第192話 水面より低い空
翌朝の鏡月湖は、昨日と違う色をしていた。薄い霧の下で水面が鈍い銀色に光り、岸から湖心へ向かって濡れた石段が一列に伸びている。遠くから見れば、湖の上に誰かが細い道を置いたようだった。だが、近くへ寄ると段差の高さは揃わず、ところどころ石の角が欠けている。歩きやすい道ではないことが、渡る前から分かった。
浦賀さんは水位計の前で腕を組んでいた。目盛りは昨夜より下がっているが、下がり方は予想より緩やかだという。風向きと水温を測った榛沢さんが記録帳を閉じ、全員に今日の行動時間を説明した。
「石段の露出は十分ではありません。塔まで歩くかどうかは、最初の二十段を見てから決めます。湖面が今の目盛りから指二本分でも上がったら、調査を中断します」
「指二本分でそんなに変わるんですか」とフェナが尋ねた。
「一段ずつの高さが低い場所では、足場が連続して水に沈みます。渡る時に見えていた石が、戻る時にも見えているとは限りません」
浦賀さんは自分の長靴の底を見せ、苔を踏むと滑ることを説明した。彼は船頭だが、石段の調査にも何度か立ち会っているらしい。危ない箇所には細い旗を立て、戻る時の足場を間違えないようにする。ただし旗が残っているからといって、そこが安全だと保証できるわけではない。
俺たちは救命具を着け、岸で互いの留め具を確認した。鹿島さんは槍ではなく短い防護棒を持ち、手を空けるため荷物を小さくまとめている。戦うためではなく、足場が崩れた時に誰かを支えるためだと説明してくれた。美波がいないことを俺は少し心細く感じたが、彼女が休むと決めた理由を思い出し、その不安を口に出す代わりに、自分の荷物の重さを確かめた。
「フェナ、行けそうか」
「怖いです。でも、今は行きたいです。もし足が動かなくなったら、戻ると言います」
「分かった。俺も無理だと思ったら言う」
榛沢さんは五人を一度見渡してから、調査の開始を告げた。先頭は浦賀さん、次に鹿島さん、榛沢さん、フェナ、俺の順。帰りに誰が最後尾になるかも決めてあり、途中で勝手に入れ替わらない。俺の《帰り道》は帰る方向を把握する能力だが、石段の硬さも、水の深さも教えてくれない。今はそれを何度も言葉にするより、皆が自分の役割を果たすのを見ていたかった。
最初の十段は岸の土に半分埋まっていた。そこを越えると、石の両側に水が見えるようになる。波が段の角へ当たり、透明な泡を残して引いていく。浦賀さんは竿で前の石を押し、ぐらつきがないことを確かめてから足を乗せた。俺たちは一人ずつ同じ場所を踏んだが、足の大きさが違うため、同じ位置でも感じ方は違った。
フェナは小さな足で段の中央を探し、俺が近づきすぎないよう手を上げた。昨日、怖くなったら袖をつかむと言っていた彼女が、今日は自分で距離を決めている。俺はその合図に従い、少し離れて歩いた。
「ナオトさん、足元に小さな魚がいます」
覗くと、段の隙間に青い背をした魚が群れていた。光を受けるたび鱗が白くなり、水面には別の空が小さく揺れる。榛沢さんは魚の種類を知っていたが、観測施設と関係があるかどうかは分からないという。彼女は写真を一枚撮り、足を止める時間を短くするため、説明の続きを岸へ戻ってからにしようと提案した。
二十段目で、石段は一度途切れていた。幅は大人が一歩で越えられそうなほどだが、下には深い水があり、石の端も崩れている。浦賀さんは竿を差し込み、底まで届かないことを確かめた。
「ここは渡れない」と彼は言った。「昔の図面には、木の板を置く場所として描かれている。今は板も固定具もない」
榛沢さんは塔の方を見た。まだ百歩ほど先にあり、石段の上に丸い台座が見えている。目の前で引き返すことを惜しむ表情だったが、彼女はすぐに地図を畳んだ。
「予定通り、ここで終わりにしましょう。外側の測量だけでも、去年の資料と比較できます」
その時、鹿島さんが左手の水面を指した。浅瀬の方に、石段とは別の平たい石がいくつか現れている。古い図面には載っていないが、自然に並んだ岩にも見えない。浦賀さんはそちらへ竿を伸ばし、石の位置を確かめた。
「昔の渡し場の足場かもしれん。ただ、今の水位では続きが見えない。行くなら岸から回って調べるしかないな」
