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ハズレスキル《帰り道》しかないF級探索者、遭難したS級パーティを全員連れて帰ったら救難依頼が殺到しました  作者: ころもぐら


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第193話 二つの月を消す人

朝食を終えると、榛沢さんは予定通り湖へ出ないことを確認した。窓の外には昨日より広い水面が戻り、石段のあった場所は波の色さえ変わらない。俺たちは救命具ではなく雨具を持ち、南岸の集落へ向かった。古い航路図を見せてもらうため、浦賀さんが村の人に話を通してくれていた。


 湖沿いの道を歩きながら、フェナは昨日覚えた歌を小さく口ずさんだ。同じ節を二度繰り返すところまでは覚えているが、その先になると鼻歌に変わる。浦賀さんは隣で聞き、何度か続きを言いかけては首をひねった。


「爺さんが歌っていた時は、もっと長かったはずなんだ。舟を出す前と戻ったあとで、言葉が少し違った気もする」


「同じ歌を二回歌うんですか」とフェナが尋ねた。


「たぶんな。出る時の歌は覚えている。戻る時の歌は、俺が子どもの頃にはもう誰も大きな声で歌わなくなっていた」


 集落は小さな丘の上にあり、石造りの家が湖へ向かって並んでいた。軒先には網と乾いた葦が吊られ、細い道を猫が横切る。観光客向けの店は一軒だけで、窓には鏡月湖の絵葉書が飾られている。俺が市場で見た二つの月の絵もあったが、こちらの絵では月の位置が少し違っていた。


 浦賀さんが案内したのは、集会所の奥にある資料室だった。鍵を開けてくれた年配の女性は、古い帳面を見せる前に、俺たちがどこまで調べるつもりなのか尋ねた。榛沢さんは調査の目的と、昨日石段を途中で引き返したことを説明した。


「塔の中へは入っていません。水位が上がり始めたので、今日も湖へは出ません。資料を見せていただけるなら、まず村の方が残した記録を読みたいんです」


 女性は少し驚いた顔をした。「塔に入れなかったのに、ここまで来たんですか」


「塔の仕組みを考えるには、湖で暮らした人の記録が必要だと分かりました。許可をいただけなければ、ここで引き返します」


 しばらくの沈黙のあと、女性は棚から木箱を一つ下ろした。箱の蓋には、丸い印が二つ並んでいる。片方は濃く塗られ、もう片方は輪郭だけが残されていた。


「昔の研究者は、塔の図面だけ写して帰りました。村の人が何に使っていたかを聞いた人は少なかったんです。今日は帳面も読んでください。ただし、傷んだ紙を持ち出すことはできません」


 榛沢さんは丁寧に礼を言い、机の上へ白い布を敷いた。鹿島さんは窓を閉め、風で紙がめくれないようにした。俺とフェナは少し離れた席に座り、最初の帳面が開かれるのを待った。


 そこには船の名前と出航時刻、積んだ荷の種類が記されていた。紙は黄ばんでいたが、字は思ったより読みやすい。ある頁では一日に六隻の舟が出て、戻った欄には五つだけ印がある。俺が息を止めると、女性はその頁を指した。


「一隻は翌朝戻ったんですよ。昔の人も、毎日同じ時刻に帰れるわけではありません。湖が荒れれば、対岸で一晩待つこともありました」


 俺は少し恥ずかしくなった。帰還の印がないと、すぐ事故を想像してしまう。けれど、舟の仕事には寄港先があり、泊まる場所があり、戻る日を変える選択もある。数字だけを見て誰かの運命を決めることはできない。


 フェナは別の頁に目を留めた。「ここ、丸が二つあります。さっきの箱と同じです」


 女性は頷き、帳面の末尾を開いた。そこには古い言葉で短い歌が書かれている。榛沢さんが慎重に読み上げると、浦賀さんは途中から節を合わせた。


「一つの月は岸を呼ぶ。二つの月は舟を止める。帰る灯りを数え終えたら、夜の月を一つに戻す」


 フェナが顔を上げた。「二つの月を消すんですか」


「消すのは月じゃない。灯りだろうね」と女性が答えた。「うちの祖母は、湖の真ん中に二つの灯りが見える晩は、浅瀬の外へ回れと言っていました。灯りが重なって一つに見える場所は危ない、とも」


 榛沢さんはすぐに図面を出し、昨日見つけた南岸の石壁と塔の位置を結んだ。二つの丸は金属板の支柱の位置と一致する。塔の上に吊られた板が岸の灯りを反射し、舟から見た角度によって二つの光の間隔が変わる仕組みだった可能性が高まった。


