすぐ見ている。
「ナオトさんの名前を使っているんですか」
「有名な探索者さんですからね。お嬢さんもご存じで?」
「知っています。だから、聞きたいんです。その札は、本当に帰る道が分かるんですか」
店員は客に向けていた笑顔を少し固くした。彼女の背後にいた男が、俺とフェナを交互に見て、急に視線を逸らす。男は手の中の硬貨を数え直し、買い物の列から抜けた。
「魔導具ではありませんが、古くから使われる道標の仕組みを取り入れています。詳しいことは奥の説明会で」
「じゃあ、『遭難したら札の示す方向へ』というのは、どういう意味ですか」
フェナは問いを重ねたが、声を荒らげなかった。店員が答えに困っているのを見て、俺はようやく名乗った。
「その久世直人です。俺はこの札を作っていませんし、仕組みの監修もしていません」
天幕の中が静かになった。客の一人が、買ったばかりらしい札を胸元から外す。店員は俺の顔を見つめ、ついで名札を確かめるように視線を落とした。
「少々お待ちください。責任者を呼びます」
奥へ消えた店員の代わりに、白髪交じりの男性が現れた。小柄だが姿勢がよく、青い上着の襟に銀の鳥を模した留め具をつけている。
「灰鳥商会の営業責任者、柳瀬と申します。ご本人とは知らず、失礼しました」
「知らないことは構いません。俺の名前を出して売っているのは、誰が許可したんですか」
「正式な監修と書いた覚えはありません。『実績を参考にした』という表現です。現に、久世さんの救難活動は帰路を確かめる重要性を世間に知らしめました」
柳瀬はすらすらと答えた。よく練習した説明なのだろう。俺は札の裏を見せてもらった。細かい文字で「使用者の判断による事故について当商会は責任を負いません」と刻まれている。だが、表の値札には赤い字で「迷った時こそ必ず帰れる」と書かれていた。
「裏には責任を負わないと書いて、表には必ず帰れると書くんですね」
「安心を伝えるための宣伝文句です。危険な場所へ入ることを勧めているわけではありません」
「その説明を聞く前に買って帰る人もいます」
フェナが言うと、柳瀬は初めて彼女の顔をじっと見た。俺の同行者だと気づいたのか、言葉を選ぶ間ができる。
「もちろん、説明を聞いていただくのが一番です。お二人にも実演をご覧いただければ、誤解が解けるかと」
実演は明後日、旧劇場の地下で行われるという。柳瀬は招待券を二枚差し出したが、俺は受け取らなかった。今日ここで訂正できることを、三日後まで待つ理由はない。
「今すぐ俺の名前を外してください。それから、『必ず帰れる』という表示も」
「名称の使用については本部へ確認します。ただ、宣伝内容は私の一存では変更できません」
「なら、変更できる人を呼んでください」
柳瀬の後ろで店員が息を呑んだ。俺自身、こんな言い方をするのは得意ではない。それでも、帰り道が分かるという言葉が、誰かを危険な場所へ押し出すために使われるのは見過ごせなかった。
周囲の客が聞き耳を立て始めたので、柳瀬は声を落とした。
「お話は商会の事務所で承ります。ここでは営業に支障が出ます」
「営業に支障が出るのは、説明が違うからじゃないですか」
言い終えてから、俺は少し後悔した。周りの人に聞かせたいわけではないし、店員を責めたいわけでもない。だが柳瀬は笑顔を崩さず、手元の招待券を一枚だけ天幕の柱に挟んだ。
「どうぞ、ご自身の目でお確かめください。私どもは逃げも隠れもしません」
露店を離れると、フェナが俺の歩幅に合わせてついてきた。普段なら市場の果物や菓子を見て立ち止まるのに、今日は何も言わない。橋の手前まで来てから、ようやく手帳を開いた。
「ナオトさん、あの人は『魔導具じゃない』と言いました。なのに、どうして札が道を示すんでしょう」
「俺にも分からない。針が入っているなら方角は示せるけど、それは家の場所じゃないからな」
「私、売っていた人の顔を覚えています。あの人、嘘をつくのが上手そうには見えませんでした」
「そうだな。言わされているのかもしれない」
フェナは頷いたあと、手帳に何かを書き込んだ。覗かないでいると、彼女は頁を閉じ、少し考えてから俺を見上げた。