榛沢さんはすぐに頷かなかった。ここから塔へ近づく道を見つけたと思いたい気持ちが、顔に出ていた。けれど、彼女は図面の端に新しい印をつけるだけにとどめた。
「岸へ戻りましょう。今見えたものを、帰ってから整理します」
俺は帰る方向を意識した。石段の列を辿って岸へ向かう筋道が浮かぶ。けれど、最初に来た時と同じ足場が残っているかどうかは、俺には分からない。浦賀さんが竿で石を確かめ、鹿島さんが後ろを見守る。俺は最後尾のまま、一段ずつ戻った。
岸へ着くと、フェナは救命具の留め具を外す前に、俺の顔を見た。
「私、塔まで行きたかったです。でも、行けないと決まった時、少し安心しました」
「俺もだよ。残念なのと、安心したのは両方ある」
榛沢さんは聞こえていたらしく、苦笑した。「研究者としては残念です。でも、今日は最初の二十段の状態が分かりました。それを調べるために来たのですから、失敗ではありません」
鹿島さんは岸の石へ腰を下ろし、防護棒を脇へ置いた。彼はずっと無口だったが、フェナが手帳へ今日の歩数を記そうとしているのを見ると、最初の段から何度立ち止まったかを教えてくれた。足場を確かめるための停止が十一回、後続の間隔を整えるための停止が四回。俺は数えていなかったので驚いた。
「鹿島さんは、戦う相手がいなくてもそんなに見ているんですね」とフェナが言った。
「護衛だからな。魔物がいない場所でも、人は転ぶし、道具は壊れる。俺が槍を振るう必要がなかったなら、その方がいい」
「でも、もし私が水に落ちたら、どうするんですか」
鹿島さんはすぐに答えず、浦賀さんを呼んだ。船頭は小屋から輪になった浮き具を持ってきて、乾いた地面に置いた。誰かが落ちた時、近くにいる人が無理に飛び込むと、助ける側まで水に引き込まれることがあるという。
「まず大声で知らせる。岸から届くなら、浮き具を投げる。船を出すかどうかは俺が決める。久世さんの帰る方向が分かっても、水に入っていい理由にはならん」
「私が落ちた人を見つけたら、どうしたらいいですか」とフェナが聞き直した。
「場所を見失わずに知らせてくれ。怖いなら怖いと叫んでもいい。ただ、助けようとして自分まで飛び込まないことだ」
浦賀さんは岸の砂に線を引き、そこから浮き具を投げる練習を見せた。実際の水には投げず、乾いた場所で届く距離を確かめるだけだった。フェナも一度試したが、輪は思ったほど遠くへ飛ばない。彼女は悔しそうに唇を結び、二度目は足の位置を変えた。それでも線の少し先に落ちただけで、浦賀さんは無理に褒めなかった。
「腕の力だけじゃない。持ち方と立つ場所が大事だ。でも、今は練習だ。実際の場面で届かなければ、別の方法を呼べばいい」
俺も輪を持ってみた。重さはそれほどないのに、思った方向へ飛ばすのが難しい。帰る道を知る能力とは、まるで関係のない技術だった。フェナは俺の失敗を見て笑ったが、すぐに自分の手帳へ「投げる前に人を呼ぶ」と書き足した。
「ナオトさん。私、今日は泳げないことが怖かったんです。でも、泳げなくてもできることを一つ覚えました」
「俺もだ。落ちた人を助けようとして、何も考えず飛び込むのが一番危ない場合もあるんだな」
鹿島さんは防護棒を荷袋へ戻し、俺たちの話を聞いていた。彼が今日、剣や槍を持たなかった理由が少し分かった気がした。強い人がそばにいることより、強い人が何をしないと決めているかを知る方が、俺たちには役に立つ。美波も今、剣を持たずに若い探索者を教えている。二人のやり方は違っても、力を使わない判断を人に見せる点では似ていた。
フェナは救命具を畳みながら、湖の石段をもう一度見た。さっきは一歩進むたびに水が近く感じたが、今は岸にいるからこそ、段の幅の狭さがよく見えるという。俺も同じだった。渡っている最中には目の前の石しか見ていなかった。戻った場所から見直すと、どこで緊張し、どこで安心したかが、別の形で分かってくる。
浦賀さんが小屋へ戻る途中、浅瀬の石のことを思い出したように言った。「南岸には昔の船着場がある。水位が低い時、岸伝いに歩いて行ける。昼まで風が穏やかなら、そっちを見てみないか」
榛沢さんは立ち止まり、条件を聞き直した。南岸へ行く道は陸上にあり、湖へ入る必要はない。旧船着場は崩れかけているが、近づかずに測量できる場所がある。午前の計画が終わったからといって、そのまま無理に次へ進むつもりはないという。