「一つの光だけなら、霧や波で位置を見誤ることがあります。二つの光の見え方を比べれば、浅瀬へ近づいているかどうかの手がかりになる。そう考えると、絵に二つの月が描かれている理由が説明できます」


「じゃあ、塔は月を見るためだけの場所じゃなかったんですね」と俺が言った。


「少なくとも、舟の帰りを助ける役割があったかもしれません。ただ、まだ推測です。実際にどの角度で光が見えたのか、古い装置が残っているのかを確かめなければ、断定はできません」


 榛沢さんは嬉しそうだったが、結論を急がなかった。研究者が新しい発見に出会った時の顔を、俺は初めて近くで見た気がした。昨日、石段を渡れずに戻った時の落胆とは違い、今は机の上の古い紙だけで、彼女の目が明るくなっている。


 資料室の女性は、もう一つの木箱を開けた。中には丸い金属片が二枚あり、片方には細かな傷がついている。表面は黒ずんでいたが、角度を変えると窓の光を弱く返した。


「塔から持ってきたものではありません。昔、岸の祠に置かれていた道具の一部です。子どもの頃は、これで遊ぶと叱られました。夜の灯りを返すためのものだから、昼間に光らせてはいけないと」


 浦賀さんは金属片へ顔を近づけ、祖父が舟の舳先に似た板を付けていたことを思い出した。反射した光を岸へ返すためだったという。塔が岸からの光を舟へ送り、舟も光を返すなら、見張りの人は湖上の位置を知ることができたかもしれない。


「だから『帰るものを数えよ』なのか」と俺がつぶやいた。


「そうかもしれません」と榛沢さんは答えた。「帰ってくる舟の灯りを数え、最後の一隻が戻ったら、塔の灯りを消す。天文台の文字だと思っていたものが、湖の仕事の手順だった可能性があります」


 フェナはしばらく黙っていた。彼女は普段、人数を確かめる時に一人ずつ顔を見る。けれど、湖の向こうにいる人は見えない。遠くの小さな灯りを数えることが、ここでは誰かの帰りを待つ方法だったのだ。


「灯りが一つ足りなかったら、どうするんでしょう」とフェナが尋ねた。


「すぐに湖へ出たわけではないと思うよ」と資料室の女性は言った。「風を見て、対岸へ知らせを送り、どこで泊まっているか確かめたはずです。戻っていないからといって、必ず困っているわけじゃない。待つのも仕事だったんでしょう」


 俺はその言葉に頷いた。救難班にいると、連絡がないことを危険の兆候として考える。もちろん確かめる必要はある。だが、確かめる方法は一つではないし、助けに行くことだけが正解でもない。湖の人々は、灯りを数えながら、その違いを長い時間かけて覚えてきたのかもしれない。


 帳面を読み終えたところで、資料室の扉が開いた。作業着を着た若い漁師が顔を出し、机の上の図面を見て眉を寄せた。湖の北岸で知らない人が石段を測っていたと聞き、何を調べているのか確かめに来たのだという。浦賀さんが事情を説明しても、彼はすぐには納得しなかった。


「塔が有名になれば、舟を借りたい人が増える。昔もそうだったでしょう。こっちは漁に使う舟しか持っていないのに、断ると不親切だと言われるんです。研究のためなら何をしてもいいと思っている人がいる」


 榛沢さんは彼の言葉を遮らなかった。図面を閉じ、昨日の調査で石段を途中までしか渡らなかったことと、湖面が上がり始めた時点で全員が高台へ戻ったことを説明した。漁師は少し驚いたようだったが、腕を組んだまま話を聞いている。


「じゃあ、塔には何もなかったんですか」


「塔には入りませんでした。だから、中に何が残っているかは分かりません。ただ、こちらの帳面と岸の金属片から、塔が舟の帰りを知らせる役割を持っていた可能性が見えてきました」


「それなら、村の人がずっと言っていたことと同じじゃないですか。外から来た人が『発見した』と言うのは、変じゃないですか」


 榛沢さんは言葉を探すように、一度だけ目を伏せた。俺は研究の世界をよく知らないが、漁師の言うことには理由があると思った。誰かが何世代も使ってきた知恵を、紙に書いた人だけの手柄にしてしまえば、知恵を伝えてきた人たちの姿が消えてしまう。


「おっしゃる通りです」と榛沢さんは答えた。「私は、塔の構造と村の記録を結びつけて考えることができました。でも、光の使い方を伝えてきたのは村の方です。報告書には、その順番で書きます。資料を見せていただいたことも、誰の説明を聞いたかも残します」