「今日のこと、美波さんにも話したいです。私、あの札がどういうものか、自分で知りたいので」
美波は訓練場の木陰にいた。右手首にはまだ固定具が巻かれている。若手探索者たちに足運びを教え終えたところらしく、地面には縄で作った四角い区画が残っていた。
「帰還保証札?」
俺の話を聞いた美波は、眉間に皺を寄せた。
「そんなものがあれば、救難班より先にうちの隊が買っている。少なくとも、帰れる保証を物に付けるなんて言い方は信用できないな」
「名前を使われたことより、買った人が本気で頼るのが怖い」と俺は言った。「俺の能力だって、危ない道を安全に変えるわけじゃない」
「だからこそ厄介なんだろう。『帰れる』と信じて進んだ人間は、戻る判断を遅らせる。しかも、札を売った側は裏面の注意書きで逃げられると思っている」
美波は足元の縄を巻き取りながら、ふと顔を上げた。
「実演の場所は旧劇場だと言ったな。あそこは改装前、地下の舞台機構を使った迷路興行をしていた。床が動く仕掛けまであったはずだ」
「知っているのか」
「子どもの頃、見に行ったことがある。出口を探す遊びで、案内係が壁の裏から客を誘導していた。今は閉鎖されたと聞いているが、設備が残っているなら、札の実演には都合がいい」
美波は右手を動かしかけて痛みに顔をしかめ、左手で固定具を押さえた。俺が声をかける前に、彼女は苦笑した。
「心配するな。剣を持つつもりはない。相馬に聞いてみろ。劇場を使うなら許可が要るし、観客を地下へ入れるなら避難経路も確認されるはずだ」
ギルドに戻ると、相馬さんは会議の途中だった。瀬川さんに事情を説明して待っている間、受付の隅に置かれた掲示板が目に入った。そこには、灰鳥商会の講習会を紹介する小さな広告が貼られていた。
「ギルドの掲示板にも出ているんですか」
「貸し会場の案内として受け付けたものです」と瀬川さんは答えた。「技能の認定や推奨ではありません。ただ、こうして見ると誤解される書き方ですね」
広告には、ギルドの紋章に似た円形の印が印刷されていた。よく見ると羽根の模様で、正式な紋章とは違う。だが、通りすがりに眺めるだけなら区別しにくい。
「これを見て、ギルドが認めたと思う人もいそうです」
フェナの指摘を聞き、瀬川さんは広告をいったん外した。相馬さんが来るまでの間、俺たちは札を買った人が何を信じているのか、実際に聞いてみることにした。
市場の入口で、さっき列を抜けた男性が座っていた。彼は自分から声をかけてきた。作業服の袖口が擦り切れており、膝の上には包帯を巻いた左手が置かれている。
「俺はあの札を買おうとしていた。あんたが本人なら、少し聞いてもいいか」
「もちろんです」
「うちの弟が去年、地下採掘場で迷ったんだ。助かったけど、今でも一人で暗い場所に入れない。俺が付き添える日はいい。けど、仕事を休み続けるわけにもいかない」
男性は硬貨の入った袋を握りしめた。
「札があれば安心できるなら、安い買い物だと思った。説明を聞いて、ただの飾りかもしれないと思ったが、あんたの名前が出たから……。本当に少しでも役に立つなら、買ってやりたいんだ」
俺はすぐに否定できなかった。札を売る側の言葉はおかしくても、買う人の事情まで間違いだとは言えない。弟を暗い場所へ戻したいのではなく、弟が自分で仕事を選べるようにしたいのだろう。
「俺の《帰り道》は、俺が帰る方向と道筋を知る能力です。札に移せるものじゃありません。弟さんの不安が軽くなる道具は、ほかにあるかもしれませんが、あの札に同じ力があるとは言えません」
「そうか」
男性はうつむいたが、怒りは見せなかった。しばらくして、膝の上の包帯を指でなぞる。
「弟は、道が分からないのが怖いんじゃないのかもしれん。前に閉じ込められた時、無線で『大丈夫、すぐ出られる』と言われ続けたのが嫌だったと言っていた。誰も本当のことを教えてくれなかったんだと」
フェナは男性の隣に腰を下ろした。
「私も怖い場所では、何が怖いか聞いてもらえると助かります。『大丈夫』だけだと、どこまで大丈夫なのか分からないから」