「昼食を取ってから、もう一度判断しましょう。今のうちに水位の変化を確認します」
小屋では温かい汁と硬いパンが用意されていた。俺は濡れた手袋を乾かしながら、窓の外の石段を見た。湖面は静かで、さっき渡れなかった隙間も遠くからは見えない。昨日の絵葉書を思い出すと、あの絵を描いた人も、欠けた段差までは描かなかったのだろう。美しい景色の中に、危険な場所が隠れているわけではない。見せたいものと、見えないものが違うだけなのかもしれない。
食事のあと、フェナは手帳を開き、さっき見た魚を描いていた。青い背と白い鱗を描こうとして、何度も鉛筆を動かしている。俺が覗くと、彼女は絵を隠さず、むしろ見てほしいと差し出した。
「水の中の魚は、上から見ると空を泳いでいるみたいでした。昨日の月も、こうやって二つに見えたのかもしれません」
「絵葉書の人も、同じことを思ったのかな」
「でも、塔の上に二つあるのは変です。水に映るなら、下にあるはずですから」
俺は答えられなかった。フェナは魚の絵の横に二つの丸を描き、片方へ小さな矢印をつけた。彼女が不思議に思っているのは、伝説の怖さではなく、絵の中で光がどこから来ているかということらしい。
午後、俺たちは南岸の古い道を歩いた。湖沿いの斜面には栗の木が並び、落ち葉の下から小さな貝殻が出てくる。今は湖の底になっている場所が、昔はもっと広い岸だったのかもしれない。榛沢さんは地層の境目を指し、長い年月の中で水位が変わってきた証拠だと説明した。
旧船着場へ近づくと、石垣の上に小さな祠があった。誰かが掃除しているらしく、前には新しい花が置かれている。浦賀さんは帽子を取り、短く頭を下げた。
「ここから舟を出していた人たちのための場所だ。事故で亡くなった人だけじゃない。遠くへ行って戻らなかった人や、戻ってきて漁をやめた人も、同じように名前を残している」
「戻ってきた人も、ですか」とフェナが聞いた。
「帰ってきたからこそ、もう舟に乗らないと決めた人もいる。湖を離れるのは、負けたからじゃない。別の暮らしを選ぶこともあるんだ」
俺は祠の横に並ぶ木札を見た。年月で文字が薄れ、読めないものもある。ここでは帰ってきた人と帰ってこなかった人を同じ場所で覚えている。何かを失った人だけを数えるのではなく、選び直した人の名前も残す。その考え方は、俺がギルドで聞いてきた話とは少し違っていた。
榛沢さんは祠の裏に残る石壁を調べていた。壁には丸い穴が二つ開き、その間に細い溝が走っている。穴の縁は磨かれ、何度も金属が触れたような跡があった。
「これは塔の図面にある金属板の支柱と同じ間隔です」と彼女が言った。「塔だけでなく、岸にも同じ仕組みがあったのかもしれません」
浦賀さんは穴を覗き、昔の漁師がここに鏡を置いたという話を聞いたことがあると教えてくれた。夜に帰る舟へ光を返すための道具で、風の強い日は外したという。榛沢さんは図面を広げ、塔と岸の位置を線で結んだ。二つの丸は月を描いたものではなく、光を返す金属板だった可能性が出てきた。
「でも、塔の金属板は湖の中央にあるんですよね」とフェナが言った。「岸から光を当てるだけで、遠くの舟に見えるんでしょうか」
「角度によります。もし塔の板が回転できたなら、岸の光を別の方向へ送れたかもしれません。けれど、それなら何のために二枚あるのか、まだ説明がつきません」
鹿島さんは話を聞きながら、崩れた石垣へ近づく人がいないよう立ち位置を変えた。研究の話に夢中になると、足元への注意が薄れる。俺も図面を覗き込みたかったが、彼が手で示した線より先には進まなかった。
榛沢さんは持参した小さな反射板を穴の前へかざし、浦賀さんに岸の見張り台から光を当ててもらった。太陽は雲に隠れかけていたが、板を少し傾けると、遠くの葦の上に白い点が動いた。フェナはその点を追い、光が届いた場所を手帳へ書いた。
「鏡が動くと、光も動きますね。月が二つあるように見えたのは、光が二つに分かれたからかもしれません」
「その可能性はある」と榛沢さんは答えた。「ただし、今の実験で分かるのは、ここから光を反射できるということだけです。塔の仕組みまで証明したわけではありません」