 漁師はまだ表情を緩めなかった。「報告書に書かれたら、村の人が困ることもあるでしょう。古い航路を真似して、勝手に湖へ入る人が出るかもしれない」


「詳しい位置は公開しない方法があります」と榛沢さんが言った。「ただ、私だけで決めるつもりはありません。村の方と、湖を管理する人たちの意見を聞いてから決めます」


 フェナは机の端に置いた自分の手帳を見つめていたが、やがて小さく手を挙げた。


「私、湖の魚を描きました。でも、魚がいた石段の場所までは書いていません。見たことを残すのと、誰でもそこへ行けるようにするのは、違うと思ったからです」


 漁師は彼女を見た。「それで、何が変わるんだい」


「私の絵を見た人は、きれいな魚がいることを知れます。でも、危ない場所へ行くための道案内にはならないと思います。全部を隠さなくても、全部を教えなくても、伝えられることはあるんじゃないでしょうか」


 フェナの声は大きくなかった。相手を説得するために用意した言葉でもないだろう。自分が手帳に何を残したいか考えた、その続きを話しているように聞こえた。


 若い漁師はしばらく黙り、やがて資料室の女性へ向き直った。「俺は、勝手に決められるのが嫌なんです。昔の歌も、灯りの話も、俺たちが毎日いる湖のことだから」


「それなら、あなたも話し合いに入っておくれ」と女性は言った。「反対する人の話を聞かないまま、村の意見がまとまったことにはできないよ」


 漁師は頷き、戸口の脇へ椅子を運んだ。俺はその様子を見て、今日ここで何かが解決したとは思わなかった。報告書の書き方も、地図を公開する範囲も、これから相談しなければならない。けれど、反対していた人が席を立たずに残ったことは、話を続けるための大事な変化だった。


 昼前、榛沢さんは資料室の女性に、金属片と帳面を写真に撮らせてほしいと頼んだ。女性は少し考え、村の名前と資料の保管場所を必ず記すこと、公開する前に村へ内容を見せることを条件に許可した。榛沢さんはすぐに承諾したが、さらに一つ質問した。


「石段と塔の詳しい位置も、研究報告に載せてよいでしょうか」


 女性の表情が曇った。「そこは相談させてください。昔、珍しい石を拾おうとして、岸の網を壊した人がいました。塔の話が広まれば、今度は湖へ勝手に入る人が出るかもしれません」


 榛沢さんは地図を畳んだ。研究成果を発表することと、危険な場所へ人を呼び寄せることは、同じではない。俺たちが塔へ入れなかった事実も含めて、慎重に伝える必要がある。


「位置を伏せた報告と、専門機関だけが見られる詳細図を分けます。村の方が不安に思う点を、先に聞かせてください」


 女性はようやく表情を和らげ、湖の漁期や岸の通行について説明し始めた。榛沢さんは一つずつメモを取り、俺たちにも意見を求めた。俺は自分の能力の説明より、湖の道が見えたからといって歩けるわけではないことを伝えた。フェナは泳げない人にも分かる注意書きが必要だと話し、鹿島さんは護衛がいても水位の変化を止められないことを補足した。


 話し合いが終わるころには、窓の外に薄い日差しが戻っていた。資料室の女性は俺たちを見送りながら、浦賀さんに歌の続きを教えた。出航の歌は舟を送り出すためのもので、帰還の歌は見張りの人が灯りを消す時に歌ったのだという。


「昔は、最後の舟が戻るまで、誰かが岸に残っていたんだよ。灯りを消すのは、もう待たなくていいという合図だった」


 浦賀さんは何度か節を繰り返し、ようやく最後まで歌えるようになった。フェナも小さな声で合わせる。歌詞は難しくなかったが、誰が歌うかによって意味が変わるように感じた。舟に乗る人には帰るための目印であり、岸に残る人には待ち続けるための約束だったのだ。


 集落を出る前、フェナは土産物の店で小さな手帳を見つけた。水に濡れても字が滲みにくい紙を使っているという。値段を確かめると、彼女は自分の布袋から硬貨を数え、俺に相談せず店主へ渡した。


「湖で見たものを、忘れないうちに書いておきたいんです。昨日の魚も、今日の歌も」


「いい買い物だな。俺にも見せてくれるか」


「書き終わったら。でも、全部は見せないかもしれません。自分だけで覚えておきたいこともあるので」


 俺は少し驚き、すぐに頷いた。彼女が自分で選んだ皿や花と同じように、手帳の中身も彼女のものだ。俺が知っていることと、彼女が知っていることが全部同じである必要はない。