男性は初めて少し笑った。彼の名前を聞こうとして、俺はやめた。今日は弟の話をしてくれただけで十分だ。帰る道を買うつもりで来た人が、帰る道とは別の話をしてくれたことを、俺は忘れたくなかった。
男性と別れたあとも、俺はすぐにギルドへ戻る気になれなかった。露店の向かいにある修理屋で、古い方位磁針を売っているのを見つけたからだ。店主は灰鳥商会の札を一目見て、苦い顔をした。
「見た目だけはよくできてる。けど、方位磁針なら北を指す針が必要だ。あれには針も目盛りもないだろう」
「魔法の道具ではないそうです」とフェナが言った。
「じゃあ何が動くんだろうな。持ち主の気持ちか?」
店主は冗談めかしたが、俺は笑えなかった。彼は棚から掌ほどの真鍮の円盤を出し、台に載せて針を動かした。北を指すまで数秒かかる。さらに鉄の工具を近づけると、針は目に見えてずれた。
「これだって万能じゃない。鉄鉱脈の近くや魔力の濃い場所じゃ信用できん。だから地図と地形を見て、複数の手がかりで確かめる。道具の説明をするときは、使えない条件を先に教えるもんだ」
俺はその言葉を覚えておこうと思った。道具が不完全なのは仕方がない。問題は、使えない条件を知らないまま持ち出してしまうことだ。
「店主さん、あの商会は前からこの辺りで売っていたんですか」
「一週間ほど前からだよ。初日は安い試供品を配っていた。使った人の感想を集めると言ってね。昨日から急に値段が上がった。地下回廊の実演を見れば納得できる、だとさ」
「試供品を受け取った人の中に、実際に地下へ入った人は?」
「そこまでは知らん。ただ、若い配達人が『試験の手伝いを頼まれた』と話していたな。人が迷う様子を見て、札の効果を確かめるんだとか」
フェナは手帳を開いたが、店主は彼女を制して言った。
「名前を聞かれても、その子のことは勝手に教えられないよ。仕事を引き受けたなら、事情があるだろうから」
「分かりました。私たちも、無理に聞きません」
フェナは素直に手帳を閉じた。店主は少し意外そうな顔をしたあと、修理用の小さな真鍮板を一枚取り出した。
「これを見てごらん。縁に切れ込みを入れると、暗い場所でも触って向きを区別できる。だが、切れ込みがどこにあるかを決めた人間と、使う人間が約束していなきゃ意味はない。札に印があるなら、何かを区別するためだろうね」
店主の説明に、フェナの表情が変わった。彼女は先ほど描いた札の角を指でなぞり、何かを確かめるように自分の手帳を閉じた。俺は理由を尋ねたが、彼女は「もう少し見てから話します」と答えた。答えを急かさないことにしたのは、鏡月湖で彼女が手帳を買った日の約束を覚えていたからだ。
市場を抜けると、屋根のある通りに子どもたちが集まっていた。紙で作った迷路を地面に広げ、一人が目隠しをして、ほかの子が声で出口へ誘導している。目隠しの子は「右だ」と言われて右へ進み、すぐに紙の壁を踏んでしまった。
「右って、どっちの右だよ!」
「お前から見て右だってば!」
子どもたちが笑い合う。フェナもつられて笑ったが、俺は足を止めた。迷路を作った子が入口の向きを変えると、さっきの指示はもう役に立たない。誰かが正しいと思っている言葉でも、立っている場所が違えば意味が変わる。
「ナオトさん、あの札も同じかもしれません」
「どういうことだ?」
「帰る方向を教えるんじゃなくて、誰かが先に決めた出口へ案内する道具なら……。その出口が本当に外かどうか、札を持つ人には分からないでしょう」
俺は天幕の中で見た札を思い出した。家の形をした刻印は、誰の家でもない。ただ出口の絵があるだけだ。あの絵を見て安心する人にとって、出口がどこへつながるかは大事なはずなのに、商品には何も書かれていなかった。
「相馬さんにその可能性も話そう」
「はい。でも、まだ決めつけないでください。私が見たのは印の違いだけですから」
フェナは自分の考えを話したあと、きちんと留保をつけた。以前なら俺が先に「危ない」と言い、彼女はそれに従っていただろう。今は、彼女が見たものと俺が見たものを別々に持ち寄れる。そんな小さな変化が、露店の騒ぎで重くなっていた気持ちを少し軽くした。