俺はその慎重な言い方が好きだった。分かったことが一つ増えると、まだ分からないことまで全部解けた気になりやすい。けれど、榛沢さんは新しい仮説を立てるたび、どこまで確かめられたかを区切って話した。
その時、湖の方から低い音が響いた。遠くで太鼓を叩いたような音が一度だけ聞こえ、葦の群れがざわめく。浦賀さんが見張り台へ走り、水位計を確かめた。湖面はわずかに上がり始めている。予報では夕方まで下がるはずだったが、南岸の岩の隙間から泡が上がり、水の流れが変わっていた。
「地下の流路が閉じたのかもしれん。今日はもう湖に近づかない方がいい」
榛沢さんはすぐに調査の終了を宣言し、俺たちを高い道へ戻した。旧船着場の測量も途中だったが、道具はすべて持ち帰れる。俺が振り返ると、午前に渡った石段の先端が、もう水に隠れかけていた。
「早いですね」とフェナが言った。「朝はあんなに見えていたのに」
「そうだな。もし塔まで行っていたら、帰りは船に頼ることになったかもしれない」
「でも、船が出せるとは限らないんですよね」
俺は頷いた。帰る方向を知っていても、そこへ進む手段がなくなれば、能力は助けにならない。今日、榛沢さんが二十段目で引き返すと決めたことの重さを、沈んでいく石を見て初めて実感した。
高台へ戻ると、榛沢さんは濡れた図面を広げ直した。塔へは入れなかったが、南岸の反射板の跡を見つけたことで、観測施設の用途を考え直す必要があるという。彼女は机に二枚の古い絵を並べ、同じ場所に描かれた二つの円を指でなぞった。
「月を二つ見たという伝説は、ただの間違いではなかったのかもしれません。湖の上に二つの光が浮かぶ仕組みが、本当にあったとしたら」
フェナは自分の手帳を開き、青い魚の絵と二つの丸を見せた。「光がある場所を教えるためじゃなくて、光がない場所を教えるためかもしれません」
「どういうことですか」と榛沢さんが聞き返す。
「昨日、浦賀さんが言っていました。灯りを一つだけ信じると、動いた時に困るって。二つあれば、片方が見えなくなった時に、どこを通ってはいけないか分かるのかなと思ったんです」
榛沢さんはすぐに答えず、古い図面へ目を戻した。塔と南岸の祠を結ぶ線の間には、今は湖底に沈んでいる浅瀬が描かれている。もし光の位置を比べることで浅瀬を避けられたなら、観測台は星を見る場所であると同時に、舟を帰すための道具だったのかもしれない。
「面白い考えです。ただ、証拠が必要ですね。明日は湖へ出ません。村に残る古い航路図を見せてもらえるか、相談してみます」
俺は意外に思った。塔へ入れなかったから、明日はもっと早く挑むのだと思っていた。しかし榛沢さんは、湖の水が戻った今、別の場所でできる調査を選んでいる。
夕方、榛沢さんは明日の予定欄に大きく「入湖なし」と記した。小屋の壁にその紙を貼ると、浦賀さんは何も言わず頷いた。湖を相手にする仕事では、明日やることより、明日やらないことを先に決める日もあるのだろう。フェナは貼り紙を見てから、自分の手帳にも同じ言葉を書いた。
夕食の席で、浦賀さんは古い歌を口ずさんだ。舟が岸へ戻る時に歌うもので、同じ節が二度繰り返される。フェナが意味を尋ねると、彼は歌詞の一部を思い出せず、苦笑しながら「爺さんに聞けばよかった」と言った。
「忘れた歌も、帰ってくるんでしょうか」とフェナが言った。
「誰かが覚えていればな。俺は半分しか知らないが、村には続きを知っている人がいるかもしれん」
夜、窓から湖を眺めると、石段はすっかり消えていた。水面には月が一つ、その下に揺れる光が一つある。俺たちは塔へ辿り着かなかった。それでも、今日見た魚や石壁や、フェナが口にした疑問は、誰かの帰り方を考えるための手がかりになっている。
寝る前、端末に美波から短い連絡が入った。再診の結果、手首の固定はしばらく続くが、回復は順調だという。「無理に湖へ入るな」と最後に添えられていたので、俺は「今日は途中で戻った」と返した。しばらくして届いた返事は「それなら上出来だ」の一行だけだった。
俺は画面を閉じ、隣の部屋から聞こえるフェナの鼻歌に耳を澄ませた。浦賀さんの歌の最初の節だけを、彼女は何度も繰り返している。続きを知らないまま歌うことが、今夜は不思議と心地よかった。明日、誰かが続きを教えてくれるかもしれない。湖へ行かなくても、まだ調べられることはたくさんあった。