 帰りの馬車が来るまで、俺たちは湖の見える丘で待った。榛沢さんは持ち帰った写真を整理し、今後の調査計画を考えている。次に石段が現れる時期を確かめるには、地上からの水位観測を続けるしかない。塔へ入ることを急がず、まず湖の仕組みを知る。彼女はそう決めたという。


「久世さん、今回はあなたの能力を使う場面が少なかったですね」と榛沢さんが言った。


「そうですね。石段を渡った時、帰る方向は分かりました。でも、それ以上のことはできませんでした」


「私はそれでよかったと思います。あなたに帰路を尋ねる必要がなかったのは、ほかの手段が機能していたからです。次に調査する時も、同じ状態を作りたい」


 鹿島さんが頷いた。「危ない時だけ役に立つ人間がいるより、危なくなる前に止められる人間がいる方がいい。護衛としては、仕事が少なくて助かった」


 浦賀さんは湖面を見つめ、少し笑った。「俺は船を出さずに済んだ。船頭が舟を出さないで報酬をもらうなんて、変な話に聞こえるかもしれんが、今日はそれでいい」


 俺は三人の言葉を聞き、仕事の成果を何で測るのか考えた。塔の中へ入らなかったことを失敗だと言う人もいるだろう。けれど、石段の危険を知り、古い歌の意味に近づき、村の人と次の調査の約束を結べた。それらは、誰かが危険を冒して遺物を持ち帰るより、ずっと長く残るかもしれない。


 フェナは丘の草に腰を下ろし、新しい手帳へ最初の一行を書いた。俺が何を書いたのか尋ねると、彼女は少し迷ってから、頁の端だけ見せてくれた。そこには「二つの月は、帰る人を急がせないための光」と書かれていた。


「昔の人が本当にそう考えていたかは、分かりません」とフェナが言った。「でも、私はそう思いました。帰りたい人を待つのも、戻るのを決めるのも、急いでいいことばかりじゃないから」


 俺は彼女の字を見つめた。研究の結論として書くなら、証拠が足りないだろう。けれど、フェナ自身が湖で感じたこととしては、誰にも直す必要がない。彼女は自分の言葉を残すために、手帳を買ったのだ。


 馬車が丘へ上がってきた。荷物を積み込む前に、浦賀さんは岸の見張り台へ向かって手を振った。遠くの小屋から、誰かが白い布を振り返す。湖にはもう石段が見えず、塔も水の下に沈んでいる。けれど、見張り台には人がいて、水位を測り、舟の出入りを見ている。その仕事は、俺たちが帰ったあとも続いていく。


 夕方、ギルドへ戻ると、瀬川さんが調査の結果を尋ねた。俺は塔へ入らなかったこと、石段を途中で引き返したこと、村の資料から新しい手がかりが見つかったことを順に伝えた。彼女は少し意外そうにしたが、最後まで聞いてから記録欄へ「調査継続、入湖再計画なし」と書いた。


「美波さんが、久世さんたちが帰ったら連絡してほしいと言っていました」と瀬川さんが付け加えた。「まだ固定具は外せませんが、訓練場では元気にしているそうです」


 俺はその場で端末を開き、「全員帰還。湖にはもう入らなかった」と送った。返事はすぐに来た。「それでいい。今度、湖の話を聞かせろ」。俺は笑って画面を閉じた。


 帰宅すると、フェナは窓辺の黄色い花の隣へ新しい手帳を置いた。青い縁の皿を二枚出し、俺が鍋を温める間に、今日買った小さなパンを切っている。湖の古い灯りについて、まだ分からないことはたくさんある。塔の仕組みも、地下の流路も、いつか誰かが確かめるだろう。


「ナオトさん」とフェナが呼んだ。「私、次に知らない場所へ行く時は、帰る道だけじゃなくて、そこで暮らしている人の話も聞きたいです」


「俺もそう思う。帰る場所は、人によって違うからな」


「はい。それに、帰らないと決める人もいるんですよね」


 俺は鍋の火を弱め、彼女の方を向いた。鏡月湖の石段は水の下へ消えたが、そこへ行ったことまでなくなったわけではない。見えなくなった道の先にも、誰かが暮らし、歌い、舟の帰りを待っている。俺の《帰り道》が教えてくれるのは、あくまで自分が帰る方向と道筋だけだ。けれど、どこへ帰るかを決める人の声なら、俺はこれからも聞いていける。


 フェナは皿を並べ終えると、新しい手帳をそっと閉じた。頁の間には、湖の絵葉書が一枚挟まっている。二つの月が描かれたその絵を、彼女はもう怖い話だとは思っていないらしい。俺たちは湯気の立つ夕食を囲み、浦賀さんに教わった歌の続きを、二人でゆっくり口ずさんだ。



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