午後、相馬さんが会議から戻った。露店の件を聞くと、すぐに商会の登記と劇場の使用許可を調べ始めた。柳瀬という営業責任者の名前も控え、消費者窓口へ照会する手続きを取る。
「違法だと決めつけるのはまだ早い」と相馬さんは言った。「単なる方位具として売っているなら、それ自体を止める理由はない。ただし、能力者本人が関与したように誤認させているなら、話は別だ」
「名前を外すようには伝えました」
「記録しておく。口頭の抗議だけだと、後で言った言わないになる。こちらから正式に申し入れる」
相馬さんは広告を机へ置き、羽根の印を拡大鏡で眺めた。
「この図案、見覚えがあるな。劇場の旧い案内板に使われていた印に似ている。商会の紋章だと説明されているが、偶然かもしれない」
「劇場で実演する理由があるんでしょうか」
「今日の夕方、建物の安全点検が入る。そこで設備の現状は分かるはずだ。久世、お前は抗議した当事者だ。調査の邪魔になるようなことはするなよ」
「分かっています。でも、実演を見に行くことはできますか」
「公開の催しなら止めはしない。ただし、現地で無理に潜り込むな。フェナにも、選ぶ権利がある」
フェナは頷いたものの、すぐには返事をしなかった。手帳を開き、何行か書いてから顔を上げる。
「私は行きたいです。札を買った人が何を見せられるのか、自分で確かめたい。でも、危ない場所なら途中で帰ります」
相馬さんはそれを聞いて、紙に短く書きつけた。俺たちの意向ではなく、劇場側の説明と点検結果を先に確認するという。結局、正式な入場の可否は明日まで保留になった。
帰り道、街の広場では夕市の準備が始まっていた。屋台の柱に灯りがつき、仕事を終えた人たちが家族のために食べ物を買っていく。フェナは焼き栗の店の前で足を止めたが、財布を開かなかった。
「今日は買わないのか」
「今は、手帳に書きたいことがあるんです。栗はまた今度にします」
彼女は橋の欄干に肘をつき、夕日を受けた川を眺めた。水面の反射を見ているのかと思ったら、手帳の頁に小さな札の絵を描いていた。家の刻印へ伸びる線の下に、別の線がもう一本ある。
「それは?」
「露店の札です。あの人が持っていた札、下の角に小さな切れ込みがありました。全部同じ位置なのか、気になって」
「よく見ていたな」
「湖で、光の見え方が場所によって変わる話を聞いたでしょう。札も、見る人が違うと違うものに見えるのかなと思って」
俺は返事を探した。金属の札に道を教える力がないとしても、それを持つ人が落ち着けることはあるだろう。けれど、安心と保証は違う。札の刻印を信じて引き返す機会を逃せば、値段では済まないものを失う。
翌朝、灰鳥商会から正式な回答が届いた。俺の氏名を使った宣伝は停止する。ただし、商品自体の販売と実演は予定通り続ける。実演では「出口を見失っても帰還保証札が正しい方向を示す」と説明するという。
相馬さんからの連絡には、もう一枚、劇場の点検報告の写しが添えられていた。地下の可動床は長年使われていないため停止状態、観客が入れるのは一階の客席と舞台前の通路だけ。地下迷路を使った実演は許可されていない。
ところが、商会の招待券には、はっきりと「地下回廊体験」と印刷されていた。
俺はその文字を見て、昨夜から残っていた違和感の正体に気づいた。あの札が示すものを知りたいのは、商品を疑っている俺たちだけではない。弟のために札を買おうとした男性も、同じ場所へ行くかもしれない。
「フェナ、相馬さんに連絡する。俺たちだけで確かめる話じゃなくなった」
「はい。でも、ナオトさん」
彼女は自分の手帳を開き、昨日描いた札の絵を見せた。小さな切れ込みのそばに、丸い点が三つ描き加えられている。
「これ、たぶん傷じゃありません。露店の奥に並んでいた札は、点の数が違いました。人によって違う札を渡しているのかもしれません」
俺は紙を近づけて見た。三つの点と切れ込み。方角を示すだけなら、こんな細工は要らないはずだ。どうして買う人ごとに違う印をつけるのか。説明を求める相手は、露店の柳瀬だけでは済まなくなっていた。